127.音は意志、飛ばせ、揺らせ、届け
「おはよう、ごめんね、たくみん。」
部活へ向かい、音楽室の扉を開けると、 マスク姿の絵馬先輩が、手を振っていた。
「うおぉぉぉ…やっと来た…! おはようございます!」
俺は急いで駆け寄る。
すると、絵馬先輩は笑って話し始めた。
「本当は、もう2日には回復してたんだけどさ。
ウイルスの排出があるから、って。
だから、水をがぶ飲みして、家も消毒して、 体操着も洗濯して、お風呂入りまくってきた。
検査キットの無駄遣いかもしれないし、 使い方とか目的違うかもしれないと思いつつ、 唾液で検査して、陰性だったんだけど—— 念のため、マスクしてきた。」
ここまで来たら、俺だって感染しても、発症しても—— 意地でも出てやる、と思っている。
「休んでいる間に、いろんなことがあったみたいで、 情報量が多いね。共有だけでも時間がかかりそう。」
——俺、説明下手だからな…。 何をどこから話せばいいんだろう?
後ろから、大きな声が響く。
「絵馬ちゃん、おかえり〜!」
——驚いた。
宮田先輩だ。
まだ、慣れない。 今日は、どうしているんだ?
「ざっくりまとめると、こんな感じかな。
やる気のないトランペット1年が、自ら辞めた。
鈴木くんがスキルアップして、グリッサンドができるようになった。
鈴木くんが、昨日の自由曲の合奏で、全カットになりそうだったのを踏みとどまった。」
絵馬先輩が驚いて聞く。
「うそ! たくみん、グリッサンドできるようになったの?」
「昨日、江口先輩とすばる先輩が教えてくれて、 それで練習したら、何とか…。
昨日の合奏で、やってみました。
でも、内田先生にはめっちゃ睨まれてるので、まだまだです。
『全カット』で舞台に出るのは、罪悪感で嫌っす。」
すると、絵馬先輩は、嬉しそうに微笑んで言った。
「そうだよね。よくやった。あとの合奏、頑張ろう。」
「はい!」
今日の練習は、音楽室だ。
昨日の感覚で、音を飛ばすこと。
これだけは、必ずやろう。
楽譜のタイトルの上に、鉛筆で大きく
『音を飛ばす・響かせる!』
と書いた。
「あ、そういえば絵馬先輩。
昨日ホルンで指摘されたところで、 俺、めっちゃできてなかったんですけど——。
ホルン向けとか、オブリガードで、いろいろ指摘を受けまして、 メモを取りました。
今、書き込めそうっすか?」
絵馬先輩は、笑って言う。
「ありがとう、教えてくれる?」
そう言いながら、楽譜を膝の上に置き、シャープペンを持った。
すると、楽譜の隙間から何かが落ちて、 俺の足元に転がった。
拾ってみると、絵馬先輩とのぞみ先輩のツーショット写真だった。
「先輩、これ…。」
そう言って、手渡す。
「ありがとう。」
そう言って、絵馬先輩は再び楽譜の間に写真を挟んだ。
俺は、思わず聞いてしまう。
「今のって…?」
絵馬先輩は、懐かしそうに答えた。
「去年のコンクールの演奏後、パートごとに撮った写真。
この時、『来年こそ!』って、みんなで言ってたんだよね。
のぞみ先輩も、出たかったと思う。
だから、写真で一緒にって思って——。」
そうだ——。
つい自分のことで夢中になってしまうけど、 のぞみ先輩分も背負うって言った、俺。
「俺、昨日めっちゃ内田先生に集中砲火を食らって、 『全カット!』って言われたんです。
吹く振りで出場って、何か嫌だから、 先生の練習についていって、何とかやれることになったんですけど…。
まだまだ、すっごい睨まれる。
そんな程度しか吹けないけど——のぞみ先輩の分も頑張りたいです。」
絵馬先輩は、強く頷いた。
「うん、私も。頑張ろうね。」
「はい!」
音出しと全員でのロングトーン練習、基礎合奏の後、内田先生の合奏が始まる。
「今日は全員揃っているな。自由曲の後、課題曲をやる。」
部員たちが「はい!」と返事をすると、 内田先生は「頭から。」と言い、指揮棒を構えた。
できるところが増えてきた。
これがもっと最初の頃にできていたら、もっとまとまりが早かったはず。
昨日とは違って、絵馬先輩がいてくれるのが大きい。
安心感と、昨日やったことを確実にやっていくこと。
もちろん、猛練習したグリッサンドも入れていく。
内田先生からバンバン注意が飛ぶ。
それに合わせて、部員たちの気合の入った返事が繰り返される。
15時になり、一旦休憩になる。
例によって、アイスの時間だ。
絵馬先輩が持ってきたのは、バニラとチョコのアイスだった。
「俺、今日はバニラ食べます。」
そう言うと、絵馬先輩は首を傾げながら、
「たくみん、チョコだよね。」
と言って、チョコアイスを渡してくる。
「今日は、バニラの気分なんだよ。」
そう言った。
でも俺はその前に、アイスを配る先輩が絵馬先輩にチョコとバニラを、有無を言わさず渡していた様子を見ていた。
かといって、その先輩に何かを言うほどのことでもない。
「まあまあ、病み上がりなんですから、好きなもの食べて栄養にしてくださいよ。」
そう言いながら、絵馬先輩のバニラアイスを取って、 自分が持っていたチョコアイスを渡した。
すると、絵馬先輩は少し考え込んで——
「たくみん、分けよう。」
と言った。
——?
