五 相剋
浜江省哈爾浜、郊外
ボリショイ通りは新市街の中央を東西に貫く大通りで、中央寺院はほぼ中間点にあたる。郵政街の哈特機関長公邸を出た車は左折して通りに入ると、共同墓地のほうへ走った。浜江駅が丘の下に見えるようになるともう郊外で、道沿いの建物はダーチャ風の木造が多くなる。ロシア料理店やロシア式風呂屋も多く、白い煙と共に好い匂いが漂ってきた。
ロシアも満洲も建物は冬を考えて造られてある。密閉をよくして屋内の熱を逃がさないということは、中の匂いもなかなか抜けないということだ。しかし、週末を郊外で過ごすためのダーチャは、自分たちで作るものだから、密閉もそこまで考えない。どちらかというと開放感を追究して、思い切って窓を大きくしたりする。
北満州の夏の日は長い。満洲と日本の間に時差はなく、八月初めの哈爾浜の日の出は5時過ぎ、日の入りは八時である。夜は十時過ぎまでは明るい。今楽しまないとすぐに冬だ、とにかく外に長くいなければと考えるのがロシア人だ。料理店は店頭でシャシリクを焼き、テーブルを並べてお客を誘う。
シャシリクはロシア式の肉の串焼きである。米英で云うバーベキューと対照されるが、本来のBBQは豚か山羊を丸ごと半日かけて蒸焼きにするものなので異なる。むしろ日本の焼き鳥に近いが、肉の大きさがまったく違って、三倍も四倍も大きい。シャシリクは発音しにくいから、シャシリキと呼ぶ日本人は多い。
その料理店も、表に出したテーブルはほとんど埋まっていた。客はロシア人が多く、大勢で笑い喋りながら賑やかに飲み食いしている。上着もシャツも脱いで肌をさらしているのは男だけではない。真っ赤に火照って湯気が出ているのは、隣の風呂屋のバーニャから上がってきたばかりらしい。
店の入り口につけた車から降りた四人は、しかし、久し振りの天気だというのに中に入っていく。せっかくのお日様を浴びなくてどうするのだ。ロシア人たちは日本人の一行を一瞥して、人生の楽しみ方を知らないのだと、大仰に頭を振る。たしかに、まだ日没前の夏の日に、屋内で宴会しようとする輩は変わり者であろう。
甘粕たちは、支配人に案内されて二階の奥の部屋に入った。
「宇部、待たせたか?」
「いや、早めに来て一人で飲っていた。まだ食前酒だ」
「そうか、よかった」
陸軍少将の宇部四雄は甘粕の陸士同期で、独立混成第一三一旅団長だ。軍服のままワインを飲んでいた。
「軍命令が出てな、すまんが長居はできない」
「わかった。知人を紹介させてくれ。旅団長閣下にお酌したいそうだ」
甘粕の後ろから、佐々木、秋草、加茂が出て来る。
「サーさん。いや、笹山さんと、星野さんと鴨志田さんだ」
「旅団長の陸軍少将宇部四雄です」
宇部は機嫌よく言って、お辞儀した。
「これは閣下。はじめてお目にかかります。此度はご苦労様です。安心して居られるのは閣下をはじめとする無敵関東軍のおかげです。ぜひとも一杯注がせてくださいませ」
宇部はちょっと頭を傾げたが、グラスを差し出して酌を受ける。
「うむ、ありがとう。さあ」
「これは、ご丁寧に」
三人は酌と返杯を済ますと、部屋を出て行った。
二人きりになると、宇部が呟く。
「あの三人、サーさん、ホーさん、カーさんだが、どこかで見た気がする」
「気のせいだろ」
「背広だとわからんもんだ。貴様もな」
「そうかあ」
そう答えると、甘粕は眼鏡を外して見せた。宇部が息を呑む。
「ううむ。よく似たものだ」
ロシア料理を指定したのは宇部だった。出て来る料理を器用にナイフで捌き、グラスを取る前にはナプキンで口を拭う。甘粕は感心する。
