125.支え合う者、離れる者、コンクールへの岐路
昼ごはんをしっかり食べてから学校へ向かう。
太陽が真上にあり、暑さで呼吸がしづらかった。
校舎に入ってようやくゴール。
音楽室に入ると、以前の活気が戻っていた。
1年生の男子メンバーは全員そろっている。
黒沢、斎藤、小松は検査で陰性。
つまり、過労と診断された。
斎藤はその場で点滴を受けると、すぐに熱が下がったという。
斎藤は苦笑いしながら言った。
「過労で点滴なんて、昭和の芸能人みたいだと思ってた。
まさか、中学生で点滴を受けることになるなんてね。
でも、病院で聞いたんだけど、最近の中高生は疲労で点滴を受けることが結構あるらしいよ。
元々そんなに体が強いわけじゃないから、体調管理はしてたつもりだったけど…やっぱりハードだったんだなって。
体が悲鳴をあげてたんだ。」
黒沢も小松も、うなずいた。
黒沢は淡々と話す。
「俺も病院行って検査したけど、何ともなかった。
ただ、一応解熱剤はもらったよ。
おくすり手帳を持って行ったら、前回の怪我でも解熱剤を処方されてたから、薬剤師さんに『今回は何ですか?』って聞かれてさ。
前回は整形外科、今回は小児科…最近病院と縁があるわ。」
小松が尋ねる。
「部活はどんな感じ?
反省会の内容は共有されてたけど、合奏とかあったんだよね。
その状況を知りたい。」
俺と藤井は目を合わせ、同時にうなずく。
黒沢、斎藤、小松の顔には疑問が浮かんでいた。
部活開始まであと15分。
いつもの階段だと…白川先輩に聞かれて、面倒なことになる。
そこで、もう1階上の階段へ向かうことにした。
集まると、声を出さないよう何度も注意をした。
昨日の合奏の反省も大事だけど… 合奏、音楽が重要なのはわかっている。
ただ、それに集中しようとした時、人間関係が思わぬ障壁になっていた。
その問題が解決へ向かったことを共有することにした。
俺が沢田先輩のことについてざっくり説明し、藤井が横でフォローしながら話を進める。
小松は驚き、大きな声で「え!?」と言い、すぐに口元を押さえた。
黒沢と斎藤は、
「やっぱりそうだよな」
と納得していた。
俺は驚いて
「知ってた?」
と聞くと、斎藤は答えた。
「いや、知らなかったけど、気づいてた。
ちょっと、とげとげしいところが苦手で、近づかないように観察して距離を取ってた。
それで気が付いた感じ。」
黒沢もうなずく。
さらに驚いて
「何で気が付くの?」
と聞くと、黒沢は答える。
「行動、視線、グループとパートの関係、話している時の口調の違い。
わかりやす!って思った。
白川先輩も、面倒だから気づかないふりしてるのかな?と思ったんだけど、最近『あ、気づいてないな』ってわかった。
音楽以外の配慮、全くないからな。」
俺と藤井は顔を見合わせ、
「気づく?」
と聞くと、
「いや、知らんし。」
と返ってきた。
俺は伝える。
「助けてくれ。
俺一人じゃ太刀打ちできないってわかったんだ。
でも、女子には話さないでほしい。
下手に騒がれたり、突っ込まれたりしたらすっごいストレスになりそうだし、何より、俺の唯一のホルンの先輩の被害が…。」
全員が納得してくれた。
時間が近づき、音楽室へ戻る。
入るとすぐに、山田先輩と船田先輩が近づいてきた。
山田先輩が話す。
「絵馬ちゃん、インフルだったんだけど、発熱が31日夜だったから、そこからカウントして、31日、8/1、2、3、4まで休んで、5日から部活復帰するって。
それまでよろしく頼むね。」
船田先輩は続ける。
「それまで鈴木君、ホルン1人になるけど、1人でもできるように練習してね。
あと気になったのが、途中のグリッサンド。
やっているのは絵馬ちゃんだけみたいだね。
今日の合奏では、それをちょっと入れてほしい。
2つの音が出てるから、間に音を入れてほしいんだ。
音量が必要なんだけど、足りないのはわかってる。
どこかのポジションで増やすか検討したいと思っているから。」
俺は完全についていけず、
「『ぐりっさんど』って何ですか?」
と聞く。
すると、後ろから大きな声が飛んできた。
「音から音へ移動する時に、半音階っぽく聞こえるような奏法だよ!」
一同が驚き、振り向くと、そこにはOGの宮田先輩が立っていた。
宮田先輩はにこやかに、船田先輩からスコアを借りて、
「ここ、四分音符から二分音符の間に『griss』って書いてあるでしょ?」
と言いながら指を差した。
あ…これ、絵馬先輩の演奏を聞いて、なんとなく理解はしていたけれど、実際どうやるかはわからない。 難しそうだし、音を外すくらいならやめたほうがいいと思っていたところだ。
スコアを改めて、指で上からたどっていく。
ホルン以外のパートには書かれていない。
宮田先輩はにこっと笑って、
「そういうこと。絵馬ちゃんは上手だけど、全体の音量に比べたら足りないんだ。
