129.叫ぶ指揮棒、研ぎ澄まされた闘いの残響
朝は7時半集合だった。
久々の制服着用で、もう朝から汗だくだった。
楽器を出して、すぐ音出しの後、
じっくり時間をかけたチューニングとロングトーン、基礎合奏を約2時間。
その後、2時間の合奏。
当日でも、内田先生のほぼ罵声の指示が飛ぶ。
ただ、じっくり練習とかではなく
「今やれ!」
の緊迫感、圧力。
「できない、やらない、の選択肢はない!」
と、とにかくキレまくっている。
手先が震えたり、息が吸えなくなったりしながら演奏するものだから、
いつもできているところが出来なくなっている部員も多数いて、
さらに内田先生がブチ切れ、部員は萎縮するという負のループに、はまっている。
俺も。
昨日は出来たグリッサンドがずれる、上の音を外す、音が細くなるで、
内田先生の、もはや怒鳴り声
「何やっA3#2B&*5~1Z@x%y4E!!!!!!」
…聞き取れない、が、怒らせてしまいそう…すでにお怒りなので、
とりあえず、はい!と返事して何度でもやり直す。
「次ぃ!」
1時間も続いて、お昼ご飯になった。
空気が重い。
食欲はない。
それでもこの後、楽器の積み下ろしが2回もあって、
本番があって、となれば、体力がいくらあっても足りないだろう。
食べておくことが必要だ。
食べ終わったと同時に、山田先輩がサンドイッチを手に持ちながら
「食べ終わった人!トラック来たから、順次積み込み準備して!」
という指示が飛んだ。
山田先輩は、肩かけのバックと水筒を持って、何かで走り回っている。
部員は一斉に弁当をしまって、楽器をトラックに積み込んでいった。
ホール練習の時に先輩の手元を見ておいて、その時の記憶と体の動きで、
前より要領よく出来るようになったのではないかと思う。
トラックに積み込み終わって、一息つく間もなく、山田先輩が
「これから、会場に向かって出発します。持ち物の点検をしてください。」
と言った。
山田先輩は、必要なものを読み上げた。
楽器、楽譜、チューナー、ミュート類、吸水シート、吸水シート用ごみ袋、交通ICカードチャージ3,000円分チャージ済み、水筒、タオル、軽食、カロリーメイトとか、飲むゼリー類、
全部チェックして入っていることを確認した。
緊張してきた。
ここで何か忘れたら終わる気がする。
もう1回確認した。
大丈夫…。
多分。
不安で動けなくなっているところを、1年男子に声かけられて
「なんか忘れてる気がして、2回確認したけど、全部ある。
楽器も積み込んだ。
あと何だと思う?」
と聞いてみた。
「みんな同じだよ。」
「音」
「暗譜」
「忘れてることすら、もう忘れてることだよ。」
そっか。
山田先輩は
「では出発します。道は広がらないように2列で歩いてください。
混んでいる時は無理に乗車せず、次の電車を待ってください。」
と言ってみんなが音楽室から出るのを見送った。
電車で大体1時間半。
乗り換えとかもあるから、見失ったら終わる。
「こういう時、きっとお金持ち学校とかだったら、
コンクールに向かうためのバスとか用意してもらえるんだよね。」
「でも、渋滞に巻き込まれるかもだし、公共交通機関のほうが確実だよ。」
「そういうもんかな?ステージ前に疲労困憊なんだけど。」
後ろの先輩の愚痴を聞くと、大体思っている事おんなじだなと思った。
意外にスムースに乗り継ぎが出来て、予定時間前に到着した。
内田先生と山田先輩が受付手続きをしている。
すぐ、黄色いカードが配られた。
出演者証と書かれている。
必ず携帯するように、これがないと、この会館の裏側には入れないとのことだった。
似たようなスーツ着て、まぎれてたら、ぶっちゃけわからないだろう、
関係者っぽく見えるぞ、という事は言えなかった。
適当に内ポケットに突っ込んでおく。
ここなら何かで落とすことはほとんどないだろう。
既にトラックが到着していた。
各学校で、楽器や荷物置き場が決まっている。
駒井先輩がお手伝いで来ていて、荷物置き場の見張りをしてくれるとのことだった。
俺はみんなの後についていって、トラックから楽器を下して、指定場所まで運びこんだり、組み立てたりといった作業をした。
山田先輩は、
「今のうちにトイレ休憩行って。
もうすぐチューニング室だから。」
と指示した。
もうそんな時間!?
