Episode-51
まだ日が昇り始めて間もない頃、シーナは朝食を済ませて、パンやチーズを包んだ包みを入れた荷物を持って小屋をでた。
いくつかの小屋から登る湯気が空気を漂い、静かに太陽の光を反射させている。右手に握られた魔法使いの杖はその薄い陽光に照らされ、どこか隠居した老人のような静けさを漂わせていた。
東の森なら比較的安全だという話だったため、シーナは東へ歩を進めた。安全と言っても、盗賊が東にはいないということだけで、どんな獣がいるかはわからない。アリーチェやアダーツィの話では、一星間ほど進んだあたりから森の様子が変わるらしい。アダーツィは何か違和感を感じる程度らしいのだが、アリーチェは違った。霊獣の痕跡を感じたのだ。霊獣は神秘を操る動物で、幻想的な美しさを持つものから、おぞましく邪悪そのものと思わせる姿かたちをするものもいるという。それでも、今から向かう人気のない川岸は、霊獣がすむ森――〈霊樹の森〉からは程遠いため安全ということだった。
森の様子は日に日に変わっていた。太陽の光は未だに弱いが、風が肌を優しく撫でる絹のような優しさを持ち始めていた。時折強く吹く冷たい風は、まだ風の季の銀風星が去っていないことを思い出させたが、ここ数日は雪も降っていない。もう間も無く来風星がやってくる。
村を出てから土の季を越え、風の季に入ってから一つ星も終わろうとしている。普段なら五つ星などあっという間に過ぎ去ったのに、振り返ってみると濃いものだった。厳しくも美しい自然に心を清められ、自分という小さな檻から出ることができた。こうして自分の運命を受け入れることを幸せに感じている。何もない自分だが、これからだ。この新天地で新たに自分を築くのだ。
生きてみせる。
シーナは一度生きることを諦め、死に心を委ねた時のことを思い出し、身震いするとともに、生まれたばかりの信念を強く抱きしめた。
色々な思考を編んだり解いたりしながら歩いていると、木立が切れて川岸に出た。大して広い川ではないが、渡るのには苦労しそうな幅で、腰くらいまでの深さがありそうだ。岸には大きめの岩が転がっているが、渓流にある岩のようになめらかではなく、ごつごつとしたものが点在しているだけで、ほとんどの地面が灰色の礫で覆われている。ここなら修行に問題はないだろう。
シーナは『魔の書』を開いた。三元素の項目だ。それぞれ、火、水、風の魔紋が描かれている。
魔法使いの杖の宝珠を太陽の光にかざして、シーナは魔紋を探した。球体である宝珠を色々な角度に回して見て見たが、それらしいものは見つからなかった。
シーナはオルスを集めようと意識を集中させた。己のうちにある力を集めやすくするために、想像力をもって形を与える。今回は小さな光の粒を想像した。この想像は、カイザスモーンの暖炉の火の代わりとして置いてあった、地底種の動物であるリデ・バガンの心臓の中に流れていた光を見た時に思いついたことだった。火を想像するよりも形を捉えられ、清く、怒りに左右されないからだ。
想像で己の内にあるオルスを感じる。体全体に行き渡っている。それらをみぞおちあたりに、鼓動にあわせるかのように収縮させていく。たまっていくオルスは、拳ほどの輪郭もおぼろげな光の塊となった。それを両手で握る杖に押し付けるように、自らの内側から追い出すように送ると、杖の扉か何かが開いたかのように吸い込まれていった。自分を引き出されるかのような不快な感覚に襲われて体の力が一瞬抜けかけたが、唾を見込み気合いで乗り切る。
杖の宝珠は白く輝き、数多の魔紋を浮き立たせていた。『魔の書』で見た火、風、水の魔紋の全てが浮き出ていて、それ以外にも見たこともない装飾のような、流線の模様が宝珠全体にびっしりと現れている。
シーナは一陣の風を思い浮かべた。魔法使いと出会って間もない頃、魔法使いが落ち葉を武器のように舞わせたあの風を。
水面に向かって杖を左から右へ大きくなぎ払った。一拍遅れて水面を巻き上げる風が、左から右へと流れていく。さらに杖を左から右へと繰り返した。同じように風が駆け抜けて水面をさざめかせる。
