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彼方へのマ・シャンソン  作者: ツマゴイ・E・筆烏
Cinquième mission 「夕映えの誓い」
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第七章 恋愛事変、エリカの動乱 後篇

第七章 恋愛事変、エリカの動乱 後篇


        1


 ――結局のところ。

 それからしばらくの間。結局のところ「ダンディーなるーなりたいー」と、半泣きする日向を一通り宥める為に胸を貸してやった後。ようやっと落ち着いた日向はジト目でエリカを見つめつつ歩いていく。

「ほら、弦巻。私が言い過ぎたから。ね?」

「うー、じゃあ僕、ダンディになれる?」

「それは……ううん、まあ、……」

「わーうー!」

 再び泣き出しそうな気配を感じてまた宥めるのも大変なのでエリカは「そ、それも重要だけど、それより恩師の話はどうなのよ?」と手をパンと叩いて会話を促した。

「恩師? 辰喰先生?」

「そ。中学時代とか、弦巻どうだったのかなーって思って」

「うんとねー。すごく楽しかったの!」

 ゆったり歩く中で日向は嬉しそうに、だが静かに語りだした。

「辰喰先生が僕に絵を教えてくれたの」

 穏やかな表情で筆先を軽く弄りながら懐かしむように、

「『絵を描いてみたいのかい?』――って、訊いてくれて。『いーの?』って尋ねたら当たり前のように頷いてくれた。それから絵を描き始めて、ちょくちょく色々なものを描いて、色々な世界を表現したいから、色んな技法を教わったりしたし」

「キュビズムとか遠近法とかフォーヴィスムとか、絵画は技術が色々あるものね」

「そうそう! 現実的でないものを非現実に表現するのも手法って教わったし!」

 そうして色々な教えを経て、日向はたくさんの事を教わった。

「美術以外の事も学びながら、何度かコンクールにも絵を出したりしたの」

「へぇー。どうだった?」

「嬉しかった! 自分の描いたものがねー、おっきなビルのおっきな部屋に飾られてるのドキドキしたし!」

「ふふっ」

 良かったじゃない、とエリカはふわりと笑みを零した。

「銀賞とか準大賞とかそういうので評価してもらえるのも嬉しかったんだよー♪」

 わうっ! とはしゃぐ日向だがエリカとしては、

(……ん? 銀賞とかって……それ結構、というか二位くらいの賞じゃ……? 弦巻の絵ってそんなに評価高いのかしら……。ああ、でも学生コンクールとかならそういうの取るのもあるのかしらね……)

 絵画展に詳しいわけでもないため、エリカはそういうものか程度に認識しつつ「それからなにかあった?」と会話を続ける。

「あのねー。頑張って描いてくとやっぱり上にいる凄い人達を越したくなったの」

「一番になりたいって事かしら?」

「そう! 評価は嬉しいけど、でもやっぱり一番になりたくなったし」

「そうなんだ」

 エリカはどこか感心した様に日向を見つめる。

 一番になりたい。そういう向上心はエリカにとってとても好ましく映った。

「僕の世代で一番、絵がすごい人がいるんだけど、その人の絵が本当にすごくてね? そういうのを見てると思うんだ。もっとすごくなりたいって。その為にはもっと自分の世界を表現しまくりたいって!」

「自分の世界を、表現?」

「うん。例えば感情だったりしたらさ。何もしなくても伝わる思いがある。言葉にしなくちゃ伝わらない気持ちもある。どっちの言葉も真実だと思う。そこにもう一つ――僕は描いて伝えたい願いがあるから」

「描いて、伝える……」

「うん。先生は言ってたし。『絵を描くというのは自分の識る世界へ誰かを招く行為』だって。伝えきれない情景を、言葉にできない感動を、自分の感じた全てを誰かへ余すことなく魅せてやりたい――それが絵を描く事の本懐だと僕は思ったし」

 気づけばエリカの見る日向の瞳は青々と輝いていた。

 いつもの幼子と似て非なる空気。

 幼い子供が願うような大言でありながら、夢へ望む挑戦者のような気迫。あどけなさも厳かさも両立したような独特の雰囲気で、何よりその夢へ望むような少年の横顔にエリカは不意に胸を高鳴らせてしまう。

(……? なんだろ……? なんか、今の弦巻見てると落ち着かないんだけど……?)

 ん? と違和感を覚えながらエリカは「熱いし……」と襟元を引っ張ってパタパタと風を煽ぐ。どうしてか無性に体が熱かった。火照ったように心がくすぐられてしまう気分だ。

 そんなエリカの様子に気づいてはいるのだが部屋熱いのかな、と思いつつも日向はエリカの方へと向き直り大輪の笑顔を向ける。

「だからね。なんだかエリカには知って欲しかったの! 僕の願い、僕の目指す彼方の景色。最果ての音色――色んな、たくさんの想いを皆に魅せたいなって事を! それで描き上げたい一番のものを生み出したい」

「一番……?」

 エリカが静かに問い返せば日向は嬉しそうに破顔して、

「うんっ! 一番、綺麗なものを描きたい! それが僕の夢で目標なのっ!」

「――」

 きゅんっと。

 胸が締め付けられた感覚がした。

 笑顔が可愛いのは知っていた。花の様に綻ぶ少女の様な可憐さなのを知っていた。

 けど、これは――同時に幼子の無垢さで、少年のような無邪気な笑顔だったから。

 エリカにとっては――初めて見る男の子が本気の夢を語る表情だから。

(やばっ……ッ! 今の、かわいいっ……!)

 図らずも、不覚にもエリカはトキメいてしまった。

 本気で日向に対して胸を高鳴らせてしまっている。顔の熱さがいつもの気恥ずかしさとは別ベクトルに朱に染まってしまっているのを自覚してしまう。

 今なら大抵の甘えん坊すら許容してしまうんじゃないかと自分で自分に戦慄するほどに――、

「わ、わう……言ってたら気恥ずかしくなっちゃったし……」

 対する日向は恥ずかしくて目を瞑っていた!

 当然、眼前のエリカの様子になど気づいていない。こういう辺りダメな子だった。しかしダメな子なりに奮闘するものだから、言葉は一生懸命紡いでしまう。

「うんとね! 僕はエリカに全部曝け出しちゃいたいから、色々言っちゃうわけで……! だ、だから今のも頑張ってるのこういうのだよーっていう表明でね……!」

「え、ええ!? あ、うん、わ、わかってるわよ? 一番綺麗なの絵にしたいってことだもんね? 素敵な夢だと思うわよ本当?」

「ほんと?」

「ほ、ほんとーよ? ……ああ、うん、だからその、今はその、あんまそういう、撫でてあげたくなる顔されると困るっていうか……ああ、私何言ってんのかしらね、あはは……」

「えへへー、うれしー。エリカに褒められたー……♪」

「くっ……! なにかしらこのどうあっても弦巻に負ける気は……! 第一、そんな嬉しそうにふにゃっと笑うの心臓に悪いんだってば……!」

「本当にありがとー、エリカ。うん、そーなの。ボクは一番綺麗なものを……」

 そう零す日向の眼差しが、次第に蕩けていった。

 熱を帯びたような愛しさを募らせた様な恋情の瞳。恋慕の声音。一直線に向けられる熱量に思わずエリカはトクンと胸を高鳴らせてしまう。

「つ、弦巻……?」

「ボクにとって……一番、綺麗な、もの……」

 そう無意識に零す日向の表情はどこか驚きを帯びたようなもので。

 視線を背ける事も叶わないくらいの想いに対してエリカは「うぁ……」と頬を赤くして、日向の一挙手一投足に囚われかけたその時――、

「おー、日向と新橋じゃねぇか。奇遇だな!」

「「!?」」

 瞬間、ドキィ! と二人の心臓が爆音を奏で、体躯が僅かに飛び上がりそうになる。

「え、あ、恭介先輩!?」

「ああ、こんちわ――なんだが、ううん」

 二人と遭遇した恭介は僅かばかり表情を曇らせ、次にニヤリと笑み、

「お邪魔しちまったかな?」

「してないわよなにも!?」

 エリカは動揺を隠せぬまま、赤い顔で全否定するが「えー、そうかぁ?」という恭介の笑顔がなんとも腹立たしい限りである。

(け、けどヤバかったかも……! な、なんかわかんないけど、今のは相当こう――なにかされても許しちゃう感じがしてたし……!)

 そういう意味では恭介に感謝の一つでもしようものだ。

 しかし、発言は否定しておかなくちゃならない。精神衛生上の意味でも!

「ほ、ほらっ。弦巻もなんか言いなさいっ」

「うー、きょーすけ先輩。二人きり邪魔しちゃヤー」

「おう、ゴメンなー」

「ああああああ……、わかりきってたけど弦巻のバカぁ……! 反論してほしかったのはそういう意味合いじゃなかったのにぃ……!」

 思わず赤い顔を手で覆うエリカである。「わうーっ!」と不満げな日向の発言にエリカは顔を染める以外にない。だが、それでもどうにか反論しようとした最中、新たに別の人物の声がかかった。

「鍵森君、顔が意地悪いよ?」

 あきれた様子で零すのはショートヘアの似合う美少女であり二年の先輩、姫海である。

「まあ、遠目にイチャイチャオーラ出してたし、からかいたくなるのもわかるけどね」

「だな。意地悪とわかってても、したくなる」

「え、あれ先輩たち……?」

 エリカがびっくりと瞼をしばたかせる。

 姫海の登場はわかるが、続く姿に少し驚いた。宴、紫音の二名だからだ。エリカにとっても顔見知りの先輩たちに当たる。

「わう? どーして、紫音先輩たちもいるの?」

「んな小難しい理由はねぇよ? たんに仲良いってだけ。ダチだな、ダチ」

 小首を傾げた日向に恭介が端的に答えた。

「まあ、学年的には一緒だからな。俺と鍵森じゃあクラスは大分違うが――」

「平たく言って、私繋がりってやつかしらねー」

 自分を指さして姫海を続け指さす形で紫音がそう零せば、エリカも「ああ」と納得の形で頷いた。

「そういえば紫音先輩と姫海先輩って友人関係ですもんね」

「そそ。それで姫海ちゃんとだらだらぺちゃくちゃしてて、自然と恭介と宴も関わるようになってたって感じよねー」

 けらけら笑う紫音はなんとも楽しげだった。

「そんな感じだったような」

「どんな感じだったような」

 肝心の恭介も宴もどだったかねー、とほわんほわんしてるため姫海が呆れを零す。

「全く覚えてないみたいだね、そろいもそろって……」

「そうは言うが、淡路島。いざ、ダチとのなれ初め訊かれるとどうやって仲良くなったか知り合ったかって思い出せん」

「というか鍵森。なれ初め言うな、気色悪い」

「確かに気色悪ぃな。ウボロロロロ」

「……ね、恭介。あんたさ、そのいやに卓越した嘔吐のマネ止めてくれない?」

 紫音が柳眉をひそめて思わず漏らすほど、酷く上手かった。

「巧いよな。だが、俺もできるぜ? 見せてやろうか、絶対音感を用いた嘔吐の再現を」

「……ね、宴。あんたも馬鹿な対抗心燃やしてるんじゃないのよ?」

 はぁ、と紫音が呆れるように嘆息を零していた。そのさまをみて「ああ、うん。似た者同士なとこあるよね。仲良しになるよそりゃ」と姫海が関心と呆れを織り交ぜている。

「……なんというか仲良いんですね」

「ねー。知り合って間もないけど、結構波長が合うみたいよ?」

「まあ、友達同士なら時間の短い長いはあんまり意味ないと思いますけど」

 そうエリカが零すと「あら、たしかに」と楽しそうに紫音が零す。

 実際にエリカとしては仲の良い友人関係は波長が合うか否かだろう。例え幼馴染の間柄だろうとやたら波長が合わなければあんまり関わり合いを続けたいものではないし、逆に波長が合えば一ヶ月もせずに、気心の知れた間柄になれるもの――それが友達だ。