だから、鈴木君、ここはやらねばならないよ。
もし不足していたら、他の楽器にもお願いすることになると思う。
多分金管楽器になると思うけど…。
ちょっとやってみ?」
と言った。
まだ楽器を出していなかった。
俺は音楽室の準備室へ行き、ホルンを取り出した。
宮田先輩は、
「ここからここまで、グリッサンドなしの状態、つまりいつもの感じで吹いてみて。」
と言うので、音を出す。
続けて、
「じゃあ、次は上の音を出す寸前で、適当にレバーを動かしてみて。」
と指示された。
なんとなくやってみるが、うまく音が出ない。
焦りが募り、少しパニックになりかける。
宮田先輩は後ろを振り向いて、
「えぐっちゃん、ちょっと楽器持って、ここでグリッサンドを見せてくれる?」
と言って、スコアを見せた。
江口先輩は眉間にしわを寄せ、
「えっと…。
ホルンはF管?譜面はin F? トランペットはB♭管だから、いくつ、どう上げ下げすれば…?」
と考え込んでいる。
宮田先輩は微笑みながら、
「あ、じゃあB♭から上のB♭まで、このリズムでグリッサンドをやってみて。」
と言い、江口先輩が吹いた。
すごい! 思わず拍手すると、宮田先輩が俺に向かって、
「やってごらん。」
と言った。
俺は戸惑いながら、
「え?指がわかんないんですけど…。」
と言うと、江口先輩は、
「適当。」
と一言。
は?
「適当…なんですか?」
戸惑いながら聞くと、江口先輩は、
「うん、動かしやすければいい。
最初の音と最後の音をしっかり響かせて、間の音がなんとなく入っていれば、それらしく聞こえる。
さすがに細かい音まで合わせろとは言わない。」
と説明し、宮田先輩もうなずいた。
「指、適当…?」
すると、後ろから突然、
「3、2、1、0ってやればいいよ。」
という声が聞こえた。
振り向くと、すばる先輩だった。
「りなから色々聞いたよ。
いろんな課題が一気に出てきて大変そうだったから、ちょっと様子を見に来た。
もう本番が近いから合奏には参加しないけど、 今の、やってごらん。」
やってみた。 うまくいかない。
すると、すばる先輩はバックの中からマウスピースを取り出した。
「ちょっと貸して。」
と言われたので、俺はマウスピースを外して、すばる先輩にホルンを渡した。
「指の動きを見てほしい。」
そう言いながら、すばる先輩は楽器を構え、俺を見た。
目が合うと、うなずいてブレスし、音を出した。
これがグリッサンドか! おお!と思わず拍手した。
指の動きがなめらかだった。
音を聞いて理解し、実際にやってみるというのは高い壁だが、 実際に聴いて、見ることで、好奇心が刺激された感覚があった。
「やってごらん。」
「はい!」
薬指から中指、人差し指まで、なめらかにレバーを動かしてみる。
こんなこともできるんだ。
やってみるが、なかなかうまくいかない。
「力んでる。
リップスラーだと思って。
その間で指を動かす。」
「はい。」
すばる先輩の声かけに返事しながら何度か試すうちに、ようやく音が出るようになった。
「できたじゃん!」
「良かった!」
先輩たちの声に、少し嬉しくなる。
楽譜に書かれていた、うねうねした線…ギザギザというか、雷みたいなあの記号、これがグリッサンドだったのか。
浮かれている俺に、すばる先輩は、
「出来ることの精度を高めていくだけじゃなくてね、 出来ることを増やして、合わせる精度を高めることもやるんだよ。
コンクール当日まで、ギリギリまで。
あんまり『ダメ』って言葉は使いたくないけど、 自分で勝手にできることを決めつけて守りに入るのはダメだ。
作曲家にも編曲家にも失礼だし、何より自分の可能性を制限することになる。
それって、自分自身に対しても失礼なことだと思う。
やるだけやる。 それは、自分に対する敬意だ。
最近は『頑張る』って言葉が言いづらい世の中だけど、 言い方を考えるなら… 今みたいに、楽しんで、好奇心が湧く方向へ自分を向け続けることが大切だよ。」
…。
「もう一回、言ってもらっていいですか?」
まとめて言われて、少しパニックになった俺はそう聞いた。
すばる先輩は、がくっと肩を落とし、
「ごめん、熱くなりすぎた。思わず語っちゃった、演説してしまった…。」
と苦笑した。
『出来ることの精度を高めていくだけじゃなくてね、出来ることを増やして…』
すると、すばる先輩の声が響く中、彼が顔を上げると、 江口先輩がタブレットを再生していた——。
江口先輩は、
「1人でもグリッサンドの練習ができるように、後輩のための情報資産を…。」
と言った。
すると、すばる先輩はあわてて、
「うーわー、江口!消して!頼む!てか卑怯だろ!盗撮だ!」
と叫び、江口先輩のタブレットを取り上げようとした。
しかし、江口先輩は素早く身をかわし、トランペットを握ると、 タブレットを脇に抱えて、あっという間に音楽室から走り出ていった。
