118.譜面通りなのに、響かない
朝の音楽室、いつもと違う空気。
松下さんのレッスンの日だ。
そして、昨日早退した沢田先輩もいた。
確実に絵馬先輩と俺と目が合ったはずなのに、完全無視。
弱いんだか、強いんだか…。
まぁ、セクション練で関わることがなくなっただけでも気分は軽い。
音出しとチューニングが終わると、船田先輩主導の基礎合奏。
一通りのメニューが終わり、船田先輩が告げる。
「これからレッスンの先生を呼びに行きます。 1回換気してください。
筆記用具、確実に用意しておいてください。
途中で芯がなくなったとか、インクが出ないとかないように!
あと、今回のレッスンは 3万円かかっています。
プロの奏者へのレッスン料として、この金額は 安い方 だと思ってください。
みなさんの保護者さんから、部費の支払いの中から出ています。
感謝して、真剣にレッスンを受けていきましょう。」
部員の 「はい!」 という声が響いた。
山田先輩:「これから呼んできます。各自、音出し!」
そう言って、船田先輩と一緒に音楽室を出て行った。
プロのレッスン、ただの練習じゃない。
先輩たちはいつもと違った緊張感を持っている。
そりゃそうだよな、プロのレッスンとなると気持ちも変わる。
サッカーで言えば、Jリーグの選手に教わるようなものだろう。
そりゃあ気合が入るだろうな。
そして松下さん。 俺がホルンを始めるきっかけになった人。
今頃になって気づいたけど… 俺、めちゃくちゃ贅沢な環境にいるんじゃないか?
実感がわいてきた。
音楽室の戸が開き、松下さんが入ってくる。
独特のオーラがあって、空気が変わる。
内田先生:「今日1日、ご指導いただきます。よろしくお願いします。」
部員全員、 「よろしくお願いします!」 と声を揃える。
松下さん:「よろしくお願いします。一度座ってください。」
指揮台の上に上がり、座る。
そして話し始めた。
「私は、この編曲と、あなた達の演奏に、人生かけてます。」
…え? 何だって?
ディベルティメントに初めて触れたのは大学の授業だったらしい。
和楽器の課題曲として、三味線を選択したという。
吹奏楽器だとアンブシャーが崩れる と思ったから。
そこで、課題曲として出されたのが 和楽器のディベルティメント。
初めて聴いた時、「素晴らしい」と思い、自分でもやりたいと思ったが、やってみると とんでもなく難しかった、と。
「それでもどうしても弾きたくて、懸命にやりました。
この曲、どこをとっても熱くて、もっと多くの人に聴いてもらえないかと思いました。
和楽器のために作られた曲だけど、 このメロディは吹奏楽でも表現できないだろうか?
そう考えて、編曲しました。
作曲家の佐藤さんは すでに他界しているため、 失礼のないように、原曲の世界観を絶対に引き継ぎ、吹奏楽にアレンジしました。
『命を懸ける吹奏楽コンクール、全国を目指す鶴花中にふさわしい』と考えています。」
松下さんの話を聞いて、俺は気づいた。
とんでもねぇことをさせられていたんじゃないか?
