終章
二〇〇八年冬、古びた家の荷物を片づける家族があった。小春日和、ともすれば眠気を誘う暖かさの中、不要品が次々に持ち出されていく。
「さあ、テレビなんか消して、ゴミを出すだけでもやって。」
橋本美紀は動きが重くなりがちな夫と、遊んでばかりの息子を叱る。
どうしてこの家にはこんなに物が多いのだろう、と、美紀は思う。三代前からの住人が不要になった物でも捨てずに仕舞い込んだからか、古い書き置きやら達筆すぎて読めないノートがウンザリするほど詰め込まれている。
美紀はこの家が嫌いだ。古びているだけでなく、作りそのものが暗くて陰気だ。これまで数えるほどしか来たことがない。何となく気分が滅入るので、用がなければ来たくなかったのだ。
夫の祖父と祖母が住んでいたのだが、結婚したときには既に他界していた祖父はもとより、結婚二年目に息を引き取った祖母にもほとんど会っていない。美紀にとっては他人の家に近い。
それから人が住まず、義父と叔父が時々やって来ては管理していたのだが、二人とも歳を取ってそれも出来なくなり、ますます痛んでしまった。
もう取り壊すしかない。義父と叔父は話し合って、その後に息子一家三人のための家を建てることを提案した。
結婚して一五年、一人息子の啓治も来年は中学生になる。もうそろそろ借家でなくて自分の家が欲しい。夫の充はこれといって取り柄のない人だけど、真面目に働いてくれる甲斐あって住宅ローンも組めそうだ。
そう考えていたときに、義父が土地を譲ってくれるというのだ。都会ではないがそこそこの地方都市の郊外、車で五分も走れば国道に出る。調べてみると小学校、中学校とも歩いて一〇分ほど。今建っている古屋はともかく、立地条件はいいのだ。
美紀は嬉しかった。何となく取っつきにくい義父だと思っていたけど、ちゃんと息子夫婦や孫のことを考えてくれていたのだ。
話はトントン拍子で進み、来週にはこの家を取り壊し、すぐに新築工事にはいることになった。
「ほら、早くして」
夫の充は生返事をしてノソノソと立ち上がる。この期に及んで、まだ取り壊しを渋っているのだ。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの思い出がどうとか、そんなに大事ならどうしてこんなに痛むまで放っておいたの? それより、息子の将来を考えてよ。
優しくていい人だし、愛してもいる。けど、いざというときの優柔不断にイライラする。そう云えば義父もはっきりものを言わない人だ。そういう家系なのかしら? 祖父は海軍だったそうだけど、義父も夫も軍人のようなキビキビした印象はない。そういえば祖父は戦時中にシベリアに抑留されたと聞いた。捕虜になるくらいだから大した軍人ではなかったのだろう。
テレビではイギリス陸軍の再編は今年完了を目処とすることを伝えている。
「お父さん、これ戦争の話?」
充は答える。
「いや、そうじゃなくて不必要な部隊を整理しようと……」
美紀の声が一オクターブ上がる。
「早く片づけなさい。テレビは消して。」
啓治は「はーい」と間の抜けた返事を返してテレビを切る。
日頃はニュース解説なんかほとんど見もしないくせに、どうしてこんな忙しいときに遠い国の軍隊なんか気にするのだろう。
美紀は、今日はヒステリー気味だと自覚している。この家がいけないのだ。昔ながらの暗い室内が神経に障る。でもそれももうすぐ終わる。
来月には新築工事が始まる。新しい家は大きな窓の広いリビング、センスのいいキッチンで快適に過ごせるだろう。そこでケーキを焼こう。充はそれを美味しいと誉めてくれ、啓治は大喜びで口いっぱいほおばるのだ。
美紀は自分の空想にうっとりとなった。そのためにも今日は頑張らなくちゃ。
「そこのゴミをしばって。紙は資源ゴミね。早くしないと回収車が来ちゃうのよ。」
「ちゃんと分別しないとリサイクルできないんだよ。」
「少しぐらいはいいの。ほら、早くしばって外に出して。今日出し損なうと、次の回収は家を取り壊した後なんだから。」
啓治は古びた大学ノートを適当な厚さに積み重ねてしばる。きちんとした細かい字でびっしりと書かれている。日付や時間が並んでいるから何かの記録なのだろうが、昔の字なので小学生の啓治にはほとんど読めない。
重ね損なったノートから写真がすべり落ちる。角がすり切れるほど古びた写真だ。セピア色に変色した白黒写真の中央にダブダブのつなぎを着た男が立っている。日焼けした顔が真っ直ぐにこちらを見ている。そのうしろには何色かで塗装された丸っこい小型飛行機がある。
誰だろう? 遺影の曾お祖父ちゃんとは違うみたいだ。もっと格好いいな。これってパイロットの服なのかな?
