111.フォルティシモとピアニッシモ——音に込める感情
午前中の基礎合奏の時間は、欠席者が多かった。
3年生は塾の夏期講習や、学校見学、説明会、体験会などが入っているらしい。
他の学年でも、体調不良で休む人や病院へ行く人、遅刻する人がいる。
絵馬先輩も体調不良で寝込んでしまったとのことだった。
分かる。 連日の練習で、精神が削られ、体力が持たない。
——休んでよかったんじゃないか?俺も休めばよかった。
ホルン、一人…。
正直、気が重く、体もしんどい。
「気を引き締めてやらなきゃ」とは思うけれど…。
ただ一人、白川先輩だけは、滅茶苦茶元気だった。
「サックスが吹けるんだ。俺の今の生きる道よぉ!」
…。
何だか、やたらまぶしく見える。
昨日、内田先生に1時間以上立ったまま集中砲火を浴びたはずなのに、 何事もなかったように、むしろ昨日より元気な音を鳴らしている。
——何者なんだろう?
練習方針の変更——セクション練習?
今日は山田先輩も船田先輩もいない。
そういえば、副部長って誰なんだろう?
いつも仕切ってくれる先輩がいない時って、どうするんだ?
音出しをしながら考えていると、内田先生が入ってきた。
「今日と明日、欠席者が多い。
そのため、午後は合奏ではなくセクション練習にする。
明日は午前中基礎練のみで、午後から休みとする。
明後日は、午後1時から音楽室入室とする。
各自、体調を整えること。
なお、セクション練習の予定は昼休みにホワイトボードに書いておくので、 それを見て動くように。」
「はい!」と返事はしたけど——
——セクション練習って何?
みんな分かってるのか?
基礎練習——音量を出すことの重要性
内田先生が基礎練習を始める。
いつもは山田先輩や船田先輩が仕切るが、今日は2人とも休んでいる。
指揮台の上に椅子を置き、そこへ座ると、 ハーモニーディレクターのメトロノームを鳴らした。
「全員、フォルティシモで基礎合奏。
昨日の体育館練習では、音が全く響いていなかった。
まず音量が出せていない。楽器が鳴っていないんだ。
もっと吹き込め、鳴らせ。
今日の午前中は、それを集中してやる。
息を吸え、思いっきり吹き込め。
一番息が通るアンブシャーにしろ。」
「はい!」という返事とともに、楽器を構える。
内田先生の「3、4」に続いて音を出す——
1小節も待たずに、ストップがかかった。
「それがフォルティシモか?
試しに、ピアニッシモでやってみろ。
3、4。」
音を出すと、また1小節も待たずにストップがかかる。
「ピアニッシモの意味は?鈴木!」
急に指名されて、びっくりした。
「超弱く、です。」
内田先生が、一瞬凍った。
「そうだな。じゃあフォルティシモは?黒沢!」
黒沢は食い気味に答える。
「超強く!です!」
「ボケを重ねられるとは…まあ間違っちゃいないんだが…。」
ボケ?
強弱の本質を知る——音楽の表現力
内田先生はタブレットを取り出し、プロジェクターにつなぐ。
強弱記号の一覧が表示される。
pp − pianissimo − ピアニッシモ − 非常に弱く
p − piano − ピアノ − 弱く
mp − mezzo piano − メゾピアノ − やや弱く
mf − mezzo forte − メゾフォルテ − やや強く
f − forte − フォルテ − 強く
ff − fortissimo − フォルティッシモ − 非常に強く
「上から下に行くにつれて強くなる。
コンクールで演奏する曲には、この強弱記号が全部出てくる。
その意味を考えて演奏するんだ。
今、フォルティシモとピアニッシモのつもりで音を出しただろうが、 実際にはメゾピアノとメゾフォルテ程度の幅しかない。
狭すぎる。」
——まじか…。
内田先生はピアノへ向かい、座った。
「例えば、ベートーヴェンの『運命』。 これがもし、力が足りなくてピアニッシモだったら——」
ピアノで弾き始める。
静かすぎて、物足りない?
「本来は、これだ。」
弾き始めると、圧倒的な迫力。 音の圧に飲まれるような感覚。
フォルティシモとピアニッシモの違い——思っていたより深い。
「逆に静かな曲、一青窈の『ハナミズキ』。
これ、いきなりフォルティシモで始まるか?