あわててトイレの個室へ飛び込んだ。
一瞬、一息つく。
何かここから動きたくない。
でも、行かないと。
用を済ませて手をしっかり洗った。
楽器、楽譜、チューナー、吸水シート、それを入れる袋。
それらを持って、あわてて集合する。
余裕あるスケジュールのようで、結構ギリじゃねえか。
チューニング室。
時間に追われる。
山田先輩が
「急いで、後ろにまだいるの、まず、奥まで入って、時間ないから!」
と叫んだ。
チューニング室に居られるのは15分以内。
全員が入ったところで、係員が
「今から15分間です。」
と言った。
内田先生は
「各自音出し、チューニング、その後B♭dur、課題曲の頭、終わり、自由曲頭、終わり、この手順で行く。開始!」
と言うと部員のはい、という返事と共に、爆音の音出しが始まった。
ここで調子あげておかないと。
本番前だから疲れない程度、とか言ってる場合ではない。
もしかしたら、この部屋で、うまくなれるかもしれないんだ。
午前中にしくじった、グリッサンド。
今やってみたら成功した。
2回やって、成功した。
本番もやってやる。
今ものすごい興奮状態になっているのは自覚している。
いつもと違うところで、いつもと違う衣装…てか制服なんだけど。
女子もネクタイとスラックスで統一されている。
学校ではあまりみかけない。
緊張感も増してくる。
ポケットからチューナとチューナーマイクを出してチューニングする。
興奮のせいか、熱さのせいか、音程が高くなっている。
全体的に管を少し抜いて調整した。
あんまり抜きすぎるとまた、袖待機で温度下がった時に、
音程が、ぐっちゃぐちゃになるんだよな。
もうチューニング管だけで調節できない。
チューニング管以外の管も全体的に3~7ミリ程度抜いておく。
何とか合わせられた。
舞台でも大丈夫だろうか?
先生の声が聞こえて8拍の全集中B♭dur。
いつもより、音がグワングワンと響いて聞こえる。
多分この部屋は、音楽室とは違うからだということは分かる。
課題曲の頭。
これがここに来て揃わない。
朝は揃ったのに。
その後、終わり8小節。
これもどうした?っていうぐらいバラバラ。
ヤバい…。
内田先生は淡々と
「次、自由曲、頭」
と言って指揮を振る。
…ずれてるー!
「自由曲、終わり16小節」
指揮を振る。
…ばらっばらじゃん。
午前中のコンディションどうした?
俺もだけど、みんな。
顔が引きつっている。
「あと3分です。」
係員の声が響く。
内田先生は
「今、ここで合わないのは当然だ。指揮が見えないから。
本番は指揮が見える。そして演奏しやすい舞台だ。
今までやってきたことを、すべて出すんだ。いいな?」
と言うと部員が、力のこもった、はい、という返事をした。
続けて内田先生は深くブレスした後、大きい声で
「行くぞ!」
と言うと、部員は、さらに大きい声ではい!と返事をした。
係員の
「時間です。ここからは音を出さないでください。」
の声にも、条件反射で部員は「はい!」と大声で返事をした。
係員の
「ですから…。」
という声で部員が一斉に我に返る。
袖待機。
静かに黙って待機しろ、って言われてたら、
前の学校の演奏が聞こえてしまう。
気にしないようにするために、
吸水シートを広げて、音を立てないようにつば抜きをする。
さっきチューニングした幅を覚えながら。
そうすることで、音が耳に入らないようにした。
でも、慣れてしまったこともあって、すんなりできてしまって、すぐ終わる。
課題曲が同じだけに、どうしてもホルンが気になって。
4人いるじゃん。
しかもばっちり和音が響いてる。
うちの吹部のホルンは実質、絵馬先輩1人だぞ。
ホルンのオブリガードとメロディが、がんがん響いてくる。
この後に?
