101.泣いて、ぼやいて、前に進む
進んだのは、途中10分程度の休憩を挟みながら、課題曲の頭から8小節程度までだった。
この先、この調子で間に合うのだろうか——。
足を引っ張っているのが自分だと、嫌でも自覚させられる。
体操着のTシャツの袖で涙を拭きながら、楽器のつば抜きをしていると、左側の絵馬先輩が、ティッシュを差し出してきた。
「たくみん、すごい顔になっちゃったねえ。」
「あじゃっ…ざ、だ、で…。」
ありがとうございます、と言いたかったが、うまく言えない。
絵馬先輩の後ろから、白川先輩が顔をのぞかせる。
「鈴木、すごい顔になってるぞ。
えらいのは、泣きながらでも、ちゃんと楽器のつば抜きをして、オイル差しをしているところ。
てか、泣き声、独特なんだな……。
吐く前のおっさんがいるのかと思ったら、鈴木か、って思ったわ。」
「俺の顔は、おっさんなんですか?」
と聞くと——白川先輩は笑いながら、首を振る。
「顔じゃねーよ。泣き声が、吐く前のおっさんみたいだって。」
続けて言う。
「合奏中の個人への集中は、どこの学校の吹部でもあることだし、俺らもそれを経験して3年になってるからよ。
鈴木、今は辛いかもしれないけど——3年になったら、大爆笑できるから大丈夫だ。」
……。
「……白川先輩は、今俺を見て、大爆笑してると……?」
白川先輩は爆笑しながら、手を叩く。
「違うわ!
泣きながら、そんな返しをしてくるやつ初めて見たわ。
俺も1年の時、内田先生の合奏がしんどくて泣いてたな。
すばる先輩とか駒井先輩に、帰り道で、よく愚痴ってたなーって。
あん時の俺に爆笑してんの。
鈴木もそうなるから、この先楽しみにしとけ。」
「俺はもう、明日が辛い……。」
と言うと、いちいち白川先輩は爆笑する。
「わかりすぎて、もうウケる。
まだ、あるだろ? 思ってること。言ってみ?」
泣きながら愚痴る。
「内田先生、すげー怖い。
あんなに怒る必要ねーよ。カルシウム足りてない。
小魚食べてほしい。
額にあんな血管って浮きます?
マンガの怒った表現で額に青筋が書かれてるけど、本当にあれ通りじゃん。
あそこちょっと針さしただけで、ぴゅーって出てきますよ、きっと。
あと、あの叩くと音が出る白い棒みたいなやつ——。
あれ持つなら、面白い話を期待しちゃうのに、怪談より怖い、お化け屋敷より怖い。
あれ何なんですか?」
白川先輩は爆笑しながら、肩を揺らす。
「鈴木、愚痴や悪口が独特だな。」
すると、絵馬先輩も笑いながら、言った。
「もう、ぼやきです、これは。
たくみんにこんな才能があったとは。」
「ぼやきとかじゃないですよ!
音楽室で合奏中に命の危険を感じるとか、尋常じゃないですよ!
先輩方、麻痺してません?
あの白い棒が、いつ自分の頭の上に振り落とされるかと思うと、怖すぎるんですよ。」
ずっと涙が止まらない。
絵馬先輩と白川先輩は爆笑しながら、ツッコむ。
絵馬先輩:「かもしれないね。顔!目からも鼻からもすごいよ。」
白川先輩:「鈴木、大丈夫だ!
泣いて、ぼやきながら——きっちりつば抜きとオイル差しと楽器磨きをしている、その姿が今、面白くてたまらない。」
「何が大丈夫で、面白いんですか?」
白川先輩はさらに笑いながら——
「いちいち反論してくるのが、もはやツボ。
小学3年生ぐらいに見えるぞ。」
前にいたオーボエの斉藤が楽器を置き—— 自分の水筒のコップに水を汲んで渡してくれた。
受け取って、飲み干し——ありがとう、と返す。
すると、その瞬間、また涙が出続ける。
白川先輩:「うわー、飲んだそばから水分出るじゃん!
口から目につながってるの?」
白川先輩の笑いが止まらない。
俺の涙も止まらない。
斉藤は、またコップに水を汲んで渡してくれた。
そばに来て、手のひらで背中をトントン、と優しく叩いた。
それもまた、何かのスイッチが入ったのか—— 涙が止まらない。
斉藤:「水入れて、背中押すと、目と鼻から水が出る。」
俺:「おもちゃじゃない!」
白川先輩:「なんか3歳児ぐらいに見えてきた。」
俺:「13だよ!」
周りは笑うが——俺は涙が止まらない。
落ち着くまで、30分かかった。
ただ、これが思ったより効果があったらしく—— 不思議と
「よし、明日はまた頑張ろう。」と思えた。
下手に「頑張れ」とか「泣くなよ」とか慰められるより、ただ、そばにいてくれたり、泣きたいだけ泣かせてくれたり—— 水が、しみたなあ……と思ったり。
気持ちが張り詰めて、いっぱいいっぱいだったところから、泣いて緩んだら、自然と人が見えてきたりする。
帰り道には、気分がさっぱりしていた。