「あのやろ…!」
すばる先輩は速足で追いかけていった。
——デジャヴ。
宮田先輩が、
「さて、鈴木くん、次の合奏までに、できるところ、精度を上げられるところ、増やしていこうね。」 と笑顔で言った。
さらっと言うけれど、大変なことだ。
でも、やるしかない。
山田先輩がスケジュールの共有を始めた。
個人練習、音出しの後、基礎合奏、そして内田先生による合奏となる。
個人練習は、今から30分間。
さっきやったグリッサンドの感覚を、確実に自分のものにしたい。
チューナーを見ながら音階練習をするが、音が安定しない。
針がずっと左右に揺れ続けている。
そのとき、音楽室の戸が開いた。
江口先輩だ。
俺のところへ駆け寄ってきて、
「急いでタブレット貸せ。早く!悪いようにはしない。」
と言うので、あわててバッグのところへ行き、タブレットを渡した。
受け取った江口先輩は、またダッシュで音楽室を出ていった。
さっきの映像を渡してくれるのだろうか。
でも、学校のセキュリティソフトが結構厳しい設定だったような気がする…。
江口先輩の目的は、なんとなくわかった。
しばらくすると、すばる先輩が音楽室へ戻ってきた。
室内を見渡し、江口先輩を探しているようだ。
しかし、江口先輩がいないことを確認すると、また戸を閉めて出ていった。
これ…俺も怒られるやつか?
学校管轄の機器だから、管理が厳しい。
変な使い方をすると、先生にすぐアラートが飛んでいくから気をつけろって言われていた気がする…。
少ししてから、江口先輩が戻ってきた。
音楽準備室へ入っていく。
そして、再び音楽室に戻ってきた。
ちょうどその時、すばる先輩が入ってきた。
「あ!」
2人が凍りついた——と思ったら、 すばる先輩は江口先輩のタブレットを取り上げ、開いて操作し始めた。
「江口、俺は鬼ごっこをするためにここに来たんじゃない。
りなから状況を聞いて、空き時間で助っ人に来たんだ。
それに、録画するなとは言わないけど、 事前に許可を取らずにやると、法律に触れることにもなるんだぞ。」
——冷静に、ガチギレしてる。
今、江口先輩に
「俺のタブレットは?」
って聞くのは得策じゃなさそうだ。
帰りまでに聞こう。
操作を終えたすばる先輩は、開きっぱなしのタブレットを江口先輩に返した。
画面を見た江口先輩は、
「あ…。仕方ない…。」
とだけ呟いた。
俺はそのままチューナーを睨みながらロングトーンを続ける。
いくらやっても、手応えがない感覚が続く。
調子が良くないまま基礎合奏に入った。
それも、ほぼ、調子が悪いままだった。
「たくみ君。」
右側に、すばる先輩がいた。
「ちょっと吹きすぎかもしれない。
唇が腫れ上がってる。 少し冷水器で水を飲んでくるといいかも。
その時、唇を冷やして、口のまわりの筋肉をマッサージしてね。」
さっきの江口先輩に対する険しい顔とはまるで違う、 優しく、いつものイケメンなすばる先輩になっていた。
「はい。」
そう言って俺は立ち上がり、楽器を置いて音楽室を出た。
冷水器へ向かい、水分補給をする。
ついでに、感覚がなくなるくらいまで水で冷やした。
顎と口の周りをマッサージしてみると、自分で触っても痛かった。
顔の筋肉が壊れてるんだろうな。
筋肉痛と同じ痛みだ。
顔に冷却スプレーとか使えないよな。
唇や目など粘膜に入ったらしみるし。
もっと言うと、頭皮まで筋肉痛になってる。
体もなんかバキバキな感じだった。
——筋肉痛なのか?
とにかく、コンクールまで気が抜けないことだけは分かっている。
音楽室へ戻ると、皆、それぞれ音出しをしているようだった。
座って楽器を吹く。
すると、さっきより息の通りがよくなった気がした。
そういえば、最初に言われてたよな。
「唇が腫れる前に休憩するんだよ」って。
——すぐ忘れる。 そのせいで無駄に苦しむ。
こういうの、なんとかしたいな…。
内田先生が入ってきた。
山田先輩の挨拶に続き、部員の挨拶が響く。
内田先生は、
「本番! ホール練の空間を思い出すこと。 今日は音楽に厳しめのOBOGが客席にいるからな。」
と言った。
ホールの広さを思い出す。
緊張する。 お客さんがいるんだ。
——だけど、音楽室独特の安心感もある。
どちらかと言うと、体育館で360度から見られた時のほうが緊張した。
それを思い出すことにした。
——きっと、本番の緊張感はあれ以上なんだろう。
内田先生が指揮棒を上げる。
楽器を構える。
内田先生のブレスに合わせて息を吸い、譜面と指揮を往復しながら必死に吹く。
課題曲、自由曲——通して演奏が終わると、内田先生は低い声で問いかけた。
「今の演奏で全国へ行けると思ってるか?」
部員の中には、いつもの癖で「はい」と返事をする者が何人かいた。
それとも、本気でそう思っている人もいるのだろうか?
