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SR満州戦記1  作者: 異不丸
第二章 八月二日
11/29

四 避退


国都新京、洪熙街


 午後、伊藤秘書は大童だった。満州国政府の幹部らが、次々と来訪する。最初に来た国民勤労部の半田次長には、ちゃんと出迎えができた。しかし、その一〇分後、古海総務庁次長、飯島労工協会理事、星子警務総局長は、別々の車で立て続けに到着したから慌ててしまう。汗で化粧が流れそうだ。これじゃ女優にはなれないなと思った。


 全員が席について一服すると、半田が口火を切った。

「先に来て理事長と話していた。居留民後退の件について考え直したい。関東軍総司令部の問合せに対して、すでに拓殖公社総裁の斎藤閣下が不要との回答を済ませているが、状況が変わった」

「居留民とは、拓殖公社管轄の開拓民だけですか。それとも、邦人全体のことですか」

 古海が質す。総務庁は日本の内閣官房に当たるが、人事と予算の権限を独占して持つ。総務庁次長の古海忠之と王賢偉は実質、副総理であった。日本の大蔵省からの戻って来いの誘いも断って、満州国を仕切っていた。

「全体です。国境省の開拓民は数日中に後退の必要があり、ほかの居留民についても一〇日も余裕はない」

「状況の変化とは、ソ連軍の侵攻が早まったのですね」

 一番若い星子が聞く。星子敏雄が長官を務める警務総局は全土の警察を統括し、情報機関である保安局も指揮下においていた。満州国の警察は、治安維持だけでなく、教育など一般行政の執行も行なう。星子の妻は甘粕の妹だ。

「そうです。しかし、他にも不都合な事がある」

 三人は用件を理解すると、甘粕を見つめる。軍の方策については不満もあるが、それぞれ要職にあったから関東軍を批判することは躊躇われた。

 甘粕は、承知したと答える代わりに大きく頷くと、いつもの表情で話し出した。

「侵攻は七日から一〇日未明。今のところ、警報が出る気配はないから奇襲となる」

 四人は、それぞれが知っているところと照らして合点する。


 ソ連の中立条約破棄の通告後、関東軍と満州国は二度の政策協議を行なった。古海はそこで、関東軍が作戦方針を守勢持久に変更していたことを知った。そして、弱体化した軍は通化へ退却すると聞いたのは、先週の全満防衛会議だった。

「開拓団、義勇隊、一般の居留民は後退させましょう。しかし、政府や国策会社に勤めている者は覚悟がある。家族は後退ですね」

「居留民に対しては数度の召集動員が行なわれて、男子はいない。駐屯軍の支援は得られるだろうか」

 古海の即断に星子が懸念を述べる。警務総局でも邦人警官は召集されたものが多い。残った警官と県の役人だけで誘導が出来るか不安だった。家財道具を破棄させたとしても、最寄駅までの交通手段を確保しないといけない。

「無理だろう。軍の方針は静謐保持、刺激回避だ。むしろ、国境近くでの大規模移動は阻止されるかもしれない。残される兵隊の士気にも影響する」

 飯島満治はもと憲兵将校で、斉斉哈爾憲兵隊長を最後に少佐で退役した。同じ陸士二四期でも、大尉で退役した甘粕や半田より軍歴は長い。国境にいる兵隊の感情や憲兵の対応は予想できた。

「協力どころか阻止されるとなれば実現は不可能だ。開戦前でこれなら、戦闘が始まればもはや逃げ出すことも出来ない」

 半田は頭を抱えた。半田敏治は奉公隊本部長でもある。退役後、九州帝大に入学して文学を修めた。大同学院の教官に招かれて満州に入り、協和会、総務庁、国民奉公局と新京にいる。砲兵科だから、もともと学究的なところはあった。



 甘粕は表情を変えずに続ける。

「勝敗は兵家の常と言います。兵隊は徴兵ですが、それもご奉公です。しかし、女子供は巻き込まれるべきではない」

 四人はほっとした。甘粕はこのところ思いつめた処があったから、『満州国と一緒に滅ぶべきです』と言い出してもおかしくなかった。

「男は兵役に応じられない年寄りで、あとは女子供ばかり。となれば、足手まといでもある。毒薬を配るだけなら、却って前線の士気は落ちる。破れかぶれの玉砕が相次いでは、会戦、持久、篭城の作戦は成り立たない。家族を逃がすためなら、兵隊も踏ん張れる。そうではないでしょうか」

 半田は安堵した。満州国をでっち上げたのは関東軍の少壮参謀たちだが、国の体裁を整えたのは甘粕たちだ。その甘粕が言えば、表立って逆らえるものは新京にはいない。

 飯島は苦い顔のままだった。満州労工協会の前身は大東公司で、出稼ぎ支那人の統制にあたっていた。いわゆるスト破りだ。数年前から国内の労働力は逼迫して募集に転じたが、実際は田舎の県を回って徴発するのだから、荒っぽさはぬけていない。

「しかし、古海さんが法令を整え、星子さんが警察を動かしたとしても、関東軍が賛同しなければ逃散だ。下手をすると反逆や敵前逃亡と見做される」

 黙ったまま古海と星子が頷く。半田は、再び甘粕を見つめた。


 甘粕は事務的に尋ねる。

「問題は関東軍の説得だけですか」

「満鉄は問題ない、駅までのトラックです。それと居留民の説得も厄介です。耕地田畑は彼らの最大で唯一の財産だ。非常時でもなければ、容易に放棄しない」

「他にありますか」

 甘粕は、半田以外の三人にも促す。三人は頭を捻った。

「とりあえずは新京・奉天の大都市に受け入れるとして、最終的には通化に送って、居所と陣地を造ってもらいましょう。百万の関東軍が篭るのなら、人手は必要だ」

「そう。朝鮮より満州の方が食糧事情はいい」

「関東軍は二年分の備蓄をもっている筈ですが、たしかに口が増えますね。それでは、一緒に食糧も通化に送りましょう。それで計画してください」

 三人は頷いて作業の段取りを考え始めるが、飯島はそれほど作業があるわけではない。それよりも、甘粕がどう説得するか気になった。昨年から総司令官をはじめ参謀らは大きく入れ替わっている。昔のように神通力が通じるか。