 とはいえエリカも聖母ではない。どうしても噛み合わない相手もいるだろうとは理解している。交友関係の広い彼女だからこそ、そこは理解していた。――理解している上で友人関係を築ける辺りも彼女の人柄ゆえの賜物だが。

「けどまあ、それはともかく――先輩方はどうしてこちらに?」

 こちらに、という意味はそれだけで伝わるだろう。

 なにせなにか用事でもなければこの辺りはそう歩かない。

 歩くのは離れにある美術部目当ての人間くらいだろうからだ。

「そのまま返すが二人こそ、なんの用で――ああ、いや、そうか。弦巻が美術部か」

「わうっ♪」

 それだけで聡い恭介だ。ちょっと寄ったのだろうと推測を終える。

 次いで宴が言葉を継ぐ。

「ま、俺達はアレだ。調月がこれから部活なんだが軽食欲しいなーって話んなって俺もついでに小腹空いたから道連れした帰りでな? したらちっと騒ぎがあったのを野次馬してから適当に切り替え気分でブラブラしてたら、なんかピンクオーラを感じて、つい寄ってきたって具合だな」

「ああ。宴はこうだが、俺としちゃあ本当は隠れてやり過ごそうと思ったんだが、途中で考えを改めた。隠れて人の色恋を見るなんて男じゃないってな。男なら潔く茶々入れようって思って、つい」

「とりあえず調月先輩も鍵森先輩も自省してください」

「「えー」」

「えー、じゃないっ!」

 不満そうな男二人に軽く叱責を飛ばすエリカ。

 まったく……、と呆れ半分のエリカだが、遅れて服の端っこをくいくい引っ張る存在に気づく。日向が何故か羨ましそうに自分を見ているのに少し戸惑う。

「え。な、なに、弦巻?」

「エリカ、エリカ。僕もめーされたい」

 何を言っているのかこのわんこは、と率直にエリカは思った。

 だが、口論すれば最終的に恥ずかしくなるのは自分だとエリカは未来予知を成功させる。仕方ないわね、と呆れ交じりに頬を赤くしながら、日向の額を人差し指でちょこんと触れて、

「……めっ」

「うー♪」

 優しく飛ばした叱責に日向がこそばゆそうに頭髪をぴこぴこさせた。

 無性に恥ずかしくてたまらない。なにゆえこんな気恥ずかしい真似をしてるんだろうかとエリカは悶絶したい気持ちだった。

「エリカちゃん見ててなんかくすぐったいんだけど」

「自覚はあるから言わないでください」

 凄い早口で自分へ返すエリカの姿に紫音も微笑で「大変ねぇ」ともらす。

「なんというか……相変わらず無垢に素直のまま育った感じだね、ひな君は」

 姫海の苦笑に日向は疑問符を浮かべるばかりである。

 なんでそういう反応なのか、日向にはよくわからなかった。

 わからないといえば――、

「……ところできょーすけ先輩。野次馬ってなーに?」

「ふむ……それは野次馬の対象の事か。それとも野次馬という言葉自体か……」

「むー、普通に対象だし。言葉は知ってるもん!」

「はは、わりぃわりぃ。そこまで幼かねぇやな」

 頭をぽんぽんされながらむきゃーと怒る日向微笑ましく感じながらも、エリカは確かにと頷いて声を発する。

「けど、そういえばそうね? 野次馬って……誰か問題でもおこしたんですか?」

 芳城ヶ彩で何か騒ぎごとが起きるか否かでいえば――結構な頻度で起きるとエリカは知っていた。というか当事者だ。自覚はある。なにせ、痴漢騒ぎの被害者だったり、食堂の小競り合いだったり――素行は良いのに、なぜだか問題に巻き込まれるエリカだった。

「ああ、別に問題とかじゃなかったな。というか平たく言うと怪我人だ。階段から落っこちたらしくてな」

「え、誰がですか?」

「んー、とりあえずエリカちゃんの知り合いとかじゃあないとは思うわよ? まあエリカちゃん交友関係広そうだから一概に断言は出来ないけどね。美花赤の子が階段から落ちて救急車で搬送されたのよ」

「それで少し騒ぎになって野次馬が出来てたって感じだよね」

「そうなんですか……」

「わう……」

 それは他人事ながらにしんみりした気分になる話だった。

 赤の他人とはいえ、同年代の女子が階段から落ちて怪我をしたと訊けば、どこか不安な心持になる内容である。面識もないし、話した事もない――ある種ニュースで報じられたけが人を案じるようなものだが、身近でそういう事が起きたと訊けば自分も注意しないと、となんとなしに念じるものだ。

「で。俺達は大まかにゃ、そんなかんじだが――お二人さんはなにしてたんだ? 密会?」

「じゃありませんよ?」

「そうか。隠すような関係じゃありません、か……大人だな新橋は」

「意味深に言わないでもらえない!?」

「わかってる。俺達が想うような間柄ってことだな?」

「違う気がしてならないんだけど!? 先輩の想定と私の実態の食い違い大きい気がしてならないわよ……!?」

「安心しとけ。誰かに言ったりしないさ」

「もうヤダこの先輩嫌い!」

「恭介―、それ以上からかうとたんこぶ出来るわよー?」

 紫音が可笑しそうに零せば「そりゃ嫌だな」と余裕綽々に肩を竦める。からかわれている自覚はあったがやはりか、とエリカはジト目で抗議した。視線を華麗に逸らして恭介は「んで。実際はなんだったんだ?」と日向に問いを発す。

「えとね。美術部に道具取りに行ったのに、エリカがついてきてくれたのっ!」

「……まあ、そういう事です」

 憮然とエリカは相槌をうつ。

「あー、なるほどね。弦巻君って美術部だもんね。……え、美術部ってこんな森の奥なの? 姫海ってば知ってた?」

「うん。紫音先輩知らないんだっけ? 美術部は芸術に通じる場所――もとい感性を刺激する上で集中できる場所に作ってあるらしいからね」

「へー」

「……興味ない?」

「……ゴメン、割と。私、音楽科だし。絵画とかそんな詳しくないしなーって。絵画展行く時間あるなら音楽祭行くもの」

「まあ、普通の反応ですよね」

 エリカも苦笑でそう零す。美術館へ行っても関心がない人は胡乱に見て回ってそれで終わるようなものなのだろう。エリカの場合は、日向の影響で多少絵画を見るのが楽しくなってきているが、趣向が向かない人はそういうくらいだろうと思う話だ。

 加えて紫音は音楽に精力を注ぐ女性なのも影響しているのだろう。

「それに私としては今は絵画うんぬんよりも恋愛話に興味湧くかなーって感じだし」

 そんな不穏な発言をする紫音の視線が自分に向いているのに気づきエリカはぶるっと悪寒を走らせた。すごくまずい予感がした。

「そうか」

 宴は一度大きく頷いて、

「弦巻。俺達に相談事あるか?」

「ないし!」

「ははっ、こいつは元気よくはっきりとだな」

「わう、だってないもん。きょーすけ先輩」

「そうか。じゃあ女を惚れさせるテクニックを伝授してやろうかと思ったが別に――」

「いや、ちょっと待ちなさいそこの男子先輩方」

 エリカが焦った様子で制止をしようとして、

「わう……! 教えてほしー……!」

「よっしゃ、任せろ!」

「アンタもそんなあっさりぃ……!」

 日向の純真さに頭を抱える結果となって、

「それじゃ男子は男子で駄弁るみたいね。――というわけだから、エリカちゃん♪ 女子会しましょっ☆」

 なし崩し的に、世界一嫌な女子会に捕まるエリカだった。


        2


「という事で恋バナのお時間です、イェイ!」

 超ウキウキテンションの先輩の声を聴きながらエリカは精神的に突っ伏していた。

「……」

「先輩、エリカちゃんがなんか頭抱えてるんだけど……」

「わかるわよ、エリカちゃん。すごーくわかる。今から自分が絶対標的にされるやつよねこれぇ!? とか思っちゃってるんでしょうね、大変だわ」

「そこまでわかってるなら私もう帰っていいですか?」

「やん、イケズな事言わないの♪」

「なんて厄介な先輩……!」

「大丈夫よ、エリカちゃん。どうせ向こうでも弦巻君は質問攻めだったり、恋バナの標的にされてる頃合いでしょうから――犠牲は一人じゃないのよ?」

「私にはあいつが訊かれて惚気てる場面しか浮かばないんだけどねぇ……!?」

 エリカは真っ赤な顔を両手で押さえて掠れた声を零す始末。

 なお、その予想は見事に的中しており今頃の恭介と宴はつらつら溢れ出すエリカへの好意発言を前に慄いているのだが――そんなものは女子の恋バナに現時点関係ない話だ。

 紫音は「それじゃ」とにっこり微笑んで、

「ぷっちゃけちゃうと、エリカちゃん的にはどうなの? 弦巻君、好きなわけ?」

「けほっ!?」

 エリカは思わず盛大に咽た。隣の姫海など「うわぁ、ストレートだね」と苦笑を零している。そんな中でエリカはあわあわとした様子でふためいてしまう。

「そ、そんなド直球に訊かないでください」

「え。けど、言葉濁してもしょうがないでしょ? 傍目見てて、わかりやすいし。弦巻君の方はもう否定要素がないじゃない、アレ? じゃあエリカちゃんはどうなのかなーって普通に気になるのよね」

「そ、それは――」

 顔が熱くなり、言葉に詰まる。

 否定要素がない。そんなの初めからわかっている。わかっているが――、

「で、どーなの? エリカちゃんは弦巻君の事、どう思ってるわけ?」

「し、知りませんっ。そんなウキウキした眼差しの人に話せるわけないでしょう……!?」

「もうウキウキなんて失礼よー? お姉さんは、そんな不純な気持ちだけじゃないのよ?」

「そ、そうですか? だったらすいませ――」

「ワクテカもつけちゃう☆」

「不純に不純を上乗せしただけですよね!?」

 これはアレだ。他人の色恋、恋バナに夢中になる女子の図である。

 まあ、恋バナともなれば男女関係なく意識を向けるのも、割と普通な事だが。それにしたってエリカは困ってしまう。何と言ったって、この手の話題にエリカは免疫がないのだから。

 今までだったなら――にべもなく、つっけんどんに、反論して終わりに出来たはずなのに。

(――)

