一 始末
黒河省呼瑪県、大興安嶺山中
騎馬三騎と馬車二両の一隊は、金山鎮に向かって大興安嶺を下っていた。日が高くなりだいぶ明るくなってきたが、国境警察隊の本部に着くにはまだ一時間はかかる。ここで、隊長の大木吉武警尉は伝騎を出すことにした。帰り道でも士気は維持されていたが、その乗る馬は急いている。一騎出して休憩をとれば、部下は落ち着くし、それは馬にも伝わるだろう。
馬は臆病で敏感な動物であり、人と同じように気圧や標高の変化も感じる。急行した出動時と違って、任務が完了した今はゆっくりと下る道がいい。近くには木材の山出しのために造った広い道があるが、急勾配だ。黒竜江の支流の呼瑪爾河に向かってほぼ一直線に造られているから、特に下りは危険である。機械の使用が前提で、馬搬は考慮されていなかった。
馬を降りた隊長に、部下の一人が煙草を差し出す。笑いながら一本を抜いた。ずいぶん久し振りのような気がする。侵入したソ連兵が営林処宿舎を占領したとの急報で出動したのは、昨日の夜明けだった。それから見聞したことは、大木の想像をはるかに超えていた。これまで大木は自分のことを人並みには利口だと考えていたが、今はただの木偶の坊、独活の大木ではないかと思い始めていた。
大木は路傍の石に腰を下ろして、深く煙を吸い込んだ。そして、この二十四時間を振り返る。
急報をもたらしたのは近くの義勇隊開拓団の宇田団長代理だった。山奥の宿舎を占拠したソ連軍特殊部隊一〇人は、北の連金辺りで黒竜江を渡河し、大興安嶺山中を踏破してきたものらしい。大木警尉と宇田団長は、国境警察隊と開拓団員で宿舎を監視下におき、本隊の到着を待った。騎兵一五〇名からなる本隊が到着したのは夕方だった。
日満露の混成部隊は全員が満州国軍の制服を着用していたが、命令と号令はすべて日本語だった。およそ一時間の下見の後に宿舎へ突入したようだ。発砲も目立つ物音もなかったからよくわからないが、八名の捕虜を捕縛して作戦は完了した。二人が脱出したという。本隊は、夜を徹して捕虜の取調べにあたったらしく、頻繁に無線を使っていた。
その間ずっと、大木は宇田と共にいた。宇田はいろいろと教えてくれた。ソ連軍の満州侵攻が数日後に迫っており、それに先んじて破壊工作員を送り込んだのだと。
「なるほど、わかります。しかし、破壊するようなものがここにありますかね。鉄道も電話局もない」
「相変わらず大木さんは聡いです。しかし視野を限定されているようだ。工作活動の対象は施設だけではなく、人もあります。それに一〇人もいるのだから此処だけとは限らない」
「人というと、要人の暗殺とか誘拐ですか?」
「侵攻となれば戦争です。大勢の人が死ぬ。数人を攫ったり殺したりしても、平時ほどの意味は持たない。師団長や参謀を狙うのならば、それこそ砲弾を撃ち込めばいい。工作員の目的は軍の後方の妨害と撹乱です」
「ああ、軍に協力する国民や生産現場を狙うのですね。東北抗日連軍の復活か」
「その通りです。あの中に目標を指示する連絡員がいる筈です。侵攻作戦の一部を知っているかもしれない」
かつて反満抗日を遂行した東北抗日連軍は、中国共産党の下部組織で一路軍、二路軍、三路軍からなっていたが、関東軍の討伐により三年前に壊滅した。
「黒河や孫呉で残党を摘発しましたが、実態はもはや匪賊です」
「軍組織でなくても、山賊や馬賊であっても、関東軍の行動を妨害できればソ連軍の目的には適うのです」
「うむむ」
「戦争です。勝てればいいのですよ」
「うむむ」
「おそらく大物はいません、ソ連側にはね」