そしたらサビ、どうする?」
ピアノのイントロを静かに弾き始める。
——優しい。
突然、荒々しく弾き始めた。
「これでサビまで行くと、どうなる?」
さらに荒々しくなる。
——違う、これは違う。
「これぐらい意味を持つものなんだ。
ただの強弱じゃない。
ピアニッシモは、ただ弱いだけじゃない。 繊細、静寂、神秘、切なさ、祈り——そんな感情を伝える時に使われる。
フォルティシモは、ただ強いだけじゃない。 高揚、興奮、勝利、達成、圧、解放——そんな感情を表現するために使われる。
おのれらは、フォルテだから強く、ピアノだから弱く—— その程度の浅い考えでしか演奏していない。
心が伴っていない、って突っ込まれるのは、そういうところだ。」
内田先生はタブレットを外し、指揮台へ戻ってきた。
「もっと出せる。フォルティシモでもう一回!」
「はい!」
楽器を構え直す。
内田先生の「3、4」の合図で入る。
——音が割れた。
俺だけじゃない。
トランペットもトロンボーンも、バリバリという音になっている。
「もっと出るだろうが!吹けーー!」
楽器の集団より、内田先生の声の方が大きいことに驚く。
息を吸い、思いっきりホルンへ吹き込む。
「楽器の奥まで空気を通せ!」
——思いっきり吸って、吹き込む。
最後の小節が終わると、全員が息切れしていた。
「もう1回!音が割れても出せ! 割れるくらい音を出せなかったら、そこから磨く音にもならん!
息を太く、強く、スピード速く出せ!」
「はい!」
合図とともに、吹き始める。
すぐ息切れする。
だけど、これまでになかった音がする。
多分、まだ使い物にならない音なんだろうけど、 これが「楽器が鳴る」っていうことなのかもしれない。
最後の小節を吹き終えた瞬間、 二酸化炭素濃度計が鳴る。
いつもより早い。
「30分休憩。」
内田先生はそう言って、音楽室を出ていった。
俺はつば抜きをしてから、廊下へ出る。
——空気が新鮮。
みんなで息を吸って吐いていたら、そりゃ、こうもなるわな。
窓と戸を全開にして、廊下へ出る。
白川先輩、まさかの外ランニング
「俺、学校外走ってくる。」
そう言って、白川先輩は靴を履き替え、学校の外へと走っていった。
俺はいつもの階段の踊り場で寝転がる。
エアコンがなくても、風が通る。
…とはいえ、ドライヤーの温風のような暑さだ。
「あ、いたいた。」
いつもの1年男子4人が、踊り場に輪になって座る。
セクション練習って?
そういえば…。
「セクション練習って何だ?」
俺が聞くと、齋藤が答えた。
「同じパートや、同じ演奏する楽器同士で合わせることだよ。」
いまいちピンとこなかった俺に、藤井が補足する。
「例えば、オブリガートとか、合奏中にホルンとサックスで同じフレーズがよくあるだろ?
そういうこと。
楽譜上で同じ演奏をする楽器だけで合わせる練習をするんだ。
あと、金管だけ、木管だけって分けて練習することもある。
合奏を要素ごとに分けて、完成度を高めるんだよ。」
——なるほど、そういうことか。
演奏後の礼の謎
あと、昨日から疑問に思ってたこと——
「演奏の前後ってさ、内田先生だけがお辞儀してるよな? 俺らってしないの?」
黒沢が答える。
「俺も気になって、前に先輩に聞いたんだ。 確か山田先輩だったかな?
そしたら、 『指揮者が責任者だから、代表して礼をするんだよ』って。
確かに納得したのと、 楽器を持ったまま舞台上でお辞儀するのって、結構リスキーなんだよ。
楽器をぶつけたり、譜面を落としたり、 バランス崩して転ぶ可能性だってあるしな。」
——おお、納得。
確かに、演奏後なんて、立ち上がるので精一杯かもしれない。
昨日の公開リハーサルでも、疲れ切った。 その後、合奏して掃除して楽器運んで——。
そりゃ、体調不良続出するわけだ。
白川先輩、廊下で汗まみれの帰還
「ぐあー!あちー!」
声のする方を見ると、白川先輩が汗だくで真っ赤な顔をして入ってきた。
水道で頭と顔を洗い、Tシャツを脱ぎ、 それで頭と顔を拭き、冷水器で水をごくごくと飲んでいる。
——何であの先輩、あんな元気なんだ?