人生かけられてるって、重すぎるんだが。
ただでさえ、必死なのに。
中学生に人生かけるって、選択ミスってると思う。
ただ… ミスってたとしても、後悔はさせたくないなって思った。
俺はこのホルンで、なんか色々 「悪くない」 って思うことが増えたから。
やるしかない。
和楽器のプロの演奏を聴いて、俺みたいな素人でも 「きれいだな」 と思うくらいだった。
松下さんのようなプロが聴いたら、もっと感動したんだろう。
今まで 「自分が必死になること」 だけを考えていた。
けど、こんな風に 「いろんな人の人生が乗っかってる」 ことに気づくと、 なんか、すげぇ とんでもないものに巻き込まれてる 気がする。
でも、悪くはない。
大変だけど、悪くない。
やるか。
松下さん、覚悟の言葉。
「私の頭の中では、なんとなくイメージしているけど、 実際のところ、きっといろんな壁があると思います。
今日は、それを 解決してしまいたい。
というか、こんなギリギリで ごめんなさい。
私の頭の中での音を、譜面を通じて、 あなたたちに 音に、響きに してほしい。
お願いします。」
プロの人が、俺らに 「お願いします」 って頭を下げるなんて。
もっと言えば、前に来たAI社長みたいに、 「こうしろ!」 「これをやれ!」 って命令してもいい立場のはずなのに。
顔も声も、本気で必死な人だった。
コンクールで賞を取る、全国大会へ行く。 それが、今の松下さんへできる孝行というか、恩返し なのかもしれない。
「1回、内田先生の指揮で通しをお願いできますか?」
松下さんがそう言うと、部員全員「はい!」 と声を揃える。
指揮台を降り、椅子を運び、内田先生へ礼をする。
内田先生も礼を返し、指揮台へ上がった。
指揮棒を構える。
俺たちも、楽器を構える。
演奏、開始。
指揮棒の動きとともに、音が鳴り始める。
夢中で譜面を見る。
指揮を見る。
いろんな音を聞く。
一音も外さずに…とはいかない。
でも、それを顔には出さない。
切り替えながら 集中する。
最後の音を鳴らし、 指揮棒が下がるのを見て、楽器を降ろした。
松下さん、沈黙。
内田先生が指揮台を降り、松下さんへ礼をする。
松下さんも 「ありがとうございます。」 と拍手をしてくれた。
そして、しばらく 無言。
気軽に言葉も音も発せない。 空気が 固まっている。
すごく長い時間が流れた気がする。
ちらっと時計の針を見る。
…松下さんは、ぴくりとも動かない。
2分経過。
「…だいぶ違う…。」
そうつぶやいた後、また 沈黙。
戸惑い、焦り。 そんな表情が見える。
どうしよう…。
音楽室に、微細な音が響く。
誰かの つばを飲み込む音。
空調の音。
外の運動部の声。
区役所からのお知らせ。
そんなものに びくつくほどの沈黙。
3分経過。
「譜面通りやってくださっているんです、みなさん。
ただ…何というか、リレーみたいになってて…。
自分の部分が終わったら、はい、途切れて、 また自分の番が来たらバトンを受けて…
かえるの歌の輪唱みたいな印象で…。
吹奏楽独特の ドン! っていうのが出なくて…。
楽器の問題なのか、組み合わせなのか、パート割なのか…。」
再び沈黙。
松下さん、決断。
「すみません、ちょっと 別教室で練ってきますので、15分程お待ちください。」
そう言って、音楽室を出て行った。
内田先生も、呆気にとられる。
部員がざわつき始める。
「これでいいのかな?」
「私、音、間違ってしまったから、イメージがつかなくなっちゃったのかな?」
「そんなショック受けるほど ひどかったのかな?」
「もしかして、イメージの下で 絶望してたらどうしよう。」
内田先生は冷静に言う。
「松下さんが戻るまで換気休憩、とりあえず20分。」
そう言って、音楽室を出て行った。
俺は念のため つば抜き をするが、 朝の基礎練、合奏、自由曲合奏をやったばかりだから、そこまでたまっていない。
そんな時、背後から こそっと 声が聞こえた。
「昨日、ホルンとサックスで何があったん?」
振り向くと、黒沢だった。
俺:「あー…」