俺が?
演奏?
怖い怖い怖い。
無理無理無理無理。
耳をふさぎたくても両手にホルンと楽譜持ってるから。
目を閉じてみないようにしたら余計に聞こえてくる。
ひそひそ声で
「おい、泣くの早えーし。」
目を開けると、目の前に白川先輩がいた。
俺の目に涙が出ていた。
そして
「気持ち悪い…。」
吐きそう…。
口元にビニール袋が見えた。
「ちょっとこっち来て。」
すばる先輩と宮田先輩だ。
すばる先輩が楽器と楽譜を持ってくれた。
舞台袖から離れた出入口まで行って、ビニール袋に吐いた。
ビニール袋の中には吸水シートが入っている。
宮田先輩は、背中をさすってくれて、ペットボトルの水を渡してくれて、
そっと、うがいするよう促してくれた。
宮田先輩が、その俺の吐いたビニール袋を回収して、
宮田先輩のエコバックに入れていた。
すばる先輩は
「本当に無理なら、出なくてもいいと思う。」
と言った。
「いや、出ます。吐いたら楽になりました。」
と言うと、宮田先輩は
「それ、酔っ払いがよく言うやつ。
せっかくここまで来たんだし、舞台で吐いても吹いてきなよ。」
と言った。
俺は、はい、と言って、舞台袖に行った。
部員に、大丈夫か、と聞かれ、
大丈夫です、すみません、と答えて、じっと待つ。
「鈴木、ちょっと顔、髪の毛!」
大橋先輩が、ポケットからウエットティッシュを出して、俺の顔を拭き、
髪を直してくれた。
「舞台は映像で残るから。
目からも鼻からも口からも、いろんな汁くっついてる。
髪も、寝ぐせか?
これでよし。
あとは、今までの演奏を信じて。」
「はい。」
「比べるな。うちらの演奏は違うんだ。」
「はい。」
「俺らが最高、わかった?」
「はい。」
「よし。」
そして、再び袖待機状態に入った。
音を出さないよう、慎重にホルンに息を吹き込む。
前の団体が演奏を終え、退場していく。
絵馬先輩に楽器と楽譜を預け、打楽器を急いでセッティングし、
袖に戻り、絵馬先輩から楽器と楽譜を受け取って、入場していく。
打楽器をセッティングしている間に、すでに管の椅子と譜面台がほぼ完ぺきに
配置されていた。
指示しているのが、ひげを蓄えた男性1人。
柔和な雰囲気ながら、確実に指示、確認をしていた。
椅子や譜面台の事で声を出すことは全くなかった。
譜面台の位置と角度と高さを調節し、終わったら、楽器を持って、待機する。
とうとう来た。
舞台の上って、こんなに明るくて、広くて、熱いのか。
客席を見れる勇気はない。
ちらっと絵馬先輩を見ると、写真を見て、ページをめくっていた。
あ、そうだ。
俺は譜面の上に自分で書いた「音を飛ばす・響かせる!」を見た。
客席に音を飛ばすんだ、響かせるんだ。
ずっと、その練習をしてきたんだった。
アナウンスが聞こえた。
「鶴花区立鶴花中学校、課題曲、月と姫、自由曲、ディベルティメント、指揮は内田亜沙子先生です。」
アナウンスが終わると内田先生が歩いてきて、指揮台の横で止まり、客席に向かって礼をした。
そして指揮台に上がり、みんなの顔を見渡した。
緊張の顔つき。
先生だって緊張の舞台だよな。
その後、優しい笑顔になってうなずいた。
よくわからないが、それだけで安心して泣きそうだった。
泣いてる場合ではない。
指揮棒を構えた。
部員が一斉に楽器を構える。
先生のブレスに目も耳も研ぎ澄まされる。
合わせて、ブレス、指揮の打点で一斉に音が響く。
客席とか、審査員とか、見れる勇気が持てなかった。
だけど、内田先生が強い目力で、どんどん合図を出してくれる。
声にも言葉にもなってないけど確実に聞こえる。
「今だ!」「柔らかく~」「派手に!出して!広げるんだ!」
ただ、ただ内田先生についていくという演奏だった。
途中で、
遅れた、とか、音低かったよな、とか、
スゥーって聞くところ、ブツ切りしちゃった、とか…
もう練習不足への後悔が出てきては、
次!というジェットコースターのような精神状態。
最後の音が終わり、指揮棒が止まり、内田先生が指揮棒を下して、
指揮台を降りて客席に礼をして、俺たちの演奏が終わった。
12分以内に終わらせられたんだろうか?