「えっ、ソ連側でない者も混じっているのですか。まさか」
「蛇の道は蛇ですよ。中共の者、満州の者、そして」
大木は息を呑み込んだ。諜報というのはそういう世界で、下部組織員は互いを見知っているらしい。ソ連軍特殊部隊の要員の中にも、中共や日満の情報員が潜りこんでいるという。
「それで一発の銃声もなかったのですか」
宇田は黙って頷く。その目は大木を真正面から見据えていた。
「あっ。すると脱出した二人は」
宇田は笑みを浮かべた。
日付が変わった頃、作戦終了と解散が本隊から告げられた。大木は指示されるまま、部下を連れて義勇隊開拓団に入り休息する。門を入ってすぐの建屋の中で暖かい食事が振舞われた。夏とはいっても夜は涼しい。山の中なら一〇度近くまで下がる。西洋風のじゃがいもの煮込みは有り難かった。満腹になると部下たちは思い思いに雑魚寝し始める。
任務は終わったが、まだ本部に帰還する前だ。見張りぐらいは交替で立たせようかと、とりあえず様子を見に外へ出た。義勇隊員が立っていた。答礼を返して外を見上げると、久し振りに晴れ渡って満天の星だ。大木は背伸びをした。振り返ると、国境警察隊が入った建屋には、銃剣を挿した歩兵銃を持つ歩哨が三人ついている。ゆっくりと歩き回っているのは眠気覚ましだろうか。
突然、歩哨の一人が大木の方に向き直り、銃把を握りなおす。誰何の声を発したのは、後から足音が聞こえる前だった。
「誰か」
「団長代理の宇田だ」
「はっ。異状ありません」
「よし」
歩哨は姿勢を解くと、また歩き始めた。宇田は大木を手招きし、先に立った。大木は従う。厩舎のあるその方向は明るく、人が出入りしていた。
「明朝、といっても数時間後ですが、出発の準備を始めています」
「はあ」
「予定外の捕虜で、本隊を分割することになりました。その補充の兵隊と馬です」
「ああ」
真っ直ぐに北へ向かう予定だった本隊は、捕虜を護送するのに別隊を組んだらしい。
手近の小屋に入った二人は、しばらくの間、黙っていた。ランプの火が安定すると、宇田は酒瓶を差し出し、話しはじめた。
「僕はこれから本隊に同行して北へ向かいます。越境はしませんが、帰って来る頃にははじまっているかも知れません。一口どうぞ」
別離の酒と聞いて飲まないわけにはいかない。大木は受け取ると、口にふくむ。白酒ではなくウヰスキーだった。
「それはご苦労様です。ご武運を祈ります」
決まり文句を言って、瓶を返す。宇田は笑って受け取り、一口飲む。
「ほんとうに大木隊長は真面目な方だ。ご承知とは思いますが、情報員でも下で働いている者に自覚はない。彼らとっては小金を稼ぐ手段の一つでしかない。人助けと思ってやってる者も多い。主義主張はおろか、敵味方も意識したことはない。だから、彼方も此方も使う人物は同じとなることも多い」
当たり前のことに、大木はただ頷くだけだ。
「ソ連侵攻を目前にして関東軍の憲兵隊や特務機関の大半は解隊され、特別警備隊に再編成、再配置された。大問題です。それまで培った情報網や人脈が寸断される。特警は軍直轄ですから、軍司令部のない大都市や国境前線が手薄となります」
大木は驚いた。特警の編制は知っていた。が、任務は治安維持や反満・抗日の取締りだから、憲兵と特務を一体化して効率を上げるためのものだと思っていた。宇田の言うとおりであれば由々しき事態だ。ソ連の情報員や中共の工作員を焙り出すには、周到な準備と辛抱強い待機が必要だった。準備だけで少なくとも半年、ふつうは一年かかる。