一度立ち上がり、ホルンを椅子の上に置く。
「ちょっと廊下出よう。」
そう声をかけた。
そして、振り返り じーーーーっと 白川先輩を見つめる。
すると、白川先輩と目が合った。
無言で、強く 「同席ください」 と訴えた。
おそらく察知してくれたのだろう。
白川先輩は 立ち上がり、楽器を置いて、ついてきてくれた。
そのまま廊下へ向かう。
いつもの踊り場—吹部男子の集い
俺たちは いつもの踊り場 へ移動し、座り込む。
白川先輩:「何だ?」
黒沢:「いや、昨日何かあったのか?って聞きたくて、たくみんに声かけたんです。」
俺:「俺説明下手だし、色々被害妄想で言っちゃいそうで…。それで…。」
白川先輩:「あー、そういうことね。分かった。クロ、お前、本当は 察知 してるよな?お前の事だから。」
黒沢:「沢田先輩のわがままを内田先生がぶった切って、 大橋先輩に無茶振り丸投げして、 大橋先輩が余裕でぶちかましたって感じすかね?」
白川先輩:「正解。」
黒沢:「よっしゃ!」
白川先輩:「ちなみに鈴木、お前はどう説明するつもりだった?」
俺:「えっと…黒沢の正解の後に言うとしたら… 絵馬先輩が 沢田先輩にきつく当たられてる理由が、ホルンまとめてだったのと、 沢田先輩が本当は アルトサックス専門でやりたかったのに、 ホルンの補充のせいで持ち替えでテナーをやらされることになった、って話で…。えっと、あと…。」
白川先輩:「長い長い! 丁寧だけど、鈴木は 客観視して言語化する力を鍛えたほうがいいな。 相手の質問の 要点を見極めて ポイントを答える。あと、クロ、お前 察知力が怖い。」
俺:「いいなあ…。」
「昨日のやつっすね!」
いつの間にか、岩尾先輩が階段を上ってきていた。
岩尾先輩:「あいつ面倒なんで、良かったっすよ。 謎の上から発言でイライラ してて、嫌いっす。」
白川先輩:「後輩の前で愚痴るな。ダサいおっさん みたいだぞ。」
吹部男子、続々集合。
「何?楽しそー。」
「あ、今日は岩尾先輩もいる!」
「今日は鈴木、元気っぽいな。」
藤井、斎藤、小松が合流。 いつものメンバーだ。
吹部男子の集合場所、出来上がる。
白川先輩:「数少ない男子部員の 息抜き場所 になってるな、ここ。」
黒沢:「避難場所っす。」
小松:「でも、昨日女子に見つかったから、場所開拓 しないと…。」
白川先輩:「何、なんかあったのか?」
藤井:「女子の戦いに巻き込まれて、黒沢メンタル死んでました。」
白川先輩:「何ぃっ!?」
黒沢:「何か、音楽理論で謎に 『私絶対正しい』 って圧かけてきますよね。 『うまいですねー、すごいですねー、正しいですねー』って思うけど……大っ嫌い!!」
白川先輩:「お前も相当やられてんな…。」
岩尾先輩:「俺も 大っ嫌い!」
白川先輩:「お前は前からだけど…大丈夫か、サックスパートの未来は…?」
藤井:「結城さんがしっかりしてるし、冷静だから大丈夫じゃないすか?」
岩尾先輩:「サックスって、個性と主張が強い人が集まりがちだから心配してたんだけど… あの子、テナーめちゃくちゃやるんだよね…。 教えたら、スイスイできる。
多分、もっとできると思うから、早めに いい先生 についてもらったほうがいい。 たぶん、アルトもやらせたほうがいいっすよ。 沢田よりいいかも。昨日、泣いてたから気を使ったんすよ。 でも、すれ違いざまに 舌打ち されて、 『私のせいにされたじゃん、ふざけんな。ついでに 臭いんだよ』って…。」
白川先輩:「マジか…。」
岩尾先輩:「怖さと イライラ と…大っ嫌い!!!」
黒沢:「たぶんですけど、 泣いて怒ってパワーアップする女子、いますよね? それに巻き込まれると パワー吸い取られる。
俺は 心の中で、そういう奴を『エネルギードラキュラ』って呼んでます。」
フッと噴き出した。
俺だけじゃなかった。 みんな、思ってたんだ。
笑いで共感、共有。
黒沢:「あ、誤解ないように言うけど、女子全員そうってことじゃなくて、 絡んでくるめんどくさくて、疲れるやつを指してます。
『エネルギードラキュラ』って理解したら、 心のシャッター 閉じます!