俺は、そんなことは分からない。 黙ってしまった。
もっと正直に言うと——無理だと思う。
ミスも、合わないところも、出来ないところもたくさんある。
全国へ行くって、そんな簡単なものじゃないどころか、ものすごく厳しいんだろう。
サッカーだってそうだった。
ほんの些細なミスが相手に隙を与えて、得点のチャンスになってしまうから。
サッカーとは違うけど、吹奏楽だってミスすれば致命的なものにつながる。
それくらいのことは察しがつく。
——だから、無理だ。
内田先生は、
「行けるわけないだろう! もっと言うと、金どころか銅だ!」
と強い口調で言い放った。
音楽室の空気が重くなる。
——自覚はあるけど、こう言われると、きつい。
相当怒った様子で、先生は続けた。
「変更したからって、ここまでばらつくか?
それに課題曲は変更なしで、ずっと取り組んできただろうが。
それが、ここまで来て、この出来って——。
今回の世代が一番、出来が悪い。 最悪だ。
今までの金賞は先輩達の努力があって、栄光がある。
それを引き継いで、全国大会へステップアップするならまだしも—— その可能性すら見えない。
おのれらが可能性を潰してるってわからないのか?」
……。 それが何なのか、わからない。
努力の方向も——見えない。
内田先生は続ける。
「下手なくせに、曲練も基礎練もしない。
そして文句は垂れるわ、サボるわ、音は出ないわ…。
音楽以外のところでもめ事を起こすわ…。
コンクール出たいなら、勝手に出ろ!
やってられるか!
もう私は指揮しない!」
——そう言い放ち、先生は音楽室を出ていった。
音楽室は静まり返る。
……え……?
何だって?
指揮者なしで、コンクールって出られるの?
山田先輩が立ち、指揮台の横に立った。
「本気で全国へ行きたい?金賞を取りたい?」
俺は、それがどういうものなのか、まったくわからなかった。
ただ、入部して、ホルンが空いていると言われて担当になり、 コンクールがあるからと、ここまで来ただけだ。
試合をして勝敗がつくとか、大会で勝って全国何位になるとか、そういうことなのだろうか?
ただ、ルールもよくわからないし、ひたすら譜面を音にすることと格闘している。
賞の価値がわからない。
全国とか金賞が欲しいか?と聞かれても、正直わからない。
それを言葉にする勇気もない。
もしかすると、そういう俺に内田先生はイラついたのかもしれない。
「俺は金賞はもういい。」
左側から、白川先輩の声が聞こえた。
「金賞、その後の全国大会の発表で代表になれなかった時、悔しいと思った。 その気持ちを今年で終わらせたい。
中学最後だし、このメンバーで一緒に全国へ行って演奏してから、高校へ行きたい。
全国の舞台で、これが俺らの演奏だ、俺は全国へ行ったんだ!と自信を持って高校へ行きたい。
去年のコンクールで金賞を取ったとき、周りから『おめでとう』『すごいね』『良かったね』って言われた。
でも、俺の中には何も響いてこなかった。
俺には今年しかない。
内田先生に頼んだ。
『全国に行くんだ。だからお願いします』
って。
3年は覚えてるよな?
『次こそ金賞の先へ、全国へ行きたい』
って泣いてたよな。
次の日、部活は休みだったのに、勝手に集まって、みんな泣きながらロングトーンをしていたら、 校長が来て、
『吹部!活動許可出してない!』
ってガチギレされた。
校長が内田先生を緊急で呼び出し、先生も俺らもめちゃくちゃ怒られたよな。
その場で内田先生はめっちゃ謝って、活動許可を取ってくれた。
それから、一緒に練習に付き合ってくれたんだ。」
ふと3年の先輩たちを見てみると、何人か泣いているのがわかった。
そんなに——なのか?
山田先輩が、
「2年生は?誰か言える?」
と聞いた。
「はい。」
手が上がった。
山田先輩が、ユーフォを持っている野村さんを指した。
藤井の先輩か。
「私は、去年この部活に入って、コンクールで金賞を取っていると聞いた。
だから、一緒に練習していたら、金賞が当たり前、全国が当然、って思い込んでしまっていた。
ある意味、洗脳に近かったかもしれません。
だけど、会場の舞台袖で、前の団体の演奏を聴かないようにしても、どうしても聞こえてしまって…。 それがものすごく上手くて、自分のできないところを余裕で演奏しているのを聴いてしまったら、 本番前に『終わった…』って気持ちになってしまっていた。
こんなことになるなら、もっと練習しておけばよかったと、あとで後悔した。
そこで初めて、コンクールに主体的になった気がしています。」
そう言って、座った。
山田先輩は、「ありがとうございます」と言った後、
「1年生、誰か?」と、問いかけた。
しん、と静まりかえった。
——当てられませんように、当てられませんように。
「誰か?」
その言葉は、山田先輩が追い打ちをかけているように聞こえる。
——当てられませんように、当てられませんように。
俺が当てられたら、また緊張で吐く——って。
こういう時の黒沢は…後ろを向けない。 同じ心境だろうか?
