Episode-53
太陽が梢よりも下に落ちて蜂蜜色の陽光を野営地に投げかけている。多くの小屋の蔀戸が突っ張り棒で開けられ、その間から琥珀色の灯りが洩れている。広場には一人も歩いていない。時折、一つの小屋から賑やかに笑う男たちの太い声が聞こえては止み、また唐突に広場に響いた。いくつかの小屋の細い鉄製の煙突からは煙が立ち昇っていた。女達が夕食の準備に勤しんでいるのだろう。
一際大きく、横長の木造の浴場小屋からは、屋根と壁のつなぎ目のところが空間になっていて、そこから湯気がもくもくと上がっている。男たちの笑い声が聞こえてくる。探索から帰った者たちが体を流しているに違いない。
小屋の中に入ると暖かな空気の壁がシーナを呑み込んだ。暖かい空間に入った途端、心は舞台から降りたように落ち着いた。
皮のマントを脱ぎ、鞄を置くと、アリーチェが野菜と肉の炒め物をよそった皿を二人に手渡してきた。唾を飲み込む音が聞こえた。やだ! わたし、無意識に唾を飲み込んでたみたい。
お礼を言いながらシーナとアダーツィは皿を受け取る。もう一つよそわれた皿をから察するに、アリーチェは二人を待ってくれていたらしい。
三人は取り止めのない話をいくつかした。浴場の配管が詰まって野営地の半分が水浸しになったとか、ピンが伝書鳩の一羽を間違えて料理してしまったとか、西のもう一つの野営地からの連絡で、盗賊の動きが規則性のない不審なものになってきたなどだ。最後の盗賊の話を聞いて、アダーツィは意を決したように真剣な表情で話し始める。
その内容は、シーナの杖を捜索しに行った時に盗み聞いた盗賊の会話の一部だった。盗賊達が何かの〝投票〟を行おうとしていること、そのうちの一人の候補として名前が挙がっているのが〝ジェミー〟という男だということ。
話終わったアダーツィに対して、アリーチェはそのことを西の野営地には伝えたのかと訊いた。アダーツィはその質問に心外だと言わんばかりに眉をあげ、もちろんさと手を広げた。
それでも、アリーチェはアダーツィ自らが詳細に伝えるべきだと言った。アダーツィはわずかに考えを巡らせたが、アリーチェがその説明をしようとすると、わかってるってと手を振って遮って、翌日出発することを約束し、話題をシーナの魔法の練習へと変えた。アリーチェも興味があるようで、匙を運ぶ手を止めてシーナの方を見た。
シーナは水の魔法のことを話した。驚くことに、顕現させた水の魔法は、どちらかというと神秘に近いということだった。魔法使いの杖の宝珠に施されているのは魔紋の他に秘紋もあるとアリーチェは説明した。
秘紋は魔紋のように型の決まったものを顕現させるのではなく、利用者のオルスと想像力が大きく作用する秘紋だ。秘紋の利点は、扱う者の能力を最大限に活かせることだが、それは逆に全く使い物にならない可能性もあるということだ。秘紋の能力に近いことをできたということは、神秘に近いことを成したということだ。シーナは心をわずかに高揚させる。
だが、アリーチェは鋭さが込められた声でシーナの行いをたしなめた。なぜ岩に当てようとしたのか? なぜ攻撃的な技をしようとするのかと。
竃の火で暖かさに包まれた部屋の中で、シーナは自問した。なぜだろう? 身を守るため?
物語に出てくる魔法使いは賢人として神妙な言葉で物事の本質を伝えたり、時に人を守るために大いなる力を振るった。楽しい場面はいつも戦闘の場面だった。一番お気に入りの本――『アルムシア伝記』の〈アルムシア〉は自らが剣をとり、盾を持ち運命を這い上がり切り拓いていった。本の中の、文字としてしか存在しない〈アルムシア〉はいつも戦っていた。それに感化されすぎて、他者を傷つけるような技を平気で、気付かないうちに、それも遊びのように修行をしていたのかもしれないわ。
シーナは愕然として自らを恥じ、アリーチェの岩のように冷たい目から逃れるように俯いた。
その部屋の重い空気に耐えかねたアダーツィが短く鼻をすすった。
「まぁ、でも。力は必要だと思うし、盗賊もいるしさ。俺が盗賊の怖さを何度も話してたし、無意識にそうなったんじゃないかな」
「あなたはわかってないのよアダーツィ」
「神秘の扱い方の一つも教えてくれないんじゃわかるはずもないさ」
アダーツィの強い物言いに、アリーチェは深くため息を吐いて目を瞑った。まるで何百回と繰り返したやりとりに疲れたような仕草だ。
その夜は、三人ともがそれぞれに違う行動をして過ごした。アリーチェは夜の帳が下りているのにもかかわらず、毛皮のマントを羽織り外に出て行った。アダーツィは気がかりな目を向けたが、すぐにシーナから借り受けている『魔の書』に目を戻した。シーナは魔法使いから借りている杖を握りしめたまま寝台に横たわり、いくつもの思いを頭の中に雲のように浮かべ、考えることもなくただその雲を眺めていた。