演奏が終わって、力が抜けて、歩くのがやっと…というぐらいふらついた。
同じくらい、ふらついている絵馬先輩に、
楽器と楽譜を持ってもらうようお願いし、
大急ぎで打楽器だけを取り急ぎ、移動させた後、
絵馬先輩から楽器と楽譜を受け取り、みんなの列に加わって、
案内されるがまま、ついて行くと、ひな壇みたいなところに連れていかれた。
「写真撮影するから、大体合奏体形でひな壇上がって。」
という指示で、上がった。
カメラマンの人が、ニコニコしながら陽気な声で
「はい、じゃあ、こっち見てください!撮りますよー!」
と言って、2、3回シャッターを押した。
その後
「はい、じゃあ次は自由なポーズで、ニコニコ笑顔でね!」
と言われた。
絵馬先輩を見たら
「ベルかぶろう」
と言って、ホルンのベルを帽子のようにかぶって笑っていた。
俺もマネしてうなずいた。
カメラマンさんが
「みんな決まったようですね、はい撮りますよー。今度は笑顔!」
そう言って2、3回シャッターを押した。
「じゃあ、次は楽器ごとにとりますからねー。」
楽器を赤ちゃんのように抱いてにっこりしてたり、
戦隊ヒーローのようなポーズを取ったり
パートで個性が出ていて面白かった。
ホルンの番が来た。
絵馬先輩に「どうしようか?」
と聞かれて、
「のぞみ先輩と絵馬先輩と同じポーズがいいです。」
と答えた。
絵馬先輩は
「そっか…、そうしよう!」
と言った。
片手はホルンを見えるように抱えて
もう片方はグータッチ。
カメラマンさんはそれを撮影してくれた。
山田先輩が
「撮影終わったパートから楽器しまって積み込み開始!」
と呼びかけた。
俺ははい、と返事をして楽器置き場に楽器をしまって移動を始めた。
「拓海!」
声のする方を振り向いた。
「父さん?」
父さんと母さんと久実がいた。
「来てたんだ。」
驚いた。
「そうだよ、よく頑張ったな。身長伸びたなー!」
父さんが笑顔で言った。
「父さん…。」
「ん?」
「何でそんなに太ってるんだよ!一瞬戸惑ったじゃねえか!」
「えー!久しぶりの再会でいきなりそれ!?
容赦ないなー。
野菜料理とか少なくてほぼ肉と炭水化物でさ。
納豆とか味噌汁とか食べたくて、帰ってきて一番最初に(牛丼の)松屋飛び込んだぐらいだよ。こっちの松屋が一番。この後は大戸屋かな。」
遠くから「鈴木ー!こっち来てくれー!」
という声がきこえたから
「後でね!」
と言って、声のする方へ走った。
父さんの、お、おう…という声と
久実と母さんの「お疲れー。家で待ってるねー。」
という声に振り向いてうなずいて、また走った。
疲れを感じている間もないまま、
打楽器や大きい管楽器を積み込む。
1時間かかってようやく終わった。
他校の演奏を聴けるスペースはないとのことで、
これから、まとまって学校に帰るということだ。