クラスでの振る舞いや、部活で女子に言い返すメンタルを考えたら、ここは黒沢に出てほしい…。
俺は——当たりませんように。
「はい。」
後ろから、女子の声がした。
山田先輩が、「笠原さん」と指した。
「すごく言いにくいんですが…。
私は賞の価値とか、目指すべき方向とか、よくわからないです。
先輩方の熱量についていけていません。」
おお——! 言った…。
この空気の中でよく言えたな。
俺も共感。
続けて、笠原さんは言った。
「練習がきつくて体を壊しかけたし、精神も壊れかけました。
何のためにここまでやらなきゃいけないのでしょうか?
賞が取れない音楽は価値がないってことですか?
やる気がないわけじゃないです。
トランペットも大好きです。
ただ、賞を目指すって、どういうことなんでしょうか?
理解しなくても、やれって言われても、いまいち腑に落ちません。」
そう言って、座る音がした。
俺は、そこまで深く考えていなかった。
ただ、こうやって言葉にされると、俺も同じようなことを思っていたことに気づいてしまった。
——そうなんだよ。
さっきまで泣いていた先輩の一部が、笠原さんに厳しい視線を送っていることに気づく。
とてもじゃないが、
「俺も同意です」
なんて言えない。
山田先輩の顔を見ると、さっき白川先輩の発言で泣きそうになっていたのに、 今の発言で、天を仰いでいるようだった。
そして、静かに言った。
「同じ方向に気持ちが向かっていなかったかもしれないね…。」
「私は違います!」
前方から声が響いた。 フルートの同じクラスの女子、木崎だった。
「私は、鶴花中とは少し離れたところに住んでいます。
本当は別の中学が指定されていたけれど、区役所に希望を出して鶴花中を選びました。
この部活でフルートをやりたかったからです。
ここが、中学の吹奏楽部で全国に近いと聞いて、 お母さんとお父さんを説得して、手続きをしてもらいました。
最初の関門を突破して入部したあとも、 フルート担当になれるかどうかの勝負があったし、 結局、全員がフルートになったから良かったけど…。
でも、1年だからって、あの人と一緒にくくらないでほしい。
私は違うから!
音楽が賞を取れないから価値がないって?
そんなの、何を言ってるの?
銅賞と金賞の区別くらい、つくでしょう?
金賞の演奏って、本当に感動するんです。
感動させる音楽を作りたい、それが目標でしょう?
みんながいるからこそ、できることなんじゃないの?
何?
その程度のことがわからないなら、辞めれば?
明日から来なくていいんじゃない?
1年だから、初心者だからって、何でも知らないふりして甘えてるのってどうなのよ?
そんな人に足を引っ張られたりするのって、すっごく不愉快。」
木崎の言葉が熱を帯びたその瞬間、山田先輩が声をかけた。
「ストップ。」
木崎は興奮した様子で、
「まだまだ言い足りないです!」
と言い続けたが、山田先輩は静かに言った。
「わかった、わかったから。他の人の時間も取りたいんだ。」
ようやく木崎は黙って座った。
よくここまで言ったよな…。
めちゃくちゃ本音ではあるけれど、 この同調圧力の中で、こんな発言ができるかって言われたら——俺には無理だ。
俺、おんなじようなこと思ってたけど、言わなくて本当に良かった。 怖すぎる。
山田先輩は静かに言った。
「いろんな意見があっていいと思う。
他にも思ってることがあれば、どんどん言ってほしい。
今日、結論は出ないし、もしかしたらずっと出ないかもしれない。
でも、それでいいんだ。」
再び、静かになった。
もうコンクールが間近なのに、こんなことで揉めてもいいのか?
時間がないんじゃない?
スポーツの部活なら、勝つことが目標になると思う。
もちろん、楽しみたいからやってますっていうスタンスもありだとは思う。
俺だったら——やっぱり勝ちたい。
勝った時の興奮や喜びを知っているから。
それが吹奏楽部なら、コンクールってことだよな?
だとしたら、上を狙うっていうのは、少しわかる気もしてきた。
俺は試合で勝つために練習していたけど、 ただボールを蹴る場所が欲しくてクラブに入ったやつもいた。
ボールを蹴るだけで楽しいんです、って言うやつもいた。
そういう時は、試合には出ずに応援したり、練習相手になったりしていた。
全員試合に出るんだ、とか、強要されることはなかった気がする。
試合で勝つために練習していたけど、 勝ち負けとは関係なく楽しんでいたやつは、どんな気持ちだったんだろう?
俺は過去に、木崎と同じようなことを言ってしまったことがあっただろうか?
全く記憶にはないけれど、 今、笠原さんと木崎の言っていることの両方が、理解できてしまう。
八方美人になるのも後々面倒になりそうだから、やっぱり黙り込む。
「あのさ、コンクールで全国を狙わなくていい、って思っている人は、 演奏から抜けてもらったほうがいいと思う。
その方がやりやすいわ、マジで。」
サックスの岩尾先輩が口を開いた。
「別に、コンクールの曲を演奏する機会は、この後の定期演奏会でもあるじゃん。
その時に参加してもらえばいいんじゃない?