「どうした。俺だって洋食ぐらいは食えるさ」
「いや、たいしたものだ。てっきり料亭だと思っていた」
「うん、国守の周りは日本料理ばかりでな。ここと同じで綏芬河もロシア人の街なのだが、機会がなかった」
宇部の前職は第一〇国境守備隊長で、東正面の鹿鳴台に駐屯していた。綏芬河の南、東寧との中間あたりだ。
「隊長が敵サンの料理が好きでは士気に関わります、と言われてな」
「ほう、それはたいへんだ」
「とにかく肉の塊が食いたくて。久し振りだ」
「奮進は哈爾浜の衛戍だろ。これから食えるさ」
甘粕は宇部の旅団を略号で呼んだ。
「うん、楽しみだ。ロシア料理はちまちまとしていてなかなか馴染みやすい。昆布だって細く刻んで膾に入っている」
「そうだな。ロシア人は細かく切って食べる」
「それから、このマヨネーズが俺は好きなんだ。米飯にかけるとうまいぞ」
「まさか」
「心配するな。ここではやらんから」
二人とも、軍務のことは深入りしない。なにしろ哈爾浜にはソ連の公館があって、日ソ情報戦の最前線である。国境の情勢が逼迫しているのは承知しているから、なおさらだ。話題は家族のこと、友人のこととなる。
「家族を退げる気になったら、いつでも言ってくれ」
「それこそ士気に障るというものだ。うちはみんな覚悟はできている」
「どうなんだろうな」
「何がだ」
「生かすとしても、女子供だけでは難儀だろう。最後は家族一緒の方がいいのか。いまいち分からない」
「軍人なら一緒の最後だ。中学を終えた男子なら生かしてもいい」
「それも理解できる」
「軍人でも官吏でもなかったら最後まで生きるべきだ。東も北も国境線は数ヶ月は持つ。時間はあるから、早まることはない」
覚悟を決め後始末を済ませる猶予は兵隊が命を懸けて稼ぐと、宇部は言う。
ふと、甘粕が眼鏡を外して拭きはじめた。部屋の中にこもった熱気で曇ったらしい。宇部はまじまじと見つめる。
「ふうむ。昨日の新聞は読んだぞ。先月末にここに来ていたらしい。俺はまだ鹿鳴台にいたが、上村は会ったそうだ」
顔を上げた甘粕は、短く言う。
「生きている」
その言葉に宇部は驚き、さらに凝視する。甘粕は静かに眼鏡を戻した。
「聞くまで言わなかったのは、秘密だからか」
「しばらくはな」
甘粕はざっと事情を話した。
「なるほど。それで貴様が動いているのか」
「上村が会ったのだな」
「そうだが、話は聞いたぞ。待て、食いつくな。今、思い出す」
甘粕は頷いて、宇部のグラスにワインを注ぐ。料理は終わっていたからワインは白で、グラスは細身になっていた。
ぐっと飲んだ宇部は、話を再開した。
「えと、そうだ。昔の綏芬河は、向かいのポグラニーチナヤと一体の街だった。ロシア人は目立つが、満人は平気で越境して来る。今年に入ってから向こうからの売り物が増えた。煙草やマッチだ。こちらからは肉や野菜。去年までとは様変わりだ」
「向こうは人が増えたのだな」
「その通り。ソ連の来襲は近い。そういう話を上村としていた」
上村も同期生だがすでに中将で第四軍司令官、宇部の直属の上官だ。最近の国境線の不穏な動きには注意を払っていたらしく、東正面から異動してきた宇部にはずいぶんと聞き取りしたという。
「上村は数日の内だと言う。俺は黒河や海拉爾のことは知らなかったから、軽率じゃないかとからかった。そしたら怒って捲くし立てたんだ」
「あいつは図星を指されると、途端に怒り出すからな」
「そう、それで竹林の話になった。海軍が外務省を唆している、関東軍が満州でソ連に敗れると有利になるとな」