どこだろう? 天井は低いけれど大きな部屋に、色は違うけれど同じ形の飛行機が沢山並んでいるみたいだ。この胴体に描かれた十字のマークはたしか……
「こら、またサボって!」
母の叱責に啓治は慌てて写真を大学ノートに戻して作業を再開した。写真って、古紙と一緒に資源ゴミに出してもいいんだったけ?
大学ノートは古新聞や雑誌と一緒に束になり、充の自動車に積み込まれ、ゴミ集積所に運ばれていった。ゴミ集積所はすでに回収車が横付けされ、作業員が次々に古紙を積み込んでいる。
「間に合った。これもお願いします。」
作業員は無表情に、ゴミの束を荷台に投げ入れた。
ドーバーの零、完
参考文献(五十音順)
アドルフ・ガラント ヴェルナー・ヘルト(野崎透・訳) 大日本絵画
アドルフ・ヒトラー ジョン・トーランド(永井淳・訳) 集英社
ウィキペディア フリー百科事典
宇佐海軍航空隊始末記 今戸公徳 光人社
英仏海峡の空戦 D・スコット(岡部いさく・訳) 朝日ソノラマ
英独航空戦 バトル・オブ・ブリテンの全貌 飯山幸伸 光人社
エニグマ暗号戦 恐るべき英独情報戦 広田厚司 光人社
大空のサムライ(正・続) 坂井三郎 光人社
海軍航空隊始末記 源田実 文藝春秋
海軍航空隊全史 奥宮正武 朝日ソノラマ
空軍大戦略 リチャード・コリヤー(内藤一郎・訳) 早川書房
機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋戦記 橋本廣 光人社
急降下爆撃 ハンス・U・ルデル(高木真太郎・訳) 朝日ソノラマ
空母機動部隊 遠藤昭 朝日ソノラマ
空母「瑞鶴」 神野正美 朝日ソノラマ
空母零戦隊 岩井勉 朝日ソノラマ
航空作戦参謀源田実 生出寿 徳間書店
航空テクノロジーの戦い 碇義朗 光人社
最後の零戦 白浜芳次郎 朝日ソノラマ
雑誌「丸」各号 光人社
指揮官たちの特攻 城山三郎 新潮社
白州次郎 占領を背負った男 北康利 講談社
小艦艇入門 海軍を支えた小艦艇徹底研究 木俣滋郎 光人社
昭和天皇に背いた伏見宮元帥 生出寿 徳間書店
スピットファイヤ モデルアート1992年4月号臨時増刊 モデルアート社
世界の傑作機 メッサーシュミットBf110 文林堂
世界の傑作機 ユンカースJu87スツーカ 文林堂
世界の傑作機 零式艦上戦闘機11-21型 文林堂
石油技術者たちの太平洋戦争 石井正紀 光人社
零戦 堀越次郎 奥宮正武 朝日ソノラマ
零戦搭乗員空戦記 乱世を生きた男たちの哲学 坂井三郎ほか 光人社
零戦の遺産 設計主務者が語る名機の素顔 堀越次郎 光人社
零戦の運命 坂井三郎 講談社
零戦の最後 坂井三郎 講談社
零戦の真実 坂井三郎 講談社
零戦百科事典 傑作戦闘機ハンドブック 雑誌「丸」編集部 光人社
零戦燃ゆ 飛翔篇 柳田邦男 文藝春秋
戦闘機零戦 野沢正 廣済堂印刷
戦闘機パイロットの空戦哲学 服部省吾 光人社
大空戦 E・H・シムズ(石井好美・訳) 朝日ソノラマ
帝国陸海運の基礎知識 日本の軍隊徹底研究 熊沢直 光人社
鉄十字のエースたち R・F・トリヴァー T・J・コンスタブル(手島尚・訳) 朝日ソノラマ
ドイツ空軍戦記(正続)S・W・ミッチャム(手島尚・訳) 朝日ソノラマ
ドイツ空軍全史W・マーレイ(手島尚・訳) 朝日ソノラマ
ドイツ戦闘機開発者の戦い メッサーシュミットとハインケル、タンクの航跡
飯山幸伸 光人社
特攻の海と空 渡辺洋二 文集文庫
日本海軍地中海遠征記 片岡覚太郎 河出書房新社
日本軍隊用語集 寺田近雄 立風書房
