105.指揮を見て、楽譜を超える
朝の基礎合奏から、松下さんのレッスンが始まった。
普段の先輩や先生が仕切るレッスンよりも、細かく具体的な指示が入る。
昨日ホルンで行った内容と同じことを、各パート、または音域別、ポジション別で進める形だった。
パート別の練習では、ホルンはすでに対応済みということで、飛ばされた。
俺は聴いても、やはり音の響きがよくわからない。
でも、わかる人はわかるみたいで、それもほとんどの部員が理解している様子だった。
これが「才能」ってやつなんだろうか。
全体で合わせたとき、なんとなくだが、音量が大きくなったように感じた。
響きを意識した成果なのかもしれない。
でも、聴こえて、理解して、実際にできるかというと…自信がない。
基礎合奏レッスンは録画されていた。
途中経過として、最初の「いつもの基礎合奏」と、松下さんのレッスンを受けた後の「基礎合奏」を聴き比べることになった。
たった2時間ちょっとでこんなに変わる?
演奏しているメンバーが違うかのような変化だった。
意識して演奏することが増えるだけで、こんなにも変わるものなのか。
今まで、基礎合奏は楽器演奏の“ランニング”のようなものだと思っていた。
体力をつけるための演奏バージョン、みたいなものだと。
完全に勘違いしていたようだ。
基礎合奏が、もはや舞台で演奏できるレベルの仕上がりになっていた。
松下さんは、おだやかに言う。
「普段の基礎合奏は、ただ楽譜に書かれていることを正確に演奏するだけではなく、もっと上を目指してほしい。
音が響いているか? ふくらみを持っているか? 温かい音になっているか?
気持ちを込め、それが音として伝わっているか?
それが、人が演奏をする価値になってくる。
今やコンピューターでほとんどの音が再現できる時代。
音楽ソフトや共有サイトを使えば、高度な技術を要求される曲でも簡単に“音楽”として世に出せる。
だからこそ、人がやるべきことは、人にしかできないこと。
感情を乗せる、音を合わせる、個性を音に変換する、それを合奏でまとめていく。
それが、この吹奏楽部の個性になる。」
部員たちは「はい」と返事をした。
何度も思うが、わかって返事をするのと、実際にできるようになるのとでは、だいぶ距離がある。
言い方は優しいが、かなり厳しいことを言われている。
内田先生とは違った“怖さ”と緊張感がある。
松下さんは、続ける。
「もう一回、頭から。
今度は少しずつ表現を加えて。
上がる音はクレッシェンド、下がる音はデクレシェンド。
音はすべてマルカート。
その他のニュアンスは指揮を見て判断して。
毎日やってるから、もう暗譜してるよね?」
暗譜…?
毎日見ていたとはいえ、意識していなかったので覚えていない。
急に「覚えている前提」で言われても、正直動揺する。
なんとなく指は動くが、不安が拭えない。
ただ、怖い。
いつもの基礎合奏でも、指揮を見なくてはいけない。
譜面と指揮の間で、目を往復させる。
松下さんは、目や手でさまざまな合図を送ってくる。
ブレスのタイミング、入りのタイミング、表情、音量の変化。
…なんだか、とても楽しい。
いつもやっていた基礎合奏って、こういうものだったんだ。
2回、3回と繰り返すうちに、気持ちがどんどん高ぶっていった。
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ふと、松下さんが問いかけた。
「前に感情解放レッスンをやったよね?
その時の楽しかったこと、今思い出せる?
思い出せなかったら、最近楽しかったことを思い出して。」
最近楽しかったこと…。
花火大会の日に、藤井の家でお泊まりしたことかな。
雨で花火は見れなかったけど、みんなで課題をやったりして楽しかった。
すると、松下さんが指揮棒を構え、指揮を始める。
「はい、その“楽しかった”という感情で、基礎合奏。」
楽器を構えて、指揮に合わせて息を吹き込む。
楽しいという感覚の中、指揮に夢中になり、気づけば演奏が終わっていた。
「うん、だいぶ良くなったね。
今だから言うけど、今朝一番の合奏は、本当に金賞の学校か?
と思うほど、どうでもいい演奏だった。
音は出ているけど、それだけ。
基礎合奏は練習じゃない。曲として仕上げるものなんだよ。
当たり前のことだけどね。」
部員は「はい」と返事をした。
初めて知る考え方だった。
自分は、だいぶ低いレベルで、もがいていただけだったのかもしれない。
先輩たちは、コンクールを経験していたから、こういうことが“当たり前”だったんだろうか?
あっという間に、基礎合奏が終わった。
短い昼休憩を挟み、午後はコンクール曲の練習に入る。