甘粕は眉間に皺をよせた。一気に結論を言われたようだが、脈絡がわからない。それを見た宇部は身を縮める。
「海軍が外務省を唆すのか。そいつはいい」
甘粕は破顔してワインを注ぐ。受けた宇部は、ほっとして続ける。
「海軍は日本の敗戦を極度に怖れているらしい。このまま敗戦となれば海軍は破滅だと」
連合国に敗れれば日本は滅亡だ、陸軍も海軍もなくなるに決まっている。しかし、宇部は、それとは違う筋の話をしているようだ。甘粕は誘う。
「陸軍はまだまだ戦える。サイパン、硫黄島、比島、沖縄と、米軍の損害は間違いなく増えているぞ」
「そうとも。このまま本土決戦となれば、今次大戦の米軍の損害は南北戦争に匹敵するだろう」
「南北戦争?」
「米国史上最大の損害は内戦の南北戦争だ」
「なるほど。よく知っているな」
「上村の受け売りだ。あいつは開戦直後に俘虜情報局長兼俘虜管理部長に就いた。国際法を勉強して欧州大戦の事例も収集したらしい」
「あ、国際法か!」
「貴様も驚くことがあるのか。そう、国際法だ。残念ながら世界の中心は日本ではない」
甘粕はボーイを呼んで、ワインのお代わりとキャビアを頼んだ。すぐに支配人が来てキャビアの缶を見せる。甘粕が頷くとコックが入って来て、目の前で缶を開け盛りつけてくれた。
「これはすごい。うん、うまいぞ」
「全部食ってくれ」
「ありがとう。で、続きだ。このまま敗戦となれば、責任はまず東條閣下だ、腹を切るだけでは済まない」
「首相を降りた閣下にそれ以上を望むのか」
「臣民の怒りは陸軍に向く。占領下で国民が考えるのは、大陸での陸軍の暴走だ。陸軍軍人は追われ、陸軍は廃止になって、再生も再建もできない」
「石原閣下も東條閣下も、同じ陸軍か」
「しかし上村に言わせると米国の考えは違う。捕虜からの聞き取りでは、米国民は真珠湾奇襲を重視しているのだ」
「奇襲?」
「開戦通告の遅れのことらしい」
「ああ、リメンバーパールハーバーか。プロパガンダじゃないか」
「そうなのだが、敗戦となれば日本は何も言えないぞ」
「ふむ。通告の遅れは陸軍ではないな」
「その通り。通告を遅らしたのは外務省で、真珠湾を空襲したのは海軍の母艦航空隊だ」
「そう、陸軍ではなく外務省と海軍・・・あ!」
「意外だろう」
「米国から見るとそうなるのか」
腕時計を見て、宇部が立ち上がる。
「時間だ、帰る」
「四雄、今夜はありがとう。また会おう」
「うん、正彦」
宇部は大声で副官を呼んだ。バタバタと外から音がして副官が入ってくる。後ろの当番兵は担架を担いでいるようだった。
「折角だ、使え」
宇部にそう命じられた副官は、当番兵に担架を広げさせる。その中に体を沈めた宇部は、甘粕に向かって手を振る。甘粕は顔の横で手を振って返す。
ドアは閉じられたが、表のやり取りは伝わってくる。
「階段を下りる時は頭が上だ」
「はっ、閣下」
「頭が下だと酔いが回る」
「はっ、閣下」
「わあ」
階段を転げ落ちるような音が外から聞こえたが、それどころではない。
甘粕は核心に迫ったと確信した。何故小磯内閣が短命に終わったのか、何故重慶工作が潰されたのか、何故ソ連仲介案に統一されたのか、それらの理由は一つに集束できる。そして、それ故に竹林と竜島は妥協できなかったのだ。
注1:南北戦争の戦死者数は、数年前までの通例であった50万人としており、グラフもそれに合わせました。
注2:第2次大戦の米軍の戦死者数は、実際はもっと多いという研究があるようです。物語の中で触れる機会があるかもしれません。
※次回の更新は遅れます。