こんな暑い中、走るなんて、 もはや「あたおか」の所業だろ。
今日、危険指数が高くて、屋外での運動は禁止だったはずだが——。
内田先生、白川先輩を捕まえる
上半身裸で廊下を歩いている白川先輩を、 内田先生が見つける。
「白川!何て格好してるんだ!」
「ちょっと外走ってきたら、汗で——。」
そう言ってTシャツを絞ると、水がしたたり落ちる。
——あの水、汗だけじゃない…。
「絞るな!すぐ廊下拭いとけ! 替えのTシャツ持ってるんだろうな?」
「いえ?」
「いえ?じゃねえ!どうするつもりだ?」
「暑いし、この感じで。
そうすれば、腹式呼吸も見えるから、練習の効果が分かりやすくないですか?」
「暑い中走ってくるから、脳みそ蒸発したな、おのれは。待っとれ。」
内田先生はそう言って職員室へ向かった。
1年男子5人で白川先輩のもとへ近づく。
斎藤が心配そうに尋ねる。
「なんで走ってきたんですか? 今日みたいな日は、外で運動すると体調崩しちゃいますよ。」
白川先輩は息を整えながら答える。
「いつもはもっと走ってるんだよ。
走るリズムに合わせて呼吸すると気持ちいいし、適度に体のコリがほぐれるんだ。
サックスって首回りや肩がすごく凝るんだよな。 肩を回したりストレッチするだけじゃ足りなくて、 体全体の血液を回したほうがコリが取れる。
慢性化すると、むくんだり太ったり、動きが鈍くなったりするからさ。 全てはサックス、そしてコンクールのためよ。」
…やっぱり、まぶしい。
さりげなく気配りをする仲間たち
さっき白川先輩が廊下で絞った汗と水を、 小松と藤井がトイレからペーパータオルを持ってきて、 きれいに拭き取る。
その後、トイレに戻し、ペーパータオルを捨て、手を洗って戻ってきた。
こういう、察知して動けるところってすごいな…。
「おお、ごめん、ありがとう。」
気づいてくれた白川先輩が、素直にお礼を言う。
そこへ内田先生が戻ってくる。
「これ着とけ。」
渡されたのは白いTシャツだった。
「ありがとうございます!」
白川先輩は、すぐにそれを着る。
真っ白いTシャツ…と思ったら、袖に小さい文字で 「態度はff・心はpp」 と書かれている。
1年男子たちは思わずフッと笑ってしまう。
白川先輩も袖を確認し、内田先生に尋ねる。
「これ、どこで手に入れるんですか?まさか作ったんすか?」
「どこかのスタッフTシャツをもらった。余り物みたいだな。
ぱっと見は分からないだろうけど、校則違反だから、帰りはちゃんと体操着を着て帰れ。
外干ししておけば、今日なら1時間程度で乾くだろう。」
「はーい。」
そう返事をし、音楽室へ戻っていった。
アイス休憩——わずか10分の回復時間
濃度計の数値が平常に戻っていたので、窓とドアを閉め、 エアコンをつけると、体の熱がすーっと引いていく。
内田先生が言う。
「今から10分以内でアイスを食えるか?」
気合の入った「はい!」という返事が響く。
「練習中も、そのくらい気合の入った返事をするように。
まあ、パートリーダー、いなければ、そのパートの一番先輩が人数分取りに来い。」
音楽準備室にある冷凍庫。 コンクールまでの、お付き合い。
俺はチョコアイスを選んで食べる。
——なんて美味しいんだ。
コンビニでよく見るアイスなのに、 音楽室で食べると、こんなにも美味しく感じるのか。
5分もかからず、平らげる。 ごみを捨て、うがいをして、音出しをする。
アイス1個で元気になった。
昨日も途中でアイス休憩を入れていたら、 今日こんなに体調を崩す人はいなかったかもしれない。
せめて、間食を取りたいよな…。 体が持たねえ。




