116.熱い指導と冷たいみかん
「基礎合奏を基礎合奏だけで終わらせるのではなく、その先へ進むこと。
次のフェーズでは『歌う』ことだ。
正確な音程で強く、弱く、スラーの位置を気にするだけじゃない。
『どう歌うか』を考えろ。30秒やる。はじめ。」
え? 歌う? ホルンを通して声を出すの?
B♭~F~とかで歌うの? それとも、ドとかレとかで歌うの?
何? 30秒じゃ質問も解決もできないよ。
テンパったまま、あっという間に時間が過ぎる。
内田先生が指揮棒を構える。
みんなが楽器を構える。
どうすればいいかわからない。
先生の指揮棒が振られると同時に、音が聴こえた。
あ、いつも通りでいいのか…。
途中からさりげなく音に加わると、一瞬、内田先生にギロッとにらまれた。
バレたよね、さすがにね。
音楽の先生ですしね、指揮者ですしね。
指揮棒を下した先生が、譜面台を叩きながら言う。
「基礎合奏のメロディを音楽的にしろ!と言ってる!
まだ伝わんないのか?
ただ、書かれてる音をぼーっと出してるだけか!
こんなもん、出来て当たり前。
どこに価値をつけるか、ってなったら、そこに感情が、歌いたい気持ちが乗ってるかどうかなんだ!
何にも面白くない!気持ちが動かない! もう1回!」
「はい!」
部員の返事と同時に、楽器を構え、指揮棒に合わせて音を出す。
指揮棒が止まった。
内田先生が低い声で言う。
「ホルン、サックス」
該当するパートの部員が返事をする。
「おのれら、もっと出せるだろうが!
低音と高音が離れて聴こえてしまっている。
おのれらが出さないからだ!
おのれらが高音と低音をつなぐんだ!
今のままではバランスがなってない。
おのれらだけでやってみろ!」
「はい!」
返事とともに音を出すが、指揮棒が途中で止まる。
「音が上がるときに膨らませるように!もう1回!」
はい、と返事はしたものの、まったく理解できない。
先生の指揮は左手が上に上がった。
…が、すぐ指揮棒とともに下がる。
指揮棒で譜面台をカカカカッ!と怒りを含んだ音で叩いた。
そして
「まったく膨らんでいない! ただ、音を大きくする、ってだけじゃない!
厚みを持たせるんだ。
喉開いて吹き込む!
たっぷりブレスする!
もう1回!」
指揮棒の動きに合わせて、息を吸い込み、音を出す。
膨らませるって?
喉を開く?
音を出しながら、ホルンに差し込んでいた右手を首に持っていく。
首をつかむように触ってみる。
ブレスして音を出すときに、多少表面が動いている。
喉を開く…。
顎を引いて、奥を手で押してみた。
ここを…どうにか?
なんとなくそこに向かって息を吹き込むと、音が少し変わった。
頬や顔の下の部分の痛みが少し和らぐ。
最後まで吹き終わると、先生は短く指示する。
「全員で!」
部員は「はい!」と返事をし、音を合わせる。
音が膨らむとは、単なる音量の話ではない。
柔らかく、厚みを持たせること。
その吹き方は、顎を引いて喉を開く。
体の使い方がまだまだ甘かったんだ。
気のせいか、喉も痛くない。
いつもある首の痛みも、今日はない。
吹き方が間違っていたのか?
変な力が入っていたのか?
わからないけれど、毎日同じことをしているのに、違ってくるんだな。
全パート、ダメ出しだらけの怒涛の基礎合奏が終わり、昼休憩。
今日は1時間半。
おそらく、午後の合奏練習に備えろということなのだろう。
今までこんなことはなかった。
楽器をしまってから、ぐったりし、バッグから弁当と水筒を取り出す。
なんとなく1年男子で集まり、弁当を食べ始める。
「もう午前中だけで、HP使い切ったんだが…。」 小松がつぶやくと、全員がうなずいた。
「午後怖いんだが。課題曲も自由曲も、もう地獄の曲になってるんだよー!」
斎藤が声を潜めて、顔をしかめる。
わかる。 とうなずく。
不安しかない。
それでも、練習してお腹がすいたから、弁当は食べる。
「あ、おみやげ!母さんがみんなでって!」
藤井が別の袋から取り出したのは、冷たいみかんだった。
めっちゃ冷たい。
夏にこんなみかんって珍しい。
食後の冷たいみかんでほっとする。
こういう時間があって良かった。
じゃないと、ストレスと緊張でおかしくなる。
食後は、風が通る踊り場へ。
エアコンはないが、生ぬるい風がある分、まだ過ごせる。
最初、黒沢と2人で寝転がっていた場所に、3人加わると 寝転ぶことはできないが、その分だらけた姿勢でリラックスできる。
斎藤が話を始めた。
「なんか吹部の女子って、特定の人とつるむよな?」
俺:「え?そうなの?」
斎藤:「うん、なんかそんな感じがする。」
小松:「よくわかるな。なんで?」
斎藤:「昼食べるときとか、空き時間に話したり、移動の時とかさ。 わざわざ近寄る?って思う瞬間が何度かあって。
それで、この人とこの人は仲いいんだな とか、あそこは揉めたりするな とか、あの子とあの子はお互い嫌ってるな とか。
先輩たちもそんな感じする。
コンクール練習でさらに、はっきり見えてきた。」
黒沢:「わかる。怖いもん。」
小松:「結構言い返してるじゃん。それでも怖い?」
黒沢:「こえーよ!あいつら、メンタルを潰しに来るぞ。 だから基本、女子と話す時は心のシャッターを瞬時で3重ぐらい閉じてるからな。 ちなみにクラスの女子もおんなじ感じだと思う。」
そんな話の流れのまま、女子の言い合いが踊り場の下の方から聞こえてきた。
思わず隅っこに集まって身を潜める。
「あのさ、いつも先輩に頼りっぱなしの演奏になってるじゃん? もうちょっと自分の意思で演奏しようと思わないわけ? 先輩の足を引っ張ってる自覚、ある?」
誰だ?