コンクールは参加しなくてもいいと思う。
出るからには、金賞、全国を狙う気で行きたいし、 本気がどこまで通用するのか、音楽のプロに正確にジャッジしてもらえる貴重な機会だから。
『コンクールに出ます、でも賞は気にしません』
っていうのは、違うような気がする。」
岩尾先輩はそう言い終えると、笠原さんを見た。
「少なくとも、そんな気持ちでコンクールに出る団体じゃない、うちの吹部は。
コンクールは、音楽を楽しむ気持ちを優先しつつ、賞を狙うものだと思う。
もし、
『賞は気にせず音楽を楽しむことを優先したい』
っていうなら、 そういうスタンスの吹部を選んだらいいんじゃないかな。
それに、今回全国を目指している俺らのために、 人生をかけてくれた松下さんにも失礼だろ。」
…そうだった。忘れてた。
船田先輩が手を挙げると、山田先輩が促した。
「楽器が演奏できるのは、自分の力だけじゃない。
音楽室があって、楽器が借りられて、演奏できる機会があって、学校が予算を出してくれている。
そういうことに、感謝しているかな?」
そう言って、静かに座った。
もう一人、フルートの北野先輩が手を挙げた。
「私の個人的な話になってしまいますが…。
不登校で、ここでの活動でしか評価される場がないんです。
だから、ここで結果を出したい。」
田中先輩も手を挙げた。
「僕たちは、後輩にコンクールについて、ちゃんと話したことがあったかな?
どんな思いで参加するのか、っていう情報は伝えていたかもしれないけれど、 その『想い』をしっかり共有できていたのかどうか——それを今、考えている。
後輩とのコミュニケーションが、できていたか? 今、それを反省している。」
再び、音楽室が静かになった。
すると大橋先輩が手を挙げ、話し始めた。
「吹奏楽コンクールでの評価は、次のコンクールまでの1年間、 その中学吹部の結果として残るんだよね。
ブランドの維持、信用の維持。
それを全力で取りに行きたい。
これから大人になっても、同じことがあると思う。
例えば、レストランならミシュランの星を獲得することがあるよね?
そういうレストランで食事をしたり、そこで働いた人がいたら、 『おお、すごいじゃん』って思うことがあるでしょう?
近所のラーメン屋だって美味しい。 でも、もしミシュランを獲得したら、もっと嬉しい気持ちになると思う。
『おっちゃん、よかったね!』
って、自然と思うはず。
コンクールで賞を取ることも、そんな感じじゃないかな?
いろんな人が喜んでくれる。
そういう笑顔が見たい。
欲を言えば、もっと多くの人を笑顔にできたらいい。
コンクールは、そのための一つの機会だと思ってるよ。」
ニコニコしながら話す大橋先輩のおかげで、少し呼吸が楽になった。
山田先輩は、
「特にコンクール初めての1年生に聞きたいな。
不安や不満、いっぱいあると思うけど、一言でもいいから聞かせてほしい。
うーん、大橋の隣の、結城さん、どう?」
と、問いかけた。
結城さんは、静かに答えた。
「私は、音楽が好きで、 小学校までとは違う取り組み方をしていることに、緊張しています。」
よく、落ち着いて答えられるよな…。
山田先輩は
「ありがとうございます」
と言い、 そのまま見渡して——俺と目が合ってしまった。
しまった!