原田警佐が呼び出されたので、金山鎮の国境警察隊も再編成されるのではないかと思っていた。しかし、配置替えを伴うのならば、やめた方がましだ。こんな辺境でもそれなりの人と人のつながりがある。思わぬところで、河畔の漢人商家と山奥のオロチョン猟師村が繋がっていたりする。単に人員を増やして威容を繕っても、不要な警戒心と反感を生むだけだ。
ふと、馬を飼うのと同じだなと大木は思った。馬は臆病であるから警戒する。攻撃的でないから敏感になる。そして、安寧と平穏を好み、不安と刺激を嫌う。一度嫌われると二度と近づけなくなる。それどころか威嚇されることもある。無理強いすれば、滅多にないことだが、歯や後肢で反撃されることもある。人と馬とを同列に扱うのは不適切で不謹慎でもあると思ったが、大木には得心できた。
宇田が言った。
「任務に忠実で律儀な大木隊長には忘れないでほしいことがあります。下働きの情報員、オロチョンも満人も白露人も、彼らは検挙の対象ではないのです。たとえダブルやトリプルであったとしても」
大木は深く頷き、次の言葉を待った。
黒河省、呼瑪県金山鎮
官舎の中でスマエは夫が吸った煙草の吸殻を煮詰めていた。夫の大木吉武は一日に二箱は吸う。畑の虫除けにするために吸殻はとってあった。葉物は家で作るものだと母に習った。嫁いでしばらくは孫呉や黒河の町中だったから買うことができたし、畑にする庭はなかった。ここでも義勇隊開拓団から野菜は手に入るのだが、毎日とはいかないし、好みもある。官舎の庭には花と葉物野菜を植えていた。
煮詰めるのは毒性を高めるためだ。自決用の毒薬である。煙草の中にはニコチンを主とする毒素があり、濃くすれば致死量に至る。夫は満州国の警官だから、ちゃんとした毒薬の青酸カリが手に入ったが、量には限りがある。もちろん、スマエと二歳になる長女には充分だ。しかし、保管は夫だし、いつ無くなるかわからない。大木は警官としても人が良すぎて、求められれば人に渡してしまうだろう。
いざという時に夫が家にいないのは当たり前で、かといって自決の機会を失いましたでは警官の妻は務まらない。スマエの両親は子供の教育にはうるさかった。おかげで高等女学校まで出してもらえた。良妻賢母であらねばならない。嫁ぐ時に、祖母から懐剣をもらった。使い方も使うべき時も理解しているが、懐剣だけでは自信がない。まず長女に毒を飲ませ、見届ける。それから懐剣を首筋に当てて毒を呷る。そう決めていた。
毒性としては五本分の煙草を水出しすれば充分であると、婦人会の回覧にあった。農薬用には、さらに薄めて使う。しかし、婦人雑誌の投稿欄に、煮詰めて濃くしていた方が確実であるとあった。湯呑みに一杯も飲めないからだそうだ。たしかに、美味しいものではないだろうから、少量がいい。途中で口が痺れて飲みきれないでは、泣くに泣けない。
スマエは、一箱分になるように吸殻を計る。大木は指が焦げるまできっちりと吸うから、並べていては捗らない。湯呑みに詰め込んで一杯が見当だ。これを鍋に入れて、湯飲み一杯の水を加える。半日漬けて置いて、とろ火にかけて猪口一杯まで煮詰める。冷めたら木綿で濾し、ガラスの小瓶に移して栓をする。小瓶は目薬の瓶が丁度いい。栓を確かめたら、糸を結わえて首から提げる。
座敷の方でがさごそと音がした。長女が目を覚ましたらしい。スマエは立ち上がり、手を洗って片づけをはじめる。湯呑みも鍋も、もちろん煮炊き用とは別だが、手が届かないようにしておく。長女には、今日は少し固めのものを食べさせようと思った。軟らかく水気があるものばかりでは下してしまう。人参なら甘味もある。にこにこと、献立を考えながらスマエは座敷に入っていった。