 やば、どうしよう。

 胸中を過るのは、言葉の吟味だったから。

 ただ単純にそんなのじゃない、とか、そういう言葉をエリカは吐けずにいる。そして否定の言葉を吐けない――否、否定はしたくないと感じる自分の心中に戸惑いを覚えた。

 結論、熱い頬に、熱を纏う瞳、蕩ける唇から告げられたのは微かな迷い。

「……よく、わかんないん、です」

 カァァ、と赤い顔を下に向けてエリカは零す。

「その、私はまだそういう恋愛、とか関心薄かったし、興味がないわけじゃないけど、自分には無理だろうなーって思ってたから……事情は省きますけど、私は異性苦手意識ありますし」

「……なるほどね。まだそれがそうなのか判断出来ないって事かな?」

「……はい」

 姫海の労わる様な言葉にエリカはコクリと頷くよりほかにない。

 少なくともまだよくわからない。

 それがエリカの現在だったから。ただ、それでも――。

「……弦巻に、その……慕われてるっていうか、懐かれてるって言うのは、凄い嬉しいです。ひたむきだし、真摯だし、一途だし、誠実に想ってくれてるのは……あいつの普段見てたらすごい実感してるんで」

 向けられる無垢な恋慕に、エリカは嬉しさを募らせている事を素直に認めた。

 誠実に想ってくれている感情に対して否定的になり過ぎる事ほど非道は無い。だから、エリカは日向の向けてくれる感情の在り様に愛おしさを感じている。

「あ! で、でもこのこと、弦巻に言っちゃダメですからね!? あいつすぐ調子に乗っちゃう子だから、今みたいの知るとすぐ『わうー♪』って甘えん坊してきちゃう奴だから……!」

「あらあら。おっけー。言わないから安心しときなさいな、エリカちゃん」

「くすす、そうだね。ぼくもひな君に言ったりしないから安心しておくれよ」

 先輩二人の首肯を受けてエリカはホッと胸を撫で下ろす。

 日向は自分が少しデレると一挙に陥落数値が天元を超える子なのをエリカはよく理解している。上限に至ろうが、エリカが――自覚はその実無いのだが、何か琴線に触れる態度をするとあったはずの上限が取り払われ際限なく陥落していく子犬な事を知っている。正直、転げ落ちているくらいに、ころころエリカ坂を転がる印象がエリカには、あるのだ。

 上っても、下がっても、なんでか好感度が上昇する。それが日向である。

(まあ、わざわざ嫌われようとも思わないし、嫌われたいとも思ってないけど……あの好感度何時まで上昇するのかが心配よね……?)

 多分、もう下がらない。

 根拠はないが、そんな気がするエリカである。

「けどそっかそっかぁー。甘えん坊君かぁー。どう? どう? エリカちゃんとしては甘えん坊な子とかかわいい感じ?」

「な、何を聴いてるんですか、もうっ! ……大変なんですからね、本当に?」

 むぅ、とジト目を飛ばすも紫音は「あらやだん」と可笑しそうに零すばかり。この先達、手ごわいと感じる始末だ。

「けど毎日、抱きつかれてすりすりされてるんでしょう? 情熱的よねぇ☆」

「本当にですよ? 毎日、抱きつかれて胸元に甘えてきますもん……! おっぱい欲しがってしょうがないっていうか」

「男子っておっぱい好きだものねー。私なんか同学年にも後輩にも、視線が胸に向いてる事あるのなんて結構気づくもんだし。男子は当然、女子にもみられるしね」

 軽く動くだけで紫音の誇るエリカ以上に重量感溢れる爆乳がゆさっと揺れた。

 一部後輩女子にヤバい視線もあるし、と胡乱に零す紫音の眼は若干明後日に向いている。

「……やっぱり紫音先輩はそういうのあるんですね?」

「そりゃねぇ。こんだけの立派なもん持ってるとまー気になられるわよ? 年頃の男子なんか、そういうの興味湧く頃だろうし仕方ないんじゃないって感じだけどね? 視線逸らしてくれたりとかあれば不快感とかは湧かないし。不快感が湧くとしたら完全にこう――舐める様な視線ってやつ? アレが嫌ね」

 なるほど、とエリカは納得する。

 確かにそういういやらしい眼差しはエリカも嫌悪感が湧く。まあ、生憎とエリカはそういう視線を感じた覚えはほとんどないが――厳密には自分の容姿に無頓着なため仮にそういう視線があろうと気づいていない節が若干あるが――ともあれ、紫音の言葉に同意を示す。

「大変ですよね」

「エリカちゃんだって他人事じゃないでしょ? 私から見ても、エリカちゃん年齢考えたら相当の巨乳なんだし。中学上がりたてなのにそれでしょ? 今いくつくらい? 目算だとEかFって感じだけど」

「……まだEカップです」

「まだってことは?」

 数秒悩んだ末にエリカは正直に白状する。

「店員さんには、F目前のEですねーって言われました」

「あら、おっきい」

 率直に言われてエリカは「むぅ~」と気恥ずかしそうに身悶えた。

 けれども女同士だし、この先輩二人が誠実な人柄なのは短い関わりだが、理解しているのでこうした話題は内密にしてくれる事を信頼していた。

「Eカップかぁ……やっぱり大きいわよね、エリカちゃんも。スレンダー巨乳ってやつかしら」

「中学三年の頃と高校入学当初はDだったんですけど、そのあとすぐ育ったみたいで……重たいし、運動すると揺れちゃうし、いい事ないなーって私は思うんですけどね」

「まあ、エリカちゃんみたいなスポーツタイプの子には、おっぱいとか邪魔よねー。私みたいにピアニストな女にとっても割と不都合あるけどね」

「そうなんですか?」

「うん。――手元が見えないのよね」

 フッと影を帯びた表情で陰鬱そうにそう零す紫音。

 テンションの落差にエリカも姫海も渇いた笑みを零さざるを得ない。

「ピアニストとして結構、大変そうだよね、それ……」

「靴ひも結ぶ時だって見づらいですしね……」

 姫海もエリカも事情を知り、感想を零していた。

 鍵盤が見づらいというのは確かに大変そうだと想像がついたのだ。そもそも、エリカとて靴を履く時などに視線を下に下げると見づらい。加えて、紫音はエリカ以上のボリュームを誇るのだから、殊更苦労するんだろうなとすら思える。

「って言ってもまあすっごい贅沢言ってるわけだけどね? 私としちゃあ無いよりある方が嬉しいから今のナイスバディは誇るもんがあるしねぇっ☆」

「んー、まあそれは確かにそうですよね」

「うん……貧相な体つきって思われるよりかは女性らしい起伏は欲しいからね」

「でしょでしょ? だからエリカちゃんも平気よ、すくすくおっぱいで」

「なんですかそのやたら健康的な言葉……?」

「すっごく明るく感じる不思議があるよね……」

「他人事みたいに言うけど、病弱なくせして見事なすくすくおっぱいの姫海が言ってもダメよ?」

「まずそのワードから離れましょう先輩」

 姫海がはぁ、と嘆息を零す。

「……先輩気に入ってます、それ?」

「存外に☆」

「語感が無駄にいいのは認めますけど……」

「ねー。自分で言っておいてアレだけど、なんか語感がいいわ。すくすくおっぱい」

「変なワードを気に入らないでください紫音先輩」

「あら、いいじゃないすくすくおっぱい。でも、体つきで言ったらエリカちゃんが私は相当羨ましいわよ?」

「え、そうですか?」

 女として肉感的なグラマーさを持つ紫音に言われても承服しかねるエリカだが、紫音はエリカの全身をさーっと一瞥して、むむと柳眉をひそめた。

「やっぱ改めて見るとバランスがいいわね……。ええ。だってエリカちゃんって肩幅狭くて、腰細いし、塩梅のいいスレンダーなモデル体型じゃない? なのに巨乳とか――女の理想的なボディラインだと思うし。その上、まだ発育途中なんだから胸とかまだ大きくなると思うわよ?」

 エリカはそれを指摘され少し戸惑う。

「ええ……、そこまで大きくなるのは運動の邪魔だしいらないんですけど……」

「まぁそうね。けど、発育とか結論体質みたいなもんだしねぇ……。私だってエリカちゃんの年頃にはFとかだったのよ。だからこれ以上はならないでしょーとか高をくくってたら、普通に大きくなっちゃったし」

 ふぅ、と嘆息を浮かべて体を少し動かすだけでボリュームのある紫音の乳房がたぽんと揺れ動いた。体現者というべきか、先駆者というべきか。ともすれ、先陣を知るものの言葉にエリカは悩ましく唸る。

「け、けど流石にこれ以上は……」

「わからないわよー? Fは間違いなくいくと思うし」

「うっ」

「身体的に早熟だってのと踏まえて、大人になれば尚更じゃない? GとかHとかも将来的になってるかもしれないし? 私みたいに、ね♪」

 くいっと腕で軽く胸元を押し上げて、その豊満さを紫音がアピールすれば、否定材料も薄いのでエリカは小さく嘆息してしまう。

「……確かに姉も母もスタイル良かったからなぁ」

「あら、遺伝?」

「だと思います、けど」

「一族揃ってとか理想的ねぇ」

「けど理想的――っていっても、紫音先輩も、すっごいプロポーションじゃないですか?」

 同性から見ても、紫音のボディラインは素晴らしいとエリカは思う。

 肉感的というか、女らしさに富んだというべきか。凹凸の激しい体つきをしていて、女の体としては多分相当上位だろう。それを考えると羨むほどか、とエリカは考えるが。

「私はそりゃあ学年一くらいにおっぱい大きいし、体つきは割と自慢よ? けど、エリカちゃんほどスレンダーってタイプじゃないから。そこが羨ましいかしら。痩せ過ぎじゃなく、太ってもない、抜群のスレンダーって感じだもの、エリカちゃんて?」

 そんな感じね、と紫音は微笑して告げてくる。

 というが、そこまでの大差はエリカは感じない。その辺り、感覚的な問題なのだろうが、やはりエリカは大袈裟じゃないか、という印象は拭えなかった。腰の細さは確かに自分が一番細いだろうが、それにしたって紫音も細い方だと思う。

「そしてエリカちゃんも相当のわがままボディだけど、こっちも相当なのよねぇ……」

「うっ。標的がぼくに……」

 若干困ったような視線が向けられる。

「アンタ以外にいないでしょう。姫海もスタイルいいんだから」

「姫海先輩は確かにスタイル抜群ですもんね……」

「まあ、しいて言うならエリカちゃんと比べると姫海は運動して鍛えられたスタイルの良さじゃなくて、運動できず不健康さがなんだかいい方へ廻って太り過ぎず痩せ過ぎずを生み出したスタイルの良さなんでしょうけどね……よくまあ華奢なのに、こんなグラマーになったもんよ」