絵馬先輩は、バニラとチョコのカップアイスの蓋を両方開け、 スプーンで半分ずつすくい、入れ替えた。
ひとつのカップに、バニラとチョコが半分ずつ——。
俺は思わず、「おお…!」と感動した。
「こうすると、二つの味を楽しめて得じゃない?」
「そうですね。ありがとうございます。」
昨日の地獄のような練習に比べて、今日は思いっきりホルンが吹ける。
できるところと合うところが増えてきて、 その時の面白さを感じたりして、アイスがおいしくて。
「藤村、昨日鈴木、すごかったぞー!」
白川先輩が話しかけてきた。
白川先輩:「先生が、『ホルン2nd全カット』って言ったら、 鈴木が、すかさず『嫌です!』って逆らってさー。 俺、もうハラハラしてたわ。 結局吹くことになったけど。」
絵馬先輩:「なんとなく聞きました。たくみん、成長してます。」
俺:「楽器吹かないのに持ってるだけって、意味わかんなくないですか?」
白川先輩:「いいんだよ、それでも。 もし吹けなかったとしても、舞台に立つだけで感覚をつかめる。 それが次のコンクールに生かせる経験になるんだから。
ただ、今まで『全カット』って言われて、逆らう奴はいなかったんだよ。 みんな先生に『カット』って言われたら、悔しくても『はい』としか返事できなくて、 黙って従ってたんだから。」
俺:「白川先輩、前にソロのところを別の楽器に、って話が出た時、 ガチギレしてましたよね? 俺、正直マジでビビりました。
怖い先輩がいる、って思ってたんです。
でも、あれを見て、『やる!』って思うことが必要だなって思いました。」
白川先輩:「あー、すまん。あんまり周りを見てなかった。 そう取られるのか…。」
ちらっと沢田先輩を見ると、 絵馬先輩と俺を睨みつけている。
俺は、沢田先輩の視線を真正面から受け止めた。
今度はひよらねえ。
コンクールで、絵馬先輩が隣にいてくれることが、俺にとって大事なんだ。
沢田先輩は白川先輩とアルトサックスの1st、2ndで合わせて吹けるんだから、 ホルンに言う文句はないはず。
休み時間の会話くらい、許してほしい。
てか、そんなに気になるなら——自分で入ってくれば良くない?
俺はそう思いながら、睨み合いになっていた。
「ホルン、仲いいなあ。アイス、分けたんだ。」
大橋先輩が、俺と沢田先輩の間に割って入った。
——瞬時に空気が緩む。
「俺も絵馬先輩もチョコが好きなんですけど、 取りに行った時、渡されるアイスが必ずしもチョコ2個ってわけじゃないんです。
絵馬先輩、いつも俺に渡してくれるんですよ。
今日も、そうしようとしてたんです。
さすがに病み上がりの先輩に譲らせるのは、後輩として気が引けると思って…。
そしたら、絵馬先輩がアイスを分けてくれたんです。」
俺がそう言うと、大橋先輩は、ふと思いついたように聞いた。
「サックスに、そういう文化を取り入れようとは思わないか?」
すると、白川先輩は苦笑しながら答えた。
「5人もいて、いちいち好みを気ぃ使って配るのか?
パートリーダーがまとめて5個取ってくるだけでいいだろ。
俺に無茶言うなや。
それに、アイスがあるだけありがたいと思えって話だよ。
今まで、こんなんなかったからな。 冷水器だけだったからな。
嫌なら食わなきゃいい。俺が全部食うから。
好みなんざ知らんがな。」
白川先輩はいちご、大橋先輩は抹茶のアイスを食べながら話していた。
俺はやっぱりホルンで良かったと思った。
大橋先輩が、アイスを食べながら俺に向かって言った。
「鈴木君、まだ伸びるな。
昨日のアレは、メンタルに来るやつだって思ってたけど、 心配してフォローを考えてた俺の方がいらん心配だったな。
たぶんだけど、オブリガード、もっと膨らませ!響かせろ、鳴らせ!
って言われるから、自分が思ってるよりfを1個強く出してみるといい。
今回のコンクールでは、それぐらいの意識が必要だと思う。
そのうち『抑えろ』って言われたら、 上手くなったってことだから、そう思えばいいんじゃない?」
確かに、pとかfとか自分なりに意識してやってはいるけど、 結局は全体の音になるんだよな。
それに、俺の通常の音量がp程度だったら、 f1個強くすることで、ようやくみんなに混ざる音になるのかもしれない。
楽譜が変わり、音が増えた今の状態なら——なおさらそうだ。
アイスを食べ終えて、片付け、うがいをして、音出しを始める。
なんとなく全員が音出しを終え、チューニングが済んだ頃、 内田先生が音楽室に入ってきた。
内田先生は指揮台に立つ。
「課題曲。」
指揮棒を構え、部員が一斉に楽器を構える。
ブレスと振り始めが、ばっちり合うようになっている。
最後まで通した後、フレーズの変わり目や 強弱のニュアンスを全体で意識して合わせる作業が続く。
内田先生からバンバン指示が飛ぶ。
その都度、全員で修正しながら進める。
あっという間に、完全下校10分前。
慌てて楽器をしまい、学校を飛び出す。
コンクールまで、あと2日。
全く余裕がない。
この感覚をもっと早くつかめていたら——
そう思うと、悔しさがこみ上げる。
もう、練習できるのは——明日しかない。