「鈴木君は?」
…。
「俺、一部の人は知ってると思うんですけど、5月は不登校でした。
やっと登校できるようになって、吹奏楽部に来たんです。
せっかくホルンをやっていこうとした時、のぞみ先輩がいなくなってしまって…。
今は、絵馬先輩もいない。 回復したら来てくれるけど、すごく不安です。
コンクールとかよりも—— 正直、隣に絵馬先輩がいてくれたからこそ、ホルンを吹けていたんです。
一人では、吹けない…です。
のぞみ先輩に、戻ってきてほしい。」
無茶苦茶なことを言ってるのは、わかってる。
でも、何か言わなきゃいけない気がして、つい口に出してしまった。
自分でも驚いた。
山田先輩の目が潤んでいた。
涙を飲み込むような声で、
「じゃあ、鈴木君を連れてきた黒沢君、どう?」
と、問いかけた。
黒沢は、静かに口を開いた。
「トランペットって、かっこいいって思ったんです。
体験入部の楽器紹介で、ラピュタのパズーが吹いていたトランペットを聴いて、
『俺もやる!』
って思いました。
その気持ちのまま、今もやっています。
それは、入部してから、運動会でも、コンクールでも変わっていません。
それに、江口先輩のHigh-B♭がすごいんです。
中学生でこの音を出せるのって、すごいことだって、入部してすぐ知りました。
どうやって出してるんだろう?と思ったら、 毎日、高音ロングトーンを練習してるんです。
終わったら、疲れ切って倒れたり、教室の隅でうずくまってたりするんです。
江口先輩みたいになりたい。
だから時代に逆行してるかもしれないけど、俺もあれくらい練習しています。」
俺は、黒沢の学級委員としての立場から、 何かリーダーシップ的な発言を期待していたけれど、 それよりも、この本音のほうを聞けて良かった気がした。
俺も、ラピュタのトランペットを聴きたい。
山田先輩は、
「えぐっちゃん、黒沢君がこう言ってるよ。」
と言うと、江口先輩は、くしゃみをした。
一瞬、音楽室の空気が緩んだ——。
「クロみたいに、誰か1人にでも届いたなら、やって良かったと思う。
3年生は知ってると思うけど、私、一度コンクールから逃げたことがあるの。
1年の冬の新人戦。
その時のレッスンのコーチの厳しさに耐えかねて、 コーチのことが生理的に受け付けなくなった。
無駄に厳しいし、言葉もキツくて、近くにいるだけで気持ち悪く感じた。
学校に行くのすら嫌になりそうで、音楽も嫌いになりかけた。
それで——新人戦から逃げた。
その時は金賞だった。
例によってダメ金だけど、 みんながキラキラしていて、
『あの時、逃げなきゃよかった。きっと楽しかっただろうな』
って、深く後悔した。
賞のために演奏することが嫌なら、音楽が嫌いになりそうなら、 コンクールの時期は距離を置いてもいいと思う。
だけど、後悔するかもしれない。 本当は——私みたいな後悔は、してほしくない。」
そうだったんだ…。
「『パズーのトランペット』聞きたいですー!」
誰かの声が響いた。
山田先輩が、
「えぐっちゃん、ちょっとお願いしたいんだけど…」
と言うと、江口先輩は一瞬眉間にしわを寄せた。
俺は思わず言ってしまった。
「話聞いて。俺もさっきから聴きたいと思ってました。お願いします。」
横で白川先輩が手を合わせながら、
「えぐっちゃん、景気づけに!」
と、拝むようにお願いしている。
江口先輩は、小さく
「なんだそりゃ」
とつぶやきながら楽器を構えた。 そして——『パズーのトランペット』を吹いた。
後頭部の内側で、アニメのあのシーンが蘇る——。
吹き終わると、自然と拍手が沸き起こった。
黒沢が口を開いた。
「先輩、その楽譜、コピーさせてください。」
しかし、江口先輩は、さらっと答えた。
「耳コピ。楽譜ない。」
「え…」
絶句したのは、黒沢だけじゃなかった。
白川先輩が、ふっと笑いながら言った。
「な?普段の学校生活だけで、こんな面白い人と会える? 先輩・後輩になれる?
音楽をやっていると、人とつながるんだ。
上を目指せば、もっと面白い人と友達になれるかもしれない。
俺は、そんなこともワクワクしてる。」
山田先輩が、静かに音楽室を見渡しながら言った。
「まだ発言してない部員、いるよね。
この際だから共有してもらえると、今後の運営のためになると思う。」
音楽室が静まる——。
すると、笠原さんが口を開いた。
「私は——やっぱり辞退させてください。」
空気がピンと張り詰める。
「どうしても、コンクールとか音楽への評価のための戦略って、何だか気持ち悪い。
納得できないまま参加しても、足を引っ張るだけだから。」
「そんな…。」
山田先輩が青ざめる。
船田先輩がフォローするように言った。
「今だよ。
辞退したいっていう人は、手を挙げて。
これ以降は、本当に迷惑だから。
体調不良とか家族の事情、事故なら仕方ないけど、
『本当は辞退したかった』
って、後から言わないでほしい。
出たくないなら、今言ってほしい。
これが辞退の申し出の最後のチャンス。」
笠原さんが、ゆっくりと手を挙げた。
山田先輩は、静かに言った。
「うん、わかった。あとで返事するね。 たぶんOKだよ。
コンクール当日は、来てね。
これは部員としての役割だから。」
笠原さんは、淡々と答えた。
「わかりました。じゃあ、今日は帰ります。
コンクール当日に、お手伝いで参加します。」
え?
そんな空気を無視して、笠原さんはバッグを持ち、 楽譜と楽器を抱えて音楽準備室へ行き、楽器を片付けた。
…マジか?
「逃げていいよ」「辞めていいよ」って言われても、 足が動かないって聞いたことがある。
あれと同じ感覚なのかな?
それとも、もう部活に染まっているのかな?