「……なんだかそう訊くと怠惰に聞こえるね、ぼくって」

 姫海が少ししょんぼり気味に呟く。

「姫海って太らないじゃなくて、太れないタイプよね、多分」

 太れないタイプ。

 太らないタイプというのが、食事を過剰に摂取したとしても燃費の良さなどから太りにくい体質――エリカなどその太らないタイプだが、姫海は違うのかもしれない。

 幼少より患う難病。運動すれば致命傷になる彼女からすれば、脂肪を消費する余裕などない。しかし突発的に体調不良に見舞われれば大量発汗もするし、嘔吐下痢に悩まされる境遇にある彼女は太ろうにも太れない。

 その悪循環が何故かいい方向にスタイルを成長させた――それが姫海である。

「そのくせ、胸元はエリカちゃん同様に育ってるのよね……。エリカちゃんもエリカちゃんで運動少女なのに、胸だけは発育著しいとか、二人揃って反則じゃない?」

「そんな理不尽言われてもね……」

「勝手に育っただけですもんね……」

 ジトーという視線に耐えかねて姫海もエリカも抗議する――そもそも、言ってる本人もグラマラスなのだから、正直、この場に責め苦を言える者がいない。三人揃って巨乳の少女なのだから悩みはむしろ共有していた。

 ゆえに何も非難は起きない始末である。

「というかですよ?」

「なにかしら?」

「さっきまで真面目に話してたのに、どうして胸の話題になるんですか……」

「そこにおっぱいがあるからよ☆」

「もうヤダこの先輩……」

 がっくりと肩を落とすエリカに姫海が「まぁまぁ馴れるよすぐにね」と慰めにもならない言葉をかけてくれた。なんだろうか、同族な気がしてくるエリカである。

「まあ真面目な話に戻してもいいけど」

「ぜひ、そうしてください」

「ならエリカちゃんの恋バナを深く掘り下げていきましょうか」

「って、しまった!? 墓穴掘ってんじゃない私ぃ!?」

「にゅふふ。紫音先輩から逃れようなんてそんな後輩はおりませんことよ?」

 その言葉にエリカはもう諦めたのかがっくり肩を落とした。

 ただし紫音はそれまでのふざけた感じをひそめて、知的な色を瞳に宿すして語り始めた。

「まあいくらか真面目に話するとね、エリカちゃん。弦巻君について、悩むようなら真剣に考えた方がいいと思うわよ、恋についてね。端的にフレない、とかそういう感慨が湧くんだったらね」

「……はい」

 エリカは静かに頷いた。

 確かに、そうだと思う。少なくても、日向に関しては結論を急ぎたくない気持ちをエリカは抱いていた。つっけんどんに相手する事はしたくない。

「それと、もし仮に、弦巻君からそういうアプローチが起きる事があったときは、あんま時間をズルズル引き延ばしちゃダメだと思うわよ。今のままでいいとか、先延ばしにしてると後悔湧くと思うからね。特にキープとかいうのにならないようにね」

「それは確かに……注意しておきます」

 恋愛関係で他に相手が浮かばないにせよ、

(なぁなぁになる――っていうのだけは……避けてあげなきゃだもんね)

 そう、エリカは内心で頷いた。

 一生懸命に向けてくる想いに対して誠実にありたいと、そう決意する。

「恋愛でなぁなぁにするって男女共に最悪なのよ? 前にも後にも進めないんだからね」

「そういうものなんですか?」

「そうよー、一度そんなことをしてごらんなさいな。そのままズルズル微妙な関係が続いて気づけば別の誰かを恋仲になっちゃうかもしれないじゃない」

「は、はぁ……」

 力説するなあ、と不思議に思いながらエリカは相槌打つと、隣で姫海が呆れを零した。

「というか、それって紫音先輩に言えないよね?」

「……あ、あはは、姫海ちゃんったら何を――」

 そこでエリカはあれ? と小首を傾げた。急に呆れたような視線を含む姫海と、それに汗を流す紫音の構図に怪訝さを覚えたからだった。視線に気づいた姫海は「端的に言うとね」と小さな嘆息を滲ませて。

「紫音先輩って俗に言うなあなあ状態なんだよね……」

「がふっ」

 その一言が致命傷だったのか、紫音が大きく息を吐き捨てた。

「なあなあって……、……え!? 紫音先輩って、その、そういう人が……?」

「うぐっ。そ、それはね、エリカちゃん――」

「紫音先輩。エリカちゃんの件に口挟んでるんだから、潔くいかないかい。ね?」

「そ、それを言われると弱いんだけど、その、……ねえ?」

「ねえ、と言われましても」

 どう返せ、とエリカは苦笑する。

 というか――エリカもまあ、想像はある程度ついた。姫海の一言で十分すぎるだろう。なにせ、紫音が共にいる頻度の多い男子と言えば、一名程度しか思い当たらない。

「えーっと……調月先輩、ですか?」

「エリカちゃんてエスパー?」

「そんな真剣な顔で言われましても……」

「誰でもわかりやすいと思うかな、僕としてはね」

「くっ……! 私ともあろうものが後輩に易々看破なんて……! 終わりよ! 先輩なのに先輩風吹かせられないなんて! 先輩に生まれた意味がないじゃないの、わーん!」

「大袈裟じゃありません?」

「大袈裟に言って話題を頓挫させようとしてるんだよ。常套手段だから覚えておくんだねエリカちゃんも」

「ちょっと姫海!?」

 看破されたのが恥ずかしかったのか紫音が真っ赤になって動揺を示した。

 その姿に飄々とした悪戯猫のような風格すらある紫音もこういう一面あるのね、と感心を示しつつ、エリカは疑問を口にする。

「でもなんで、なあなあな関係なんかに……?」

「全ては紫音先輩が先輩風吹かしたのが原因かな」

 その言葉で紫音の顔にふっと暗い影が差した。

「それ言われちゃうと返すすべがないわね……。ふふ、そうよ。宴に告白されて、動転してテンパって余裕な年上態度取ったおかげで、なんか曖昧な形に濁しちゃったバカな残念美人が私ですよーだっ」

「すごいなげやりですね……」

「これでも、当時と比べればましなんだけどね。当時はもう自分のミスに影で絶望して、しゅんとなってる機会の多い事……その割に、調月君と一緒にいると楽しそうになるんだよね」

「確かに一緒にいる場面多いですもんね」

 初めて会った時も食堂で一緒になった時だ。

 今思えば、あの時は宴が女の子連れてきたと少し危険視したりしていたのだろうか?

「まあ、そういう事みたいなんだよね? ただ、客観的に言っても調月君ってイケメンじゃないか。だから他の女の子が近寄りづらいようにって――」

「よーし、ストップしましょうか姫海。私がいけなかったからストップ、プリーズ」

 赤い顔で焦燥した態度の紫音が待ったとかける。

 エリカは目をぱちくりしながら、

「相当、好きなんですね調月先輩のこと……」

「うっ。改めて問われると我ながら、くるものがあるわね……」

「そりゃあそうだよ、エリカちゃん。だって、紫音先輩ってば恋煩い二年目だもん。自分の次の年に入学してきた調月君にべたぼれで――」

「おっぱい揉むわよ?」

「どんな脅しだい!?」

 どよんとした顔でのたまう紫音に対して、顔を赤くして胸を抱きかかえて後ずさる姫海である。わきわきとした手に身震いするほかにない。

「ふんっ。調子に乗る姫海がいけないんだからね? 次言ったら揉むから」

「なんだかすごい揉まれ方をしそうだから心得ておくよ……」

「けど、調月先輩ってやっぱりモテるんですね? 私はそんな関わり合いないから実感とかわきませんけど……」

「だろうね。まあとりあえずまず顔で引き寄せるだろ?」

「益体もありませんね……」

「次に知名度でプラスアルファ」

「しかも運動も割とこなすのよ、あの男ったら」

「それは――普通にモテますよね」

 ユウマを連想して女子に黄色い声を上げられるのを想像して納得する。

 俗に言う完璧超人の部類なのだろう。

(そういう意味だと、弦巻も割と色々こなすけど、完璧超人ってイメージ皆無よね。むしろへっぽこ……ぽんこつ……いえ、ドジッ子という方があってるわよね、やっぱ。かわいいし素直だし)

 うん、と一人首肯する。

「ともあれ、納得です。調月先輩がモテる道理、総ざらいしてますもんね」

「ま、まあね――宴ってば普段から年下の癖して頼りがいあって格好良くてイケメンで。特に音楽センスなんか抜群だから、同じ音楽を好む女としてみると殊更魅力的なのよねぇ」

 はー、と紫音が表情を緩ませて頬を紅潮させていた。

 どうやら好きな異性が魅力的という事実の羅列に内心喜んでいるようだ。

「でも、完璧ってわけじゃないとこがいいのよねぇ。弱点皆無の男だったらなんていうか機械的に感じて魅力も感じないんだけど、割と色々背負い込んでるとこを知っちゃった身の上となるとキューンってきちゃった時がヤバくてね!」

「あのこれ……」

「うん……完全惚気だね」

「それで母性疼いちゃって慰めてたら、あいつも男子なのよねー。おっぱい見たら吸うのに一生懸命になっちゃって可愛かったっていうか――」

「「……ん?」」

「――あ」

「「……」」

 三人の顔が赤く染まった。

 特に紫音が真っ赤だった。やらかした女の顔だった。

「……――そ、それと宴は音楽センスも抜群なのが同じ音楽科として、」

「待って先輩、聞き流せない感じなのが……!」

「え? はえ?」

「忘れて姫海。エリカちゃんなんか、ほら普段のキャラと違う子になってるじゃない忘れるべきだと思うのよ、ええ。優しさ的にね!」

「いえ、優しくても無理ですよ!?」

 エリカは焦る。

「っていうか、そ、そんな大人な関係なんですかお二方!?」

「そ、そこまでじゃないわよ!? た、戯れっていうか、その……!」

「というかそこまでして先輩まだ恋仲じゃないってどういう……!?」

「うぐっ」

「……まさか、大人の余裕とかそういう事を言ったんじゃ――」

「うわぁああああああああああああんっ! 揉んでやるからーっ!」

「ひゃやぁあああああああああああ!?」

 ぐわしっ! と、そんな音が聞こえそうな鷲掴みっぷりだった。姫海の豊満な乳房がぐにゅりと形を変えて紫音の掌から零れていた。

 その光景を見ながらエリカはひたすら「はわ、はわわぁ……」と、突如明かされたアダルトな関係性に耐性なく真っ赤になって動揺するばかりだった。

 しばらくして。

 自身の胸を抱きかかえつつ、姫海が「とりあえず落ち着こうか」と涙目で言った。

「ええ、そうね。私も動転してたわ。覚えてるのは姫海の胸の感触くらいよ」

「絶対、全部覚えてますよね、先輩はぁ……!」

「私はもう逃げ出したい気分なんですけど……」

「ダメよ、エリカちゃん。エリカちゃんだってそのうち好きな男子におっぱい吸われちゃう未来が来るんだから」

「だとしても恥ずかしくて会話に参加できませんからね!?」

「けど、正直、エリカちゃんだと三か月以内にそうなりそうで……」

「やたら真面目に未来考察しないでもらえますか……!?」

 紫音の神妙な表情にエリカは危機感を覚えた。

 脳裏にはおそらく紫音の想像している男子がいる。確かに可能性は――ともかくとして、なんにせよ三か月以内なんてそんな早熟な事にはならないはずだ。ならない、はずである。