始まりと終わり栄光のドイツ空軍 A・ガーランド(フジ出版編集部・訳) フジ出版社
悲劇の発動機「誉」 前間孝則 草思社
三菱航空エンジン史 松岡久光 三樹書房
メッサーシュミット M・ケイディン(加藤俊平・訳)サンケイ新聞社出版局
メッサーシュミットBf109B-E モデルアート1991年8月号臨時増刊 モデルアート社
メッサーシュミットBf109F モデルアート1993年5月号臨時増刊 モデルアート社
勇者の海 空母瑞鶴の生涯 森史朗 光人社
連合艦隊空母 佐藤和正 廣済堂出版
わが闘争(完訳) アドルフ・ヒトラー(平野一郎・将積茂・訳) 角川文庫
WWⅡドイツ空軍ユニフォームと個人装備 野原茂 グローンアロー出版社
「もしバトル・オブ・ブリテンでドイツ軍が零戦を使っていたら?」、架空戦記としては使い古された――それこそ「架空戦記」という言葉が生まれる以前の――ネタです。
大体の意見としては、航続距離が長くて空戦に強い零戦は大勝利、ってとこのようです。しかし、筆者はそうは考えません。その答案が本編です。
無論、これは筆者の意見です。条件づけを変えてやれば、全く逆のシミュレーションを、筆者よりも説得力を持たせて構築することも可能でしょう。また、筆者の不勉強や認識不足によりあまりに説得力に欠けると感じる展開も多いでしょう。
正直に白状すると、筆者は零戦対スピットファイヤの空戦より、そこに至るまでの状況や、その結果もたらされる影響の方に関心があります。ドーバーで零戦が戦うといっても、どうやってそこまで零戦を持って行ったのか? それより、どうしてそんな事態となったのか? そもそもバトル・オブ・ブリテンが始まった一九四〇年(昭和一五年)七月と云えば、零戦が正式採用された時期ではないか。そういうのをちゃんと説明する方が面白いんじゃないか。
そういうことにこだわるから、肝心の空戦シーンは少なくなってしまいました。あしからず、です。
いま筆者は本編では書けなかった、この物語の太平洋戦争に興味があります。かなり史実と違うでしょう。何せ日米開戦前に零戦の欠点が敵味方に明らかになっているのですから。
そのほか、話が逸脱するので割愛したエピソードがいくつもあるのは筆者としては心残りではあります。零戦を早期に量産するために何があったのか、「瑞鶴」の復路はどんな苦労があったのか、橋本と晶子の恋愛はどんなだったか、帰国後の源田実の活躍(暗躍?)は如何に――何せこの方は現実でも、『どこまで本当なんだ?』と思うエピソードがありますからねえ――、等々……。
この物語はドイツで零戦を運用するという荒唐無稽な事態を引き起こすため、筆者自身もあり得ないと認識しているほどの事実改ざんを繰り返しています。例えば、作中で空母「翔鶴」と「瑞鶴」の完成が猛烈に早まったとしていますが、これは「大和」を建造している海軍工廠の工員をそっくり「瑞鶴」の川崎造船所に移動させでもしなければ、海軍の方針とか以前に物理的に不可能です。
距離の単位は、日本海軍はノット、イギリス空軍はフィート、ドイツ空軍はメートルを使っていますが、本編では特別の場合を除き、煩雑さを避けるためメートル法に統一しています。
機銃については、イギリス空軍は口径二〇ミリ以上を機関砲と呼称しますが、これも煩雑さを避けるためにほとんどは機銃(機関銃)と表記しています。
なお、本編には実在と同じ氏名の人物が多数登場しますが、その行動や思考はすべて筆者の創作であり、現実とは異なることをお断りしておきます。
二〇〇八年一一月 筆者