出来る限り時間と物理的距離を取ります。」
藤井:「賢い。クロ、俺もそうする。」
斎藤:「俺は最初から関わらない…。」
小松:「俺も…なんか 読めなさすぎて怖い。」
「おーい、もうすぐ20分だぞー。」
山田先輩の声が聞こえた。
俺たちは 慌てて音楽室へ向かう。
席に戻り、音出しをする。
さっきより 音が出やすくなっている 実感がある。
休憩って大事だと、改めて思う。
10分後、松下さんと内田先生が戻ってきた。
松下さん:「いきなり席を外してしまい、申し訳ございません。 ちょっと対策をしたいので、2回通して演奏してほしいです。」
1回目: カットした分を カットせず に演奏した場合
2回目: カットせずに、テンポアップ した場合
「当然、時間オーバーになりますが、今はそれを気にせずやってみてください。 カットした分は、練習されていないと思うので、今から10分間さらってください。
「10分後、お願いします。」
え? カットの部分って、ホルンがあまりにも酷かったところだ。 それに イラついたのか…?
確かに メロディをもらっていた けど…。
まぁ、やってみるか。 判断材料にするってことだし。
久しぶりに吹く。
…あれ? 出る? 出来る…?
他の部分と 大体同じパターンだからか…。
不安定ではあるけれど、前よりは出せている。
おかしいな? 出来ないはずだったのに…。
そうこうしているうちに、時間になった。
内田先生が 指揮台に立つ。 音楽室が静まり返る。
指揮棒を持つ先生。
楽器を構える部員。
演奏開始。
1回目—カットなしの演奏
静かに始まる。
途中から入る。 カットされた部分も吹く。
内田先生と目が合う。 何とか 合わせられただろうか?
指揮が、いつもと 何か違う。 あおられるような感覚。
息がしやすい。
大橋先輩のおかげか、音が聴こえて合わせやすい。
休符の時に聴こえる音が、いつもと違う。
色々削られていた部分が戻っている。
ズレてはいる。
でも、何となく 「こういうことをしたかったのか?」 というのは分かる。
ホルンも、昨日はカットだった部分を音にする。
内田先生の指揮棒の動きを見つめる。
思い切り吸い込んで、緊張、音を出す—— しくじる。
落ち込んでいる間もなく、次の音へ。
1回目の通し、終了。
色々、ミスが…。
と考えている間もなく、 2回目の指揮が始まる。
2回目—テンポアップの演奏
えげつない速さ。
ちょっと 違う曲みたい になってるけど…
いいのか?
指揮が そうなっている から、 遅れないようにするだけで 精一杯 になる。
その代わり、ritがものすごくゆっくり に感じる。
合わせに行くと、息苦しくなる。
息が足りないとかではなく、音を変えるタイミングを読み取るプレッシャー。
神経が キリキリ する。
カットされていた部分を吹く。
テンポが 速すぎる。 精一杯ついていくしかない。
スラー? 全然できてない。 怖くて、思わずタンギングしてしまう。
絵馬先輩は 音をつないでくれている から、 ごまかせるなら ごまかしたい。
でも。
一瞬、内田先生が鋭く睨んだ。
やっぱり バレた。
そりゃ 2回目だし、怒るよな。
わかります、わかりますけど… 怖い。
2回目の通し、終了。
指揮棒が 下がる。
内田先生が 指揮台を降り、松下さんに礼をする。
松下さん:「ありがとうございます。」
そして、また沈黙。
俺は 時計を見た。
どれくらい 黙るのか?
3分が経過した時——
松下さん:「全部作り直したい。」
え? は? マジで何言ってんの?
ここまで来て???
は? は???
部員が どよめく。
内田先生、反応。
「さすがにそれは…。」
松下さん:「そうですよね、ごめんなさい。でも…。」
困惑している。
「やってみたから気づいたことが、あまりに!多くて…。」
頭を抱える松下さん。
内田先生:「どれくらいで譜面できる?」
え? 聞くところ、それ???
どこが 違うのか? どういう ズレがあったのか?
そういうディスカッションとかじゃないの???
松下さん:「1時間ください。その後コピーして配布して…。」
内田先生:「わかった。じゃあ、さっきの教室で。」
「おのれらはその間、課題曲の練習!」
部員の「はい」という返事が響き、
松下さんと内田先生は、音楽室を出て行った。