「けど驚いたよ、本当に。そこまで曝け出してるのに――どうして関係性が停滞してるんだい?」

「言わないで。訊かないで。お姉さんにも羞恥はあるのよ?」

 フッと自嘲気味な態度が返ってきた。

 本当に訊かない方がよさそうである。

「けど、意外です。なんていうかもっとこう余裕を持ってるのかなって思ってましたから」

「あははー、……やっぱりそういうイメージよねぇ。私って」

「紫音先輩?」

「ううん、なんでも。――まあ私が宴を振り回すそうに、私も宴に振り回されちゃう一面はあるってことなのよ、エリカちゃん」

 そう語る紫音の表情は悔しそうであり、何故かどことなく嬉しそうですらあった。

「なんだか不思議な感じですね。悔しそうなのに、なんだか……」

 そう問われると紫音は目をぱちくりした後に、くしゃりと笑みを零す。

「まぁね。悔しいわよ、私がこんな、なんてねー」

 あはは、と困った様に紫音は笑い、

「でもそれ以上に心地よくてしょうがないのよね。好きな男子の傍にいられるのが」

「紫音先輩……」

「ま、まあ色々とヘタレたり苦労する部分はあるんだけどね? でもそんなの度外視して構わないくらいに、私は思うのよエリカちゃん」

「どんなふうに、ですか?」

「単純よー、かなり」

 くすっと柳眉をひそめながら、紫音は万感の思いを吐露する。

「恋をして、こういうことかーってね」

 負けも勝ちも全部内包するような――そんな照れるような笑みを浮かべながら。


        3


 二人と別れた後――エリカは一人、中庭を散策していた。

 本当は、この後買い物に行かないとだが、それでも十分くらい静かな場所で考え事に耽りたかったというのがあるだろう。

 初音と真美はもう下校した後だ。ユウマには特に何も言わなかったが大丈夫だとして、日向は迎洋園家で仕事もあるので「エリカ、また明日ね!」という言葉に「ええまた明日ね」と返して見送った後だ。

 そしてエリカはといえば一人、物思いに耽っていた。

 敷地内を散策するような形で、歩いてゆく。

 芳城ヶ彩ともなれば見るところなど数多ある。見飽きない景色も幸いし、エリカは自分の高校ながらも本当にすごい場所という感慨を抱きながら――やはり思考はそれに定着せず、浮足立つように感情がさざ波をたてている。

 脳裏にあるのは、先輩二人と交わした会話。そして日向の事。

 それを考えてしまうと体が熱くなるようだった。頭が沸騰するようだった。心が火照りそうだった。冷まそうと思いながらも、熱量が心地よく、どこか冷ますのももったいない。そんな不可思議な感慨に襲われたからか意味もなく、中庭を歩いてゆく。

(落ち着かないとなのに、落ち着けないし……あぁぁぁ、もうあのわんこの所為でもう……)

 動揺を鎮めようと意味もなく歩いてしまう。

(っていうか今日は割とそういう話題が多かったし……なんだか落ち着かないなぁ)

 何度も何度も、今まで気に留めなかった恋愛絡み。気にならないと言ったら嘘になる。

(……帰りを調整してユウマに相談でも――)

 いや、と首を小さく振る。

(それはそれで恥ずかしいからやめとこう、うん)

 兄に恋愛相談というのも妹的に気恥ずかしい。

「ああ、でも男心って意味では――いや、でもユウマはユウマで弦巻への参考になる気がしないわね……」

 男同士通じる部分とやらがあるのかもしれないけれど。

 タイプが違い過ぎる。真逆というものではないが、趣向性の違いが如実だろう。

(結論、まだ自分で考えてる方がいいわよね……)

 だからまあユウマに一言も告げずに帰っちゃったわけだが――。まあ、平気でしょ、とエリカは率直に断じた。

 それから時計を確認すると、散歩の時間ももう残り少ない。

「スーパーの値引きまでもうちょっとかしらね……」

 やたら世俗的な発言だった。

 時間を工面しているわけだが、かといってあまり遅くなりすぎてもいけない。まあ遅くなりそうだったら連絡入れればいいかな、とエリカはそう結論づけた。

 ただ中々足が学院外へ向かないでいる。余計な事を考えてしまっている。

 もう少し。

 もう少しだけ、日向とのことを真剣に想い、悩み、――胸に熱を抱いていたい、とそんな事を耽りながら少女は歩く。

 ――その刹那。不意に。本当に不意に、エリカは足を止めていた。

 何故、そこで止めたのかと言われたら答えに困窮していただろう。とりたてて理由めいたものがあるわけではないのだが、何故だろうか――まるで水の膜に触れたような感覚に襲われたからである。

 本当にそれだけ。そんな不思議な感覚を抱いた場所で立ち止まり、視線を向けると、そこにあったのは湖畔だった。綺麗で荘厳な泉の畔。

「……こんなとこにも、湖畔あったんだ」

 エリカは漠然とそう零す。

 湖畔がある事自体は珍しい事ではない。なにせ、この学院には湖畔と呼ぶべき個所がいくつか点在しているからだ。そして大抵はカップルの逢瀬の場所となっているとも聞いている。昼休み、休み時間、放課後、そうした時間帯にイチャつく姿をエリカも目撃した覚えがある。

 ただ、ここにはどうやら、そうした姿はないらしい。

(……結構、学院から離れてないと思ったけどね?)

 徒歩でそこまで離れすぎた場所でもない。この時間ともなれば、恋人同士の影でも浮かぶかと思い身構えたが大丈夫そうだ。そしてなにより静かで安らぎに満ちている。

 考え事するのに丁度いい――エリカはなんとなしに湖畔に近づき、美しい青の水面を睥睨し穏やかな心地に揺蕩れた。

「綺麗な色……アイツの色みたいね」

 綺麗な頭髪、美麗な瞳。可憐な容姿の男子を思い浮かべて、エリカの胸の内は暖かな日差しの温もりを感じ――次の瞬間には赤面した。

(な、なに、変な事連想してんだろ私っ!?)

 湖を見て日向の色、などと呟くとか乙女過ぎる。普段にない自分の言にエリカは赤面し、思わずぶんぶんと頭を振っていた。

 考えないように考えないように――いや、考えはするのだが、着眼点がそこじゃないから、とエリカは自分に言い聞かせて畔を添う様に静かに歩いてゆき――ふと、気にかかったものを見つけて足を止める。

 それは――樹木だった。

 紫の花を咲かせる荘厳な大樹。雄々しく聳える生命力に溢れる一本の木であり、神々しさを放つようにどこか咲き誇る花々は光を灯すようだった。木漏れ日がそうみせているだけなのだろうが、目を見張るほどに美しい。

「……何の木かしら、これ?」

 すっと手のひらを幹に当ててみるも、植物学者でもないエリカには判別出来ない。ただマイナーな樹木かもしれないというのはわかった。有名な樹木にしては花の形も色もエリカには見覚えがない。

 ただ不思議と、異様に懐かしい心地に駆られた。

 それはこの場所も、そうだ。いるだけで落ち着くような実家の様な安心感がある。不思議な樹木で、不思議な場所だとエリカは胸中そう思いながら、静かに湖畔へ腰を下ろすと、水面に手を入れて水を救う。

 濁りのない透明な色。無垢な色。

「……すごい綺麗」

 透明度でいえば、如何程なのか。総統に美しい湖畔で、エリカは感激する。美しい水質というのは底の底まで見据えられて驚くほど幻想的だ。

「……やっぱり、弦巻みたいな色ね」

 エリカは優しい眼差しでそう零す。

「青くて綺麗なのに、こうして手で触れるとすごく無垢な透明な色合いで……」

 そこまで言ってエリカはすっと前髪で目元が隠れるように顔を下へ向けていた。僅かに見えるその顔は朱に染まっているようであり、唇はもどかしそうに熱の形を吟味している。

 そして、エリカは一瞬だけ青い空を仰ぐと――すぐさま芝生の上に横たわった。

 上を見上げれば大樹の葉々が日光を柔らかく遮り、優しい温もりになってエリカに降り注ぐ光景が映る。その中でエリカは目元を隠す様に腕で遮りながら、形の良い唇を微かに動かす。

 抱いたことのない感慨を、熱を帯びた感情のまま、そのままに。

「恋って……どんなものなのかしら……」

 萌芽はせども、蕾のままに。

 花の匂いを未だ知らぬ美しい少女は脳裏に浮かぶ無垢な少年を想起し、心の熱量を御しきれぬ戸惑いを心地よさとも感じながら――穏やかな時間をしばし、湖の畔で過ごすのだった。


        4


 午後六時半を回った頃。日の光に淡く照らされて、幻想的な色合いに染まる綺麗な茶髪をそよ風に揺らせながら、エリカは徒歩で隣町まで足を運んでいた。

「……ふぅ」

 何度目の嘆息かしら、とエリカは吐き出す吐息に自身の心境を滲ませ、身悶える様な感慨を感じながら歩道を歩く。吐息の理由は判然している。あいつ以外に在りえない。脳内で嬉しそうに甘えてくる子犬のごとき少年を思い浮かべては如何せん、頬が朱に染まるのを堪えきれず、熱を帯びた顔に手を当てて、再び嘆息が零れ落ちる。

 ――記憶にない感慨だ。

 ――覚えのない感情だ。

 ――なにより火照るような感覚だった。

 思い始めると一挙に熱波が押し寄せてくるような不思議な気持ちであり、熱量の中に蕩ける様な甘さが滲む。思い返すだけでも頭が沸騰しそうになる。今なら甘々なチョコレートを脳内で作れそうなくらいの状態だった。

「ああ、もうっ。なに、考えてんだろ私っ」

 そんな感情の波をエリカは赤面した顔のまま、ぶんぶんと左右に振った。道行く通行人が、エリカの容姿に目を見張り振り返る中のその行動に注目を浴びたりもするが、生憎そんな些末に意識を振り分ける余裕もない。

「なんか弦巻の事になると本当、私――変になりそう」

 うう、と情けない唸りが零れた。

 凛として輝く少女の普段、ともすれば高校以前から考えれば随分と自分のペースを狂わされている自覚は――癪だが、ある。無論、そういった相手がゼロだったわけではない。今までだって兄であるユウマや、実の姉なんかは顕著だ。

 ただ日向に対してだけは、なんというかそういうのと違ってると感じてしまう。

「ホント、なんなんだろ……」

 街中の建物の鏡にふっと映った自分の顔が赤く染まっているのを一瞥して「ぐぁぁ、わかっちゃいたけどまだ赤いし……」と恥じらい、自分の手で頬をくにっと押し拭うも当然それで消えるわけもなく。

 胸に去来する熱量は日に日に上昇している気配すらある。

(――保留よ、いったん保留っ)

 そこまで至ってエリカは必死の抵抗を試みた。

 このままだと拙い。

 何が拙いって注意散漫。前方不注意だ。交通法順守が第一だろう。考え事をしながら歩くのはいけないってお母さんだって言ってたし! とか脳内で一通り理屈を捏ねると徐々に心中も落ち着いてきた気がする。