杖から何かの感覚が消えたと感じ、宝珠に目をやると、浮きだっていた魔紋は消えて、透き通った元の姿へと戻っていた。オルスを吸われるように送り出した時に感じた自分の一部のような感覚もない。杖に送られたオルスが消えたのだと、そう悟った。魔法を連続させるなら、あの繋がりを保たなくてはならないのね。
シーナは再度自らの光を集めるように意識してオルスを集めると杖に送った。杖の宝珠が白く輝いている。今度は水の玉を意識して、大幅で五歩くらい離れた先にある一つの岩に狙いを定めて杖を向けた。
宝珠から光が離れて宙に留まり、想像よりも小さな拳ほどの水の玉に姿を変えていく。シーナは意識をその水の玉に集中させて、鮮明に水が浮かぶ様を想像する。もはや周りの風や音、光は感じられない。回転する水の玉が、杖の先――宝珠のほんの少し離れた宙に――浮いている。残されたわずかな力で、その水を押し出した。その意識に反応して、一瞬の遅れもなく水の玉は飛び出したが、岩に当たる前に砕けて、手ですくった水を投げたように散ってしまった。
息が荒くなっていることにシーナは驚いた。汗までかいている。魔法はこんなにも難しいものなのかと愕然とした。そして、呼吸も元どおりになり、興奮もおさまると、暑い中畑で長時間作業をした時のように頭痛がやってきた。まるで、水を飲んでいない時のように、頭が鼓動とともに膨張する感じだ。
魔法の練習を続ける気力がなくなり、一時間も経っていないのに荷物を纏めて体を休めた。隣を流れる川に目をやり、川の流れに乗って目線も流れていった。
この川はどこまで流れていくのかな。
ここから北へ川を下って行くと、西から東に渡って大きな河があるという。そこにつながっているに違いない。そしてその河づたいに都市があると言っていた。どんな都市だろう? 小さな町だってあるかもしれない。
頭痛は小さいものに変わり、動いても気にならない程度におさまると、好奇心が体を動かした。
少し、川沿いに下ってみよう。
ここが知らない土地だということを思い出すと、ただの森であっても心が躍った。何にも出くわさないかもしれないが、新たな出会いを信じて歩かずにはいられなかった。
シーナは石をいくつか積み上げて、戻ってきた時に西へ折れるための目印を作ると、北に向かって川沿いを下り始めた。と、シーナの右側に流れる川に水しぶきが上がった。左の森からアダーツィが出てきて、少し呆れた顔で立ち止まってシーナを見ている。
「不用心すぎるよ。いくら魔法が使えるからって。一緒に行くよ」
「ごめん……。でも、一人でも大丈夫だわ。森を歩くのは慣れたし」
「そうかい? じゃあ、あの木の名前は? ここら辺に生える草をどの獣が食べるか、その獣をどの獣が狩るか、ほら、あの木を見て。爪で引っ掻いた跡だ。昨星にはなかった。土の季はもうすぐ終わる。ありとあらゆる動物たちが動き始めるんだ。その爪の主はもう動き始めてるみたいだけどね」
「目印もつけたし、迷わずに帰ることぐらいはできるわ」
シーナは少し尖った言い方をしたが、アダーツィはすまなそうな顔をして謝った。
「ごめん。でも、盗賊がいたらって心配になって。今日は少し南東に行ったところで盗賊を見かけて探索をやめたんだ。それで小屋に戻ったら母さんからシーナが一人で外に出たって聞いたから、きたんだよ」
「そうなの……ありがとう」
シーナはそう言うと、残念そうに川の流れを見た。アダーツィは呆れた声で笑ったが、その顔には感心して楽しむような笑みを浮かべている。
「この先には滝があるんだ。そこまで大きくないけどね。行こうよ」
「でも、盗賊がいるんでしょう?」
「これがある」
アダーツィは背に斜めにかけた弓の弦を弾いて見せた。
二人は色々な大きさの石や岩が転がる川岸を歩いた。日が空のてっぺんに昇った頃、暖かな日差しのもとで昼食にした。あまり熟成させていない柔らかめのチーズと、硬い表面だが香りが豊かなパン、それにアダーツィが持ってきていた山羊