どちらにしろ、俺はコンクールに出ると決めた。
もしかしたら、俺がミスしたせいで銀賞とか銅賞になるかもしれない。
だけど——楽器、音楽をやりたい気持ちは、それぞれ違う形で心にある。
それが曲の中で一緒になるなら、やってみたいと思った。
それは、好奇心に変わったんだ。
たぶん、コンクール当日まで、何度もネガティブになると思うけど——
俺は、やる。
心で決めた。
…足が震えている。
山田先輩と船田先輩が話していた。
その後、山田先輩が、
「ちょっと先生と話してくる。その間、誰か…」
と言いながら、すばる先輩の方を見た。
すると、すばる先輩は、
「俺でもいいんだが、今でも音楽で現役の宮田さんにお願いしてみてはどうかな?」
と言った。
部員の視線が宮田先輩に集まる。
宮田先輩は、ニコニコしながら、
「さっき帰っちゃった子がいたけど、逃げるなら今だよ~。」
と、軽くアニメボイスで話した。
心にぞわっとくる怖さ。
しばらく音楽室は静まり返った。
「いいよ。内田先生に今の話し合いについて相談してくるってことだよね。 内田先生が戻るまで、トレーニングをしよう。」
そう言ってくれた宮田先輩に、山田先輩が、
「ありがとうございます、よろしくお願いいたします!」
と、深々とお辞儀をした。
それに続いて、部員たちも慌てて、
「よろしくお願いいたします!」 と、声をそろえた。
宮田先輩は、軽く
「はーい」
と返事をした。
「じゃあね、まず課題曲。
頭のフルートとクラリネット。
相当練習したんだな、っていうのがわかっちゃう吹き方なんだよね。
全身で、
『はい、わたし、ここで細かく正確に、必死に練習して、ここまでできるようになりましたー!』
って聞こえる。
違うんだよ。
原因は、リズムの中に正確な十六分音符を入れようとしてるから。
もう、それはできてるから、歌ってごらん。
どうしても息が続かなくて切れるようだったら、 ブレスの位置を一人ずつずらして、ブレスに気づかれないようにね。
今、決められる?」
そう言うと、クラリネットとフルートのメンバーがそれぞれ話し始めた。
誰かが「決まりました」と言うと、宮田先輩は、
「はい、じゃあもう一回。」
と言って、指揮棒を構え、振り始める。
音楽室に、再び音が響いた。
しかし、途中で止められる。
「うん、さっきより良くなったんだけど、今度は強弱がなー。
この間に、pからffまでの幅を出すんだけど、 今のままだと、多分ホールでは差が感じられない。
今は音楽室だから、隣の人の音が聞こえていて、 その範囲で合奏しているから、できてるつもりかもしれないけど——。
実際には、客席の2階席に審査員がいるんだ。 そこに届くかな? 今の音量と、めりはり。
多分、さほど変わらないよ。
音を飛ばすのは、この窓の向こうの方だよ。」
宮田先輩は、前方の上の方を指差した。
「譜面と指揮だけ見てると、音もそこでまとまっている。
でも、それは審査員には届かない。
今はクラリネットとフルートに話してるけど——全員ね。
2階席にいる審査員に、音楽を伝えるんだよ。」
部員たちは、「はい」と返事をしながら注意を書き込んだ。
時には、ぐさっとくる指摘に、泣きそうになりながらも、 合奏練習を続けた。
1時間経っても、内田先生も山田先輩も船田先輩も戻ってこない。
きっと、みんな気にはなっているだろう。
でも、今は——いるメンバーで練習を進めよう。
「ホルン、テナー、ユーフォ、オブリガード、やってみようか。」
——やっぱりか。
新たに追加されたところ。 正直、まだできていない。
吹いては、注意。 吹いては、注意。
それを繰り返しながら、30分が経過する。
ようやくまとまって、全体で吹いたら、 今度はトランペットのメロディについて指摘と修正を繰り返し——さらに15分が過ぎた。
部活終了10分前に、山田先輩だけが戻ってきた。
「ごめん、まだ話し合いが続いてるんだ。
悪いけど、楽器を片付けて、部活を終わらせて帰ってくれる?
明日はまた13時から、音楽室に集合ね。」
「はい。」
返事はしたものの—— いつもとは違う雰囲気に、空気がどこか重く感じられた。
ホルンをケースに戻そうとした時、コンビニのビニール袋があった。
中をのぞくと—— さっき江口先輩に渡した、俺のタブレットだった。
メモがくっついている。
「鈴木方法は絶対教えないが、ドキュメントにさっきの映像が入っている。
家に帰ったら、それをすぐスマホで撮影すること。
期限は今日24時まで、再生回数2回のみ。
再生2回したら、データは自動で消去される。
心して撮影すること。 もう元データはない。」
おお…! よし。
俺はできるだけ自然に、そのコンビニの袋を持ち、バックに素早くしまった。
江口先輩の方を見たら目が合った。
会釈をすると、江口先輩は、ふっと笑って、楽器を磨いていた。
江口先輩がこういうことをしてくれたり、 黒沢が、いろんなことを聞いて、時間を作って教えてくれたりするのは—— 後輩が悔しい思いをしないように、そっと応援してくれてるってことだよな。
今は受け取ってばかりで、受け取ることしかできなくて、 それも、すべてを受け止めきれていなくて、アップアップな状態だけど——
もう、ここまで来たら何でも飲み込んでやるんだ。
今日の緊急ミーティングは、俺にとっては、 先輩たちの思いや、意外な本音が聞けて、安心した。
コミュニケーションがあると、俺は元気になるみたいだ。