 そこで犬の散歩する人が通り過ぎた。飼い主に懐いているのだろう小さい子犬はぱたぱた尻尾を振っていて実に愛らしい。

「……」

 何故、そこで脳内に『わうー♪ エリカ、エリカ♪』という声が響いたのかエリカは凄く良くわかっているが、わからない事にして歩みを進める。頬が熱い気がするが、まあ先程鎮めたばかりなのだから、ぶり返しなどではないだろう、と内心何度も頷きながら。

「買い物買い物」

 さながら念仏を唱えるごとくエリカは復唱して、鞄から一枚の紙を取り出した。昨晩のうちに纏めておいた買い物リストである。

 エリカがわざわざ隣町まで来たのは当然ながら理由がある。

 早い話が、夕餉の食糧確保含めて生活必需品の購入だ。新橋家の炊事洗濯は実のところ、父母ではなく自分かユウマが担っている為に、こうした行動は自然と兄妹で行ってきた。炊事洗濯といった家事全般も熟せる上に容姿端麗、運動神経抜群、気さくで人柄も良い――今更ながらに学院で人気を博す女生徒となるのも自然な話である。

(今日は特売日だし、この機は逃せないわよねっ)

 おおよそ、学院のご令嬢たちとは別方向に一線を画していると言えばいるが。

 ともあれ、そうして学院から特売日である隣町のスーパーまでエリカは淡々と足を運ぶ。体力自慢である彼女からしてみれば、この程度はなんてこともなく、目的地まで辿り着いた。

 見えてきた大きな商業施設、看板を目にするとすたすたとその店の入り口へと足を運ばせる。リストアップされた品物を購入して、遅くなり過ぎないうちに帰宅するのが望ましい。その為に早く済ませてしまおう、そう考えていたエリカだが不意に視界に入った光景を見て、足を止めないまでも意識を引き寄せられたと言っていいだろう。

(……あら?)

 そこ目にした珍しい人物に思わず少女は目を少し見開いた。

 長い銀髪――さながら氷を連想する程に美しい頭髪に同色の透き通るような瞳。驚くほど整った美貌を持った最近話題に上がっていた転入生――アイ=グラハム。兄であるユウマのクラスに編入した美少女転校生であり、友人たちとの会話で今日上がっていた人物を発見して、エリカは僅かばかり驚きを覚える。

(……なんで、ここにいるのかしら?)

 スーパーである。

 グラハム家は海外の名家だ。

 そして特売日。

(――あ、合わない……っ)

 自分が言えた話でもないのかもしれないが、あまりに景観に合わなかった。確かにここのスーパーは大きいし綺麗だし、特売ともなれば素晴らしい場所だが、そこに名門のご令嬢がいるというのが、どうにも合致しなかった。ただなんというかただ佇んでいるだけ、という様子から少女が誰かを待っているのだろう、くらいは予測がつく。

 デートか何か――じゃないだろう。いくらなんでも色気無さすぎる。

 ここが娯楽施設完備なら理解も出来たが、生憎とただのスーパーマーケットだ。だからこそもう彼女が何しているのか、なんでいるのかはわからない。

(入口で待ってると結構目立ちそうな割に、あんま気にされてないわね……)

 あれだけ目立つ容姿の少女なら目を引きそうなのに、とエリカは思ったりしたが、生憎と彼女自身は気づいていないが、むしろ視線はアイ同様に美しい容姿を誇るエリカの方へ向いていたりするのを理解していない。

(――まあ、用事のある場所なんて個々人だし。あんま気にするのも不作法よね)

 見ているのも失礼だろう、と判断してエリカはふっと意識を買い物の方へ向けて、特に気にせず足を進めていった。

 自動扉をくぐれば、傍には籠が重ねられており、その一つをひょいと手に取る。

 そうして店内へ足を踏み入れて買い物を始めようとしたエリカだったが、とある少年を見かけて足を止めた。入り口付近で転入生を見かけた時にも驚いたが、彼がここにいるというのも幾許か驚きを感じたというものだろう。

 ただ、こちらに関しては手にした買い物籠を見て得心がいく。

 理由は自分と同じようだ。

 なんで野菜売り場のじゃが芋の前で唸っているのか不思議ではあったが――、それよりもこうして同じスーパーにいて、何より兄の友人なのだから挨拶くらいはしておこうかしら、と考えてエリカは少年の方へ足を向けた。

「……あら、天道じゃない」

 そう後ろから声をかけると少年が反応を見せて、振り返る。

 見覚えのある顔が視界に映った。日向ほどではないが童顔、あるいは女顔に属する顔立ちであり、ふわふわとしたくせ毛交じりの淡い色合いの頭髪。ただ体格的には日頃、相手をしている日向と比べて真っ当に男性的――兄の友人である天道翔の姿だ。

 翔はエリカの顔を見やると、顔立ち通りに中性的な声色が響く。

「あ、やっぱりエリカさん」

 この辺り、やはり日向が特別なんだな、とエリカはなんとなしにそう思った。女顔の少年というのは、顔立ち以外は結構男性らしいものである。けれど、日向の場合は体つきも声色もどっちかといえば女性らしいのだ。その辺り、日頃密着する機会の多いエリカは良く知っている。

 そんな比較を内心しているのは当然知らず、翔は次に視線を一瞬だけ彷徨わせ、

「……今日はユウマと一緒じゃないんですね?」

「何よ、その私たちがいつも一緒にいるみたいな言い方……」

 自然、むすっと返してしまう。

 対する少年の表情から『でもユウマに懐いてますし、否定材料が……』みたいなものが読み取れた。これはそんな顔だ、とエリカは見抜く。だって表情が温かいものを見る感じだったし、なにより顔に出ているのだ。

 結構わかりやすいタイプね、と理解する。

(……そりゃまあ、ユウマと一緒にいること多いし、お昼一緒の時も多いけど……)

 何より、翔と遭遇する場面など基本ユウマを通してだ。だから日頃一緒にいると思われるのもある意味で仕方がないし、本人は認めたがらないが、事実ブラコン気味なエリカに否定材料はさほど無い。

 ユウマ以外の男子で一緒にいるとなれば日向だが、日向と一緒にいる場面は見られるイコール頬が上気するとなるわけでもあるが――、

「エリカさんも、夕飯の買い出しとかですか?」

 思考がまた熱を帯びそうな気配をエリカはどうにか振り払い、問われた翔の問いに対して務めて冷静に返答する。

「そうそう。あと日用品なくなってたし、その辺の買い物もね。……うちの家族は結構皆ズボラだから、そういうの気付かないのよねー……」

「へー」

 翔がそうなんですかといった様子で反応を見せた。

 何かを想像しているのだろう――大方、兄ユウマの事だろうが。

(ユウマは、聡いし気配りも出来る奴だし感覚的にも鋭いんだけど……なんていうか細かいところは雑なのよね……)

 妹から見ても完璧超人な兄だが、やはり両親の息子なのだろう。血は争えないとばかりの点もあったりする。そこが微笑ましくもあるのだが。

 ともかく、そういう事だから、と言って買い物のため翔に会釈を済ませてからと考えていたエリカだがそこで言葉が飛来した。

「でもエリカさん。いいとこに来てくださいました」

「……へ? 何が?」

 何で? と、小首を傾げるエリカに対して翔が答える。

「夕飯……カレーと肉じゃが。――どっちがいいと思いますかッ!」

「……」

 ツッコミたいところはあった。ただ突っ込むのも面倒な気がしたので、エリカは率直に答える事に決めた。

「……肉じゃが、かな」

「よし! じゃあ、肉じゃがにします!」

「いいの、それで!?」

 即断である。

 自分で言っておきながらも、一存で決定していいのだろうか? そんな風に考えながらじゃが芋を輝く笑顔で手に取った少年は渾身のドヤ顔を浮かべて、

「実際、どっちでもよかったので!」

「じゃあズバッと決めなさいよ!? ドヤ顔で言う事じゃないからね……!?」

 対する翔は「いやいやいや」と、小首を緩く振りながら買い物籠にじゃが芋を投入した。なぜ余所の夕飯絡みで渾身のツッコミをしなくてはならなかったのかエリカは判然としないながらも、自分のツッコミ気質に辟易しつつ、翔を見やる。ナイスツッコミでしたよ、と言わんばかりの表情に膝を屈する気分に駆られた。

 ――ともあれ、折角話がつながったのもあり、二人は軽い会話を交わす。

「そう言えば、エリカさんとまともにこうやってお話するの初めてですね」

「ん? そういえばそうね。ユウマ通して挨拶する程度だったしね」

 それに、とエリカは言葉を続ける。

「……こういうの悪いんだけど、私は男子苦手だから、なんとなーく話しにくかったのもあってさ」

 そう苦笑を零すと翔の反応は初耳――というような様子であった。

 エリカとしては最近に至っては、甘えん坊な日向に懐かれているのもあって、入学前後程に男子に対して苦手意識があるわけではないが、かといって薄まったというわけでもない。あくまで苦手なままだし、そういうのを感じないのは兄のユウマや弟みたいに感じる日向、それに陽皐といった友人くらいだろうか。

 対する翔はその辺り知識が無かった。彼の与り知らぬ事だが、エリカに好意を抱く男子生徒は彼女の苦手意識を風聞にしていたが、翔はそこまでエリカに関心を寄せていたわけでもない。友人の妹程度の認識もあって、そういうのは詳しくなかったのだ。

 その為、翔が抱く想いは疑問である。

(でも、エリカさんって絶世の美人だしスタイル抜群だし、気さくなのにな……)

 モテる要素を突き詰めた様な美人。そんな彼女が男子が苦手というのは何でなのだろうか、と訝しみ、第一に兄がいるのだから男性が苦手というのも不思議に感じて、問いを零す。

「けど、なんだって男性が苦手なんですか?」

「ん?」

 言われて不可解に思いつつ、エリカは自然と答える。

「ほらあれよ。父親に借金押し付けられてるじゃない?」

「……」

 翔の顔は青く染まった。そして「え、そうなんですか……!?」という驚愕と困惑が織り交ざったような声が漏れ出て「……え?」と返してしまいお互いにきょとんとする。

 だが、やはり動揺は翔の方が強かった。汗をだらだら流し、周囲の時空が凍結したかのような感慨に苛まされた少年が取れる方法は一つだけ――現状打破、空気を気の利いた一言で塗り替える。それだけだ――、

「エリカふぁん!」

 そうして目の前で一人の少年が盛大に噛んだ。

 そして泣き崩れた。精神的に。膝は折らない、男の矜持だ。

「えーと……」

 エリカが言葉に迷う中、

「そ、そのごめんなさい……。僕ってフォローしようとすればするほどこう……」

 虚ろな眼の少年が涙交じりに非礼を詫びてきた。

 こういうところは少し大事な子犬に似てるかも、と感じるエリカである。もっとも、日向の場合は多大に悪化させるかあっさり解決させるかの二極端な節があるけど、とエリカは内心で呟きながら「い、いや……謝らなくて大丈夫、よ……?」と動揺を押し殺しフォローする。