「関東軍の説得は大丈夫か。新参も多い」

「説得はしない。大本営命令に刑余者が敵うわけがない」

「えっ」

 全員が驚いて甘粕を見つめる。

「その非常時を起こしましょう。居留民の説得も不要になる。手っ取り早い」

「えーっ」

「これから別の来客があります。みなさんは計画を作成してください。次回は明後日です。では、これまで」

 甘粕は立ち上がって退室を促す。まったく、いつも通りだった。



 伊藤秘書は、次の二件は楽に捌いた。満州興業銀行の岡田総裁と大東協会の清野専務理事は十分に間を空けて訪れたし、それぞれの要件も数分で終わった。何より、よく来るから顔見知りだ。

 だが最後の四件めで大騒動になった。理事長が満州国の大物であることは承知していたが、満人のお偉いさんがお揃いで訪問することは滅多にない。国務総理秘書、総務庁次長、経済部大臣、新京市長など錚々たる面々だ。もちろん、車は別々である。秘書室は総出となった。



 甘粕はまず、お願いがあると頭を下げた。

 満人たちは驚いた仕草を装ったが、全員が顔見知りである。彼らの親たちは、清朝末期、辛亥革命の前から奉天の要人であった。軍師や司政官に取り立てられ、張作霖政権の重鎮となった。張作霖が謀殺され、張学良が追われても、彼らの影響力に変わりはない。関東軍内面指導下の満州国でも無視することは出来ず、むしろ甘粕と協和会は厚遇した。

「お聞きしましょう」

 そう言ったのは総務庁次長の王賢偉だった。国務総理の張景恵は実子の張紹紀を名代に出して来たが、末っ子だから二四才と若い。副総理格の王が代表するのが無難である。

「ソ連軍の侵攻は七日から一〇日未明と思われます。関東軍は防衛にあたり、政府と満鉄、ほかの日本人も持ち場を守ります。しかし、女子供や年寄りは後退させたい。ご協力をお願いしたい」

「それは問題ありません。ご随意に使ってください」

「関東軍の戦力は弱体化しており、国境線も長くはもたない。いずれ司令部は、軍主力とともに通化方面に撤退して篭城します。その時は中央政府もご同行されたい」

「さて、それは即答できません。どうでしょう、大臣」

 王は、年上の経済部大臣、于静遠に聞く。于は陸軍士官学校に留学し、日本語とドイツ語に堪能だった。満州国での経歴も王にまさるともおとらない。次代の国務総理は王か于ともっぱらだった。

「進駐してくるのがソ連軍だったら、居残るのは危険でしょう。甘粕理事長、通化篭城のその後はどうなりますか」

「残念ながら、関東軍は日本軍です。大本営の命令に従います」

「日本と同時に降伏し、武装解除に応じるのですね。それでは皇帝陛下や政府の安泰はない。通化へは行けませんね」

「ご尤もです」


 于大臣は王を見る。王は頷くと、張紹紀に顔を向ける。

「ご父上の国務総理から何か聞いておられますか」

「満州国と共に居たいとだけ」

「覚悟を決められたか」

 王の念押しに、張は小さく頷いて答えた。次に、王は新京市長の于鏡涛を向く。

「市長は新京の無防備都市宣言を望まれますか」

「もちろんですが、中央政府が宣言しないと実効されない。それに、関東軍が賛同しなければ無意味です。虚偽は違法です」

「わかりました」

 王は于大臣に目配せした後、甘粕に正対する。于大臣も向き直った。

「甘粕さん、選択肢を提示してください。すでにお考えでしょう」


「最初の選択肢は徹底抗戦と玉砕ですが、これは日本人にしか出来ません。それに、満州の都市や工場を瓦礫にしては、これまで協和してきた五族の人たちに申し訳が立たない。私が、全力で阻止します」

 王と于は無言で次を促した。

「一つ、関東軍と日本人の大部が通化に退いた後、日本との同盟離脱を宣言し、連合国に降伏する。しかし、満州国は米英に宣戦布告しておらず、さらに両国とも満州国独立を認めていない。実質上の交戦国として降伏できる相手はソ連だけです」

 王は頭を傾げたが、于は横に振る。

「二つ、ソ連が退くまで、または米英が進駐してくるまで奉天に立て篭もる。米英が軍を出すかは不明です。この場合、すべての大都市に無防備都市宣言を出しますが、実質は無法地帯。満州は焦土と化すでしょう」

 王も于も、頭を横に振る。

「三つ、ソ連侵攻の直前、直後、あるいは日本降伏の前に、関東軍と日本に反乱を起こす。革命でもいい。だが、国軍と警務総局の手勢では関東軍には叶わない。さらに、秩序を保って指揮・指導できるかは未知数です。おそらく二つめと同じ結果になる」

 王と于は笑い出した。

「参りました、甘粕さん。四つめを、最善の策を決行しましょう。教えてください」

 四人は甘粕に向かって拱手し、頭を下げる。



 伊藤秘書が四人の満人を送り出したのは、もう定時に近かった。見送りする玄関は傾いた太陽をいっぱいに浴びている。伊藤は満面の笑顔で客を送り出す。化粧は直してあった。





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