なんか聞いたことあるような、ないような…。
「そっちも大体似たようなものでしょ。 あの音でよく私にそんなこと言えるわね。」
「は?私はあんたと違って、船田先輩と練習して、1人で演奏したのを聴いてもらってOKをもらってるの。
それくらいの練習はしたんでしょうね?」
「2ndの先輩と合わせて1本の音になるようにしてから、船田先輩に確認してもらった。 その後、1stとも合わせたけど!?
3rdはそこまでやってなかったよね?
同じ3rdなのに、2人で吹いてたら『2人で吹いてる』ってバレる。
つまり、合ってないってことじゃん。
自分の意思で演奏とか言ってるけど、 合ってなかったら全体に迷惑じゃん?
そんなことも分かんないの?
それで今、いちゃもんつけてきたわけ?」
黒沢:「クラリネットの2ndと3rdの1年だな、おそらく。」
俺:「あれ?いつもの2人?」
黒沢:「じゃない…。別の2人のほうだ。クラ1年は3人いるから。」
小松:「どうする?止める?」
斎藤:「そんな勇気ねえ。」
藤井:「クロ、行ったら?」
黒沢:「俺も自分が大事だ。せっかく怪我治ったのに、心が怪我するよ、あれに混ざったら。」
もし俺が「先輩に頼りすぎ」「先輩の足を引っ張ってる」「全体に迷惑」とか言われたら、 間違いなく泣く。 てか、明日から部活に参加できねえ。」
小松:「そんな揉めることかね?」
藤井:「多分、他に原因があって、たまたまこれが表に出たんだろ。」
黒沢:「他の原因って?」
斎藤:「男か?」
…
大爆笑。
黒沢:「拗れすぎだよ、八つ当たりにもほどがあるって。誰だよ相手。」 小松:「鈴木とか?」
俺:「違うな。多分白川先輩とか、この前のOBの先輩とかじゃね?」
斎藤:「あー、騒いでたよな。」
藤井:「目の前にちゃんと男子いるのにな!ってスルーされてるかぁ。」
ちょっとはしゃいでしまった。
ふと気が付くと、言い合いしている女子とその友達4~5人が、 鋭い視線で、じっとこっちを見ている。
その中の1人が、
「聞いてたんでしょ?だったらこっち来い。話し合うから。」
黒沢が立ち上がり、
「こっちはこっちの話があるんだよ。 てめーらの喧嘩に巻き込むな。」
すると、女子の1人が言い返す。
「逃げんなよ。
いつも男子だけ関係ないふりしやがって。
お前らもちゃんと練習しろよ。」
黒沢はドスの聞いた声で言い返した。
「あ゛?てめー、あんま調子乗って挑発してくるなら、 俺も容赦しねえで言わせてもらうがな。
お前らの演奏なんて、どんぐりの背比べ。
目くそ鼻くそ、五十歩百歩だわ。
俺もだけど。
相手をけなす言葉を、まず自分に向けろよ、まじで。
お互いブーメランじゃねえか。」
言い争っていた女子が泣き始めた。
「黒沢ひどい…、こんなのと一緒の演奏だなんて…。」
「私だって、こんなのと変わらないって言われる程度なんて…。」
黒沢が顔の表情がなくなり、目が死んだ魚になっていく。
黒沢を押しながら、男子5人で、
「さー、音楽室に入ろうか。」
と言い、その場をさっさと立ち去った。
小松:「あーやって絡んできて、勝手に怒って、いきなり泣き出すとか、マジしんどいんだけど…。クロ、ありがとう。」
黒沢:「どういたしまして…。短気は損気ってこういうことだよな。無駄になんか背負わされるというか、生霊的なもんがくっついてくる感じが気持ち悪い。」
藤井:「払ってやるよ!」
そう言って肩と背中をバンバン叩いた。
斎藤:「なんか理不尽に言いがかりつけられたよな。ちょっとやるせない。」
俺:「わかる。ちょっとそういうのとは違うから、巻き込まないでって思った。」
しばらくすると、さっきの女子たちも戻ってきた。 俺らを見つけても、さっと目をそらした。
気まずい。