 それから嘆息を一つ吐いて、

「ごめんごめん。ユウマから私の過去とか全部聞いてると思ってたからさ。悪かったわね、急に暗い話して」

「い、いや、エリカさんは悪くないですよ……! そもそも僕があんな質問しなければよかったわけですし……」

「それはいいの。日常会話の一部だし、よく聞かれるしね」

 事実、その辺り気にした相手には説明を都度している。

 乗り越えた過去である以上は穿った見解、嗤う対応をされなければきちんと説明しておくことに戸惑いはないのだから。故に、エリカはこれ以上気に病むなとばかりに「ね?」と、力強く笑って見せる。

 その時、不意にガラス越しに背中へ日光が照射され少し眩しいわね、と感じていると前方の翔の様子が少しおかしかった――が、次には眦の涙をぐいとぶかぶかのセーターの袖で拭うと自分へ視線を戻すのを契機に、エリカは簡略的に説明する。

「ま、ざっくり言うとね。私の父親は私と姉に借金を押し付けて、いなくなっちゃって。本来もっとも信頼できるはずの男に裏切られた……ってので男嫌いになってしまって、ていう感じよ」

「な、なるほど……」

 そんな敏感な事に触れてしまい申し訳ないです、と翔が申し訳なさげに項垂れる。

 そこまで気になくてもいいんだけどね、とエリカは思いつつも、仕方ない事かとも理解している。誰しもこの手の話題には反応に困るのだ。明るい反応でいいのか、暗い反応でいいのか。その境目が難しい事をわかっている。

 ただ、エリカは本当に気にしなくていいと感じているのだ。

 それはかつて初デートをした日にも抱いた感慨――、

「だからいいって。それに、確かに親には捨てられたけど、そのあとでユウマと出会って、新橋家が私を養女としてに引き取ってくれたわ」

 だから今の自分はこの表情を浮かべられるのだ。

 最上の笑顔を、この過去に対して向けられる。

「ね? 私は――凄い幸せ者なのよ」

 伝わっただろうか。否、伝えられたはずだとエリカは自負している。

 この感情に慰みはなく、あるのは貴い誇りにもにた感情ばかり。新橋家という新しい家族に出会え、迎えられた感動はそのまま自分の奥底に根付いて萌芽し、花開いているのだ。この大輪を愛しく思う、心から。

 強がりなんてものではない、本気の幸福の在りかを示せるのだ。

 だからだろう――相対する翔はそのエリカの憂いのない顔に目を見張り、まるで『美しいものを見た』とばかりに表情を綻ばせて、

「さて、辛気臭い話しちゃったわね。私はもう少し買い物してから帰るわ。帰り道、暗いんだから気をつけなさいよ?」

 そう告げて、エリカは翔に背を向けて別れを告げた。

 どんなことを想っているかは、もうわからないが――それでも、気にやまなくていい事だと伝えられたと思うから、迷いなくエリカは当初の目的である買い物を再開する事としたのだった。


        5


「あら、もう八時になってたんだ……!」

 そうして買い物を終えて、岐路につけば時刻は八時を回っていた。

 見渡せば周囲も薄暗くなってきている。茜色の地平も終わりを迎える時刻が近い。仮にも花の女子高生ともなれば、この時刻に出歩くのは危険と言えば危険である。

 ただまあ、自分は平気だろうとエリカは高をくくっていた。

 伊達に武術全般をしているわけではない。合気道、剣道、空手、柔術――彼女は有名な武芸であれば大抵習っている。並みの女子高生ではない。

 ――無論、こうした武芸をやったのは理由がある。

 兄のユウマだ。炊事洗濯、勉学、運動武芸、何もかも――エリカは兄から教わった。奥底に耀く約束を以てして、彼女は兄に様々な可能性を習ってきたのだから。

 そう考えて僅かに歯噛みする。

 それは微笑ましい悔しさで。自分以上に事が出来る優秀な兄への可愛い嫉妬のようなもの。

(どんどん先へ行っちゃうんだから、……悔しいったらありゃしないわ)

 むむむ、と少しばかり唸りつつ、エリカはポケットや、鞄を弄っていた。

 すると彼女の表情が僅かに曇る。

 手に触れないのだ。自分の携帯電話の感触が。

 時刻が八時ともなると家に連絡の一報でも、と思ったのだが、生憎とその家に置いてきた可能性がある。そうすると僅かに心配になった。

 ユウマに対しては放任主義な新橋家だが、自分に対しては心配性なのだ。遅い上に連絡がつかない。それはまずい。割と困った。父母に心配はあまりかけたくない。

 仕方ないかしら、とそこで彼女は判断を下す。

 こうなった以上は早く帰る他にない。近道のようなものを使うのも手だ。

 通った覚えのある道筋、横道へ目を配る。

 懸念材料は巷の不審者や不良だが、そこらへんは大丈夫だろうと判断した。彼女はそこらの不良程度は蹴散らせるし、不審者に怯える程度の軟弱さはない。最悪、足早に脱兎すればいいだけの話。

 そう考えた少女はいくらか暗めだったが月明かりを頼りに歩みだす事とした。手持ちのライトが電池切れというのが心許ないが、駆け足気味に疾走する。買い物に卵がなかったのが一番の恩恵だった。

 そうしてぐいぐいと路地を疾駆してゆく。

 暗くはあるが、これならば――、

「これなら結構速く……ッ」

 そう、少女が判断をよしと感じた刹那だった。

 突如、轟音が響いたのは。

「――ッ!?」

 びくりっとエリカの全身が驚きに跳ねた。

 さながら大岩が地面に落下したかのような轟音。響いた場所は先の角を曲がった辺りか。いったいなにが、という恐怖心を僅かに覚えながら壁伝いに身を潜めて、歩みを進め――そうしてそこにエリカは思いもかけない光景を見る。

 ――――殴っていた。

 ――殴っていた。

 殴っていた。

 ただ、ひたすらに殴打していた。頭髪を鷲掴み、女性の体躯を釣り上げながら、血走った眼光を狂気に輝かせ女性の体を殴る悪鬼をそこに見る。明るい茶髪に自分と同い年程度の少年の姿をした悪鬼がそこにはいたのだ。

 彼の体躯に、拳に、遠目でこそあるが滴る液体を見た。恐らくは血液だろう。

「あーあ」

 そこで少年の胡乱げな声が聞こえた。

「もう壊れちゃった」

「――!」

 そこで沸騰するような嚇怒がエリカの体躯を迸る。

 勢い任せに怒鳴りつけたい衝動に駆られるも――鋼の精神がぐっと嚇怒を押し込める。次に冷静に状況を鑑みた。ともあれ、答えは一つだろう。

(殺人事件……!)

 無意識的にポケットを手探るも触れるものは手鏡程度。あ、そうだ携帯無いんだ、という失望感を一瞬抱くも、ないのなら仕方がない。出来る事は少年の容姿を目に焼き付けること。犯人像さえ絞れればそれだけでも事件を食い止める手立てにはなる――。

「おい、ミカ。次探すぞ」

 ただ、そこで訝しむ光景が挟まった。

 少年の言葉に付随し、姿を見せた人影が一つあったからだ。ただ、エリカが驚いたのは仲間がいたとかそういう事ではなく――まるで、そぐわない光景を見た戸惑いである。

秀則(ひでのり)君……。もう、止めましょうよ……」

 それはお人形さんのように可愛い少女だった。金髪碧眼の、白い肌をした美少女。日本人ではないだろう、間違いなく外国人だとは思う。

 ただ、凶器的な少年に対して、どこか怯えを滲ませる少女は正反対過ぎだろう。

(どういう関係……?)

 そう、想い身を少し前に乗り出そうとした刹那――、エリカは誤った。

 ポケットから手を出す最中に、手鏡を落としてしまったのである。当然、それは人気のない路地に落下し、玲瓏な――その緊迫感ある空間にそぐわない玲瓏な響きを発する事となる。

「……誰だ?」

 当然、相手はその静寂を破った音に気付く事だろう。

 少年がギロリと危ない輝きを放つ眼光を向けた。エリカは僅かな逡巡の後に、意を決して姿を現す事とした。すぐに見つかるのは必定――そこで逃げず、姿を出したのは彼女の剛胆さゆえとも言える。

 見れば、何とも大したことのなさそうな少年に思えた。

 体躯は筋肉がついているわけでもなく、佇まいも武芸者のものではない。体中から緩みと隙が見て取れる。女一人を殴殺した少年とは思えない体つきで、そこらの不良の方がよほど外見上では強そうに思えた。

 ただ眼光だけが危なかった。

 狂気的で、狂喜的な、凶器的である眼光。見ただけで危ない奴だという感慨が湧く眼差し。しかしエリカは怯えず、泰然と構えて女性を一瞥し、

「……その女の人に……なにしたのよ」

 何をした、という問いかけを発しつつ、もうされてしまったと実感も抱きながらの問いかけだった。少年は「はひゃっ」と下品な嘲笑を一度零して答える。

「見てたならわかるだろ? 殴ったんだよ。――殺したんだよ!」

「……」

「いーよなー、この開放感……最ッ高だよ……。ミカのパートナーになって本当によかった……」

 思いの外――言葉は通じた。恍惚とした雰囲気ながらも、会話に応じた事に少なからず驚きを覚えつつ、それでいてエリカは困惑を余儀なくされる。

(パートナー……? ミカ、はあの子よね……? ――なったから、なんだってのよ……?)

 判然としない。少なくとも単語のニュアンスがわからなかった。

 パートナーになったから、何がどうなるというのか? 殺しの相棒とでも? それにしては少女の方に殺意と気概が感じられない。わからない事が多い。だがわかる事が一つある。

 それは――如何な理由があっても無抵抗の女性を殴り殺す理由にならない事だ。

「自首しなさいよ。立派な殺人に当たるわよ」

 エリカは至極真っ当な意見を述べる。

 もしかすれば痴情のもつれだとかなんとか、私怨やわだかまり、口論の末の激情などと理由が挟まっているのかもしれない。その末に暴行が起きたのかもしれない。だから内情を掴めない以上は責め苦は発しないが、その末に殴り殺したのならばそれではすまない。

 自首すべきだ、とエリカは促していた。

 だが、真っ当な精神性のエリカは想像が弱かったのかもしれない。

 真っ当な正論は――狂気の輩に通じないという事を。話の通じない輩は、理屈抜きに本当に会話が噛み合わない現実を。

 そして、エリカは知らなかったのが致命的でもあったのだろう。

 目の前の少年こそが――紙面にて、ニュースにて、世間を怯えさせる犯罪者の一人。

 世に【茶髪女性連続殴殺事件】の加害者にして、警察内部で【悪来】と名付けられるまでに至った殺人鬼であることを――、

「へぇ――良く見りゃお前も茶髪ストレートかぁ……」

 それは少女が知る由もない――少年なりの死刑宣告だった。

「え?」

 次の瞬間、エリカの真横に風が切った。ドゴン、という信じられないような轟音が木霊し気づけば後ろでガラガラ……という異様な音が響く。

 瓦礫だった。

 エリカの後ろにあった電柱の一部が瓦解した事による――崩落の痕跡だった。

 そこで思考が加速する。少女の脳内に恐ろしい自分の末期が走馬灯のように駆け走った。今の一撃の一切の躊躇もない暴威の振るい方。その暴虐が自分を襲っていたらどうなってしまっていたのかという畏怖。

