106.アイスと音楽 ー張り詰めた空間を緩める魔法ー
午後の練習が始まった。
長時間の練習になるため、30分ごとに10~15分程度の休憩を強制的に取ることになった。
どうやら、二酸化炭素濃度計が鳴る前に換気するための措置らしい。
たしかに、長時間の練習を続けていると、集中力が切れたり体力が消耗したりする。
集中砲火を浴びた後の休憩ほど、ありがたいものはない。
しかし、そんなことが本当にできるのだろうか?
練習とは、集中力を鍛えたり、長時間の緊張感に耐えるためのものだと解釈していた。
合奏練習に入ると、松下さんが言った。
「課題曲は『月と姫』。 この吹奏楽部では“かぐや姫”として表現する、と聞いたよ。 ホルンにいたあの子は、かぐや姫だったのかな…。」
のぞみ先輩のことだ。
突然、会えなくなった。
ホルンの親代わりのような存在だった。
技術はもちろん、精神的にも支えてくれた。
まるで、置き去りにされたかぐや姫を思う、おじいちゃんとおばあちゃんの気持ちのようだ。
急に去られても、吹部の活動は続いていく。
事情から察するに、もう二度と会えないのだろう。
なんとも言えず、しんどい。
松下さんは続けた。
「過去、急に離れてしまった人がいるんじゃないかな?
保育園や幼稚園時代の記憶の中で、毎日会うのが当たり前だったのに、いつの間にか会えなくなった人が。
そんな時の感情でもいいし、 逆に、かぐや姫側の立場になって考えてみてもいい。
どうしてもそのコミュニティから離れなければならなくなった時の辛さ、 悲しみ、無力感…。
その感情を、音に乗せてほしい。
ネガティブな感情だからといって、気分が落ちるわけではない。 音楽へのモチベーションは維持するんだよ。
感情のバランスが乱れるかもしれないけれど、 それも含めて音楽であり、コンクールなんだ。
感情も冷静さもフル稼働させること。
続いて自由曲。
これは、前に音楽的な背景を説明したと思うけど、
“どうしようもない長いものに巻かれそうになっているけど、 『自分はこれがやりたいんだ!』”という気持ちが込められている。
必ず、その感情のスイッチを入れてほしい。」
部員たちは「はい」と返事をした。
「さて、課題曲。」
松下さんは指揮台に立ち、指揮棒を構える。
この日は一日、響きを確認しながらの合奏となった。
1回も通すことなく、ソロやソリを抜きながら、セクションごとに演奏した。
また、全体で音を重ねる部分を徹底的に練習し、
「音を重ねる感覚」
を身につけていった。
意識して聴いていると、不思議なものだ。
トランペットのハーモニーのところで、ようやく3パート以外の音がかすかに鳴っているのが聴こえた気がした。
これが“響き”というものなのだろうか?
しかし、ホルンでは聴き取れないのはどういうことだろう?
絵馬先輩は聴き取れていると言っていた。
自分が楽器を鳴らせていないせいだろうか?
気づいたことがある。
響きを意識するだけで、人数がもっと多くいるような感覚になる。 パワーや厚みが増すのだ。
今までは、チューナーで音程を合わせて演奏すれば、それで十分だと思っていた。
しかし、さらにその上のレベルがあるらしい。
やること、できるようにならなければならないことは、どれくらいあるのだろう?
ついていけるのだろうか?
今の時点ですでに、かなり大変だ…。
30分ごとにタイマーが鳴る。 鳴るたびに、窓と出入口を全開にする。
張り詰めた神経が限界に近づいてきた頃に、タイマーが鳴る。
もはや、タイマーは精神的限界測定装置なのでは?
そう思うのは、俺だけなのだろうか。
15分の休憩後、窓と出入口を閉める。 すると、内田先生が廊下側の窓のカーテンまで閉めた。
「チョコ、もしくはバニラのアイスがある。
アレルギー対応なので、全員同じものを食べてOKだ。
ただし、喧嘩したら二度とアイスの差し入れはしない。
約束できるか?」
部員たちは満面の笑顔で
「はい!」
と返事をした。
「先日のお前らのブレストで、“冷蔵庫”や“アイス”っていう意見が出ていたな。
音楽準備室にコンクールまで限定で、おやつ専用の冷蔵庫をレンタルした。
ただ、学校でアイスを食べることは、他の部員や先生の許可を得るのが難しい。
だから約束してほしい。
ゴミはこのビニール袋に必ず捨てること。 床に落とした場合は、跡形もなく綺麗に掃除すること。 今のようにカーテンを閉めた音楽室内で食べること。 食べ終わったらうがいをして、それから楽器を吹くこと。 できるか?」
部員たちは、先ほどより元気な声で返事をする。
「よし、パートリーダー、取りに来い。」
パートリーダーたちは、さっと音楽準備室へ向かった。
音楽準備室の中から歓声が上がった。
「おお!」
「こんなところに!」
「いつの間に?」
「ぎっしり詰まってる!」
絵馬先輩が、カップ入りのチョコとバニラのアイスを1つずつ持ってきた。
「たくみん、どっちがいい?」
「俺、両方好きだから、絵馬先輩の好きな方どうぞ。」
「じゃあ、私はバニラ。」
「あ、じゃあ、チョコいただきますね。」
ふと見ると、内田先生と松下さんもアイスを食べていた。
コンビニでよく見かけるアイスなのに、音楽室で食べるとなぜか特別に美味しく感じる。
さっきまで緊張感で張り詰めていた空間と人が、一気にお祭りの屋台のような雰囲気になった。
ブレストのとき、「アイス」と言ってくれた人、誰だろう?
天才じゃん。ありがとう。
毎日じゃなくても、たまにこういう時間があるのはいいな。
自然と笑顔になる。
アイスのカップと使い捨てのスプーンをゴミ袋へ。
全員が食べ終えたのを確認し、順番に手洗い場でうがいをして、音楽室へ戻る。
内田先生は、ゴミの入ったビニール袋をさらにエコバッグに入れた。
「他に見つかると面倒なことになるからな。 教室の床にゴミが落ちていないかチェックしろ。 アイスのゴミは音楽室のゴミ箱ではなく、こっちに持ってきて。」
部員全員が床を確認し、何も落ちていないことを確かめる。
内田先生はカーテンを開け、吹き向きざまに言った。
「いつまでも、あると思うな、アイスクリーム。
気が向いたら何かあるかもしれないが、普通はないと思っとけ。」
その言葉に部員たちは苦笑する。
松下さんが指揮台の上に座り、静かに言った。
「さて、続きをやります。」
行き詰っていた感覚が、アイス1個で消え去る。
割と単純なものだな。