「――あ」

 胸に去来したのは恐怖だった。

 おおよそもうだいぶ感じた覚えのない男性への恐怖心。最近において感じる事も薄れていたはずの感慨が幼少より慟哭し再誕の絶叫をあげるかのように。

 目の前で自分の剛力に満足そうな笑みを浮かべ愉悦する顔を恐怖し。

 崩落した電柱の瓦礫を自らと重ねて恐怖し。

 なにより死骸と化した物言わぬ女の骸に未来を想い恐怖した。

「すげぇだろう?」

 少年が恍惚と呟く。

「ミカのおかげで、俺も【剛力】の力が使える様になってさー……」

 ゆっくりと近づいてくる暴虐の化身。

 狂気を滲ませる愉悦の【悪来】。

 名も知れぬ少年にエリカは久方ぶりの恐怖を抱き、彼が普通ではないと自覚する。

「……や……」

 ――ヤバい。

 ことここに至り、エリカは自分の選択の甘さを実感した。

 大丈夫だから、強いから、逃げれば平気――そんな甘い考えが今の事態を引き寄せた。それを刹那後悔し――次の瞬間には、脱兎のごとく逃げ出した。

 戦えない。あんな力の怪物相手になど。

 逃げて、逃げて――逃げ延びる。その一念で新橋エリカは必死に駆けだしていたのだ。

 だが――恐怖は迫るもの。

 逃げる背中を追いかけるからこそ、恐怖心であり、逃さぬとばかりの妄執こそが本質である。這い寄る悪意のごとく、その恐怖は後ろを付け狙っていた。

(嘘でしょ……!)

 足の速さには自信があった。

 なのに、少年は爛々と目を輝かせながらエリカの後方に迫っていたのである。どうやら剛力ばかりか、足も速いらしい。おおよそ鍛えられた、とは思えぬ体躯のくせしてどこにそんな力があるのかと怖気立つ光景だった。

(目撃者は殺す――ってことかしら)

 ぞくりと背中が冷える。

 定番だが定石だ。そして、残念な事に捉えられればどうしようもない。あの力の前に自分の腕力が敵うとは到底思えないのだから。そうなれば、あの女性の様に、あの電柱の様に自分は死ぬ。――死ぬ。

(――竦んでんじゃないわよ、足ッ)

 がくり、と力が損なわれそうになった両足に鼓舞を叩きこんで、エリカは必死に全力疾走する。逃げないとヤバいなんてのは、修羅場をくぐってきた自分にはわかっている。

 家まで逃げ切らないと、と必死になって――、

(ぁ――違う、ダメだ)

 そこで、はたと気づいた。

 家まで逃げる?

 悪手だ。

 家がバレるという事態こそ避けねばならないだろう。最悪被害はエリカ以外にも及ぶ危険性がある。それだけは絶対許容できない。

 身寄りを失くして路頭に迷い、絶望に濡れた自分を救い出してくれた場所を。

 温かく迎え入れてくれた大切な家族のいる空間へ。

 たかだか殺人鬼風情に土足で穢されるなんていうのは――絶対に許せない事だ。

 体力が尽きるか、追いつかれるか、推測した未来はその二つしかない。

 ことそこまで至り、エリカは己を奮起させる。頬を手でパンと叩き、自分の健脚に力を込めた。奮励の花は散華などしはしない。自分は強い――だから大丈夫と、少女は厳かに覚悟と決意をにじませる。

(体力勝負なら、負けはしないわよ……!)

 やってやろう。どちらの精根が先に潰えるのか。

 覚悟は此処に聳え立った。エリカがそう胸に灯した時――、事態は変容する。

「うわ……!?」

 切羽詰った様な困惑の声。

 少年の声だ。エリカは何が……? と、顔を一瞬だけ後ろへ向けて――その光景に疑問を抱く。不自然な事に、少年の体は停止していたのだ。走るその姿のままで。静止画のように、不可解なポーズで。

 馬鹿をやっているのか、なんなのかはわからない。

 不可解で不自然な事象が起きているのもわかっている――だが、そんなものはどうでもいい。ならばすべきことは一つだから。疑問にこそ、思えど構う暇はない。

 今ならば――逃げ切れる。

 そう感じたエリカはその先の角を曲がり、速度を一切緩めず駆け走ってゆくのだった。




 右往左往に、見覚えのない道へ入り込まないようにだけ、苦心しながら脱兎のごとく走り続けて数十分。やがて視界に入ったものを見て、思わず足が緩みそうになる。

 それを目にした瞬間、年甲斐もなく泣きそうになった。

 見慣れた赤い屋根の白い大きな家。自分にとって第二の大切な家族が住む場所。それが見えた時のエリカの心境はもうどうしようもないほど温かいものだったから。辿り着いたその場所で周囲を一回だけ見渡して、悪意の影がどこにもないことを理解すると、一目散に家の扉を開き、玄関へと駆け込んだ。

「――ただいまっ!」

 吐き出した声に憔悴が宿らなかった事をエリカは内心安堵して、家に戻れた事実に安心感を覚えながら飛び込めば、そこは見慣れた家の玄関で、見慣れた風景に心が落ち着きを取り戻し始めるようだった。

 ただ違うのは同じく玄関にユウマの姿があったことか。丁度、靴ひもを結びどこかへ出かける頃合いだったのだろうか。

 兄は、駆け込むように帰ってきた妹の様子を目を丸くして驚き見張り、

「エリカ、遅かったね。っていうかどうしてそんなに慌てて……」

「え。あ――、帰りあんま遅いと心配かけると思って慌ててただけよ」

 疑問を呈す兄の言葉にエリカは務めて冷静に返答を返す。強張った声にならずに済んだ事に内心で息を吐き出して、逆にエリカは兄の様子に問うた。

「ってかユウマこそ、こんな時間にどこに行こうとしてたのよ?」

「いや、別に……エリカ探しがてら散歩行こうと思ってただけ」

 言いながら、無用となった上着を脱ぎながら、ユウマはそう零してエリカはそうなんだ? と感慨を抱いていると「もー、ユウくんったら素直じゃないんだから」という綺麗な女性の声が聞こえると同時に「いてっ」と兄の悲鳴が零れる。

「あ、お母さん。ただいま」

「はい、おかえりなさい。エリちゃん」

 茶色の色彩の瞳。胸元まで伸びた艶やかな濡れ羽色の頭髪。

 抜群のスタイルを持つ整った容貌の美人であり、外見だけでは二十歳そこらにしか見えないが、この女性こそエリカの義理の母に当たる人物である。完璧超人と学院で噂されるユウマを産んだ母親であり、その容姿は色あせる事無く若々しい。

(相変わらず、私が初めて会った頃から全然歳喰ってないわよね……)

 世に言う美魔女とは母親の事を指すのではないだろうか、とエリカは内心感嘆する。

 どうやれば、こんな延々と若々しいのだろうか不思議にさえ我が母親ながら思うものだ。

 かくいうエリカも後に母と同じ系譜を辿る事になるのだが――それはまだ先の話。

 ともあれ、母は右手を頬に当てつつ、ユウマを一瞥してにこりと微笑む。

「ユウくんったら家帰ってきた瞬間、エリちゃんがいないってわかった瞬間、慌てて捜しに行こうとしてたのよー♪」

 盛大な兄の行動暴露だった。

 ユウマが「母さん……余計な事を……」と若干脱力して苦笑を灯すくらいには。だが、母親に毒づいても返ってくるのはにこにこした笑顔とあらあらという嫋やかな反応なのは兄妹共に知る事だ。

 新橋家最強、美貌の母に勝るものなし。

 その空気の中で――、エリカは人知れず再び泣きじゃくりそうな感慨に襲われていた。

 怖かった恐怖心は今なお這いずっている。けれど、同時に兄の純粋な心配してくれる優しさに触れて、内面は複雑に混ざり込み、瞳が涙で潤みそうになる。

 だけど、泣きだせば何故かと問われる。

 この空気に恐怖を介在させたくない。

 だから、エリカは務めていつも通りに振る舞った。

「ま、ユウマは素直じゃないもんねー。うんうん」

「…………この世界で一番言われたくない奴に言われたもんだなぁ」

「ぬぁっ!? な、なにがよ!?」

「……いや、だってエリカ、ツンデレだし」

「違うわッ! 誰がツンデレよ、だ・れ・がっ!」

 えー、という視線を向ける兄に対してぎゃー! と、抗議の叫びを返すも兄は平然と「ほーれ、騒がない騒がない。ご飯作っといたから食べるよー」と、いつも通りの受け流すような反応でいなしつつ居間の方へと足を向けてゆく。

 ――ほら、いつも通りじゃない。

 その背中、母と兄の後姿を見つめた後に、エリカは小さくそう零していた。

 大丈夫。いつも通りの光景が広がっているだけ。

 まるで先程の恐怖など無かったかのような感慨を抱く。白昼夢でも見ていたかのような、そんな幻想を夢見る心地。怖い事など何もなかった。そう思いさえしてくるように。

(ご飯を食べて、テレビの話題でふざけたりして、学校の出来事でお母さんと話したり、お風呂でゆっくり浸かって――、ああ、後は弦巻が寝る前に電話かけてきたりするかしら。甘えん坊だし、今日はちょっと話したい気分だしね)

 そうして布団に入ってゆっくり眠る。

 いつも通りが続けられる。エリカはそう願いながら、靴を脱いで玄関へ上がり、手を洗ってから居間へ行こうと決めた。そこには温かい一家団欒が待ってくれているのだから。

 ポケットの中にあったはずの手鏡の重さが消えている事実を、悪意の鎖が這いずってくるのを感じる心を振り払いながら――新橋エリカは、いつもの光景に戻ってゆくだけ。

 強く強く――軋むような悪意の音に耳を塞ぎながら、願いながら。

 平常な日々の続くさまを希いながら。


        6


 夜天の高み。

 眼下の悪意を睥睨する影があった。

 金色の少女を引き連れて、暴虐を織り成す【悪来】を常闇より注視しながら、陰に潜むその人物は悩ましそうにあごに手を添えている。

「何時か起こるだろうとは考えてはいたが、いざ起きると起きたで困ったもんだな。【パーティー】は、本来じゃ絡まらないわけだったが――如何せん、やはり起きるときは起きるか」

 さてどうするか、と影は悩む。

「不干渉が前提だからな。流石に【パーティー】に対して余波とはいえど、介入するのは好ましくないか。かといって見過ごすのも信条に反するが――」

 仕方ない、と影は嘆息する。

「見据えるか」

 出来るのは事態の推移を見守る事。少なくとも現状では介入する権利もない。ならば、自分が織り成すべき事は当初より定まった範囲での事に過ぎない。

 だが如何な理由あれど人死になど避けるべきことなのだから。

 それが偽善なのは百も承知。己にできることなど偽善しかないとわかっているとしても。

 そうして男は背中より純白の翼を広げさせ――常闇へと飛び去ってゆくのだった。



第七章 恋愛事変、エリカの動乱 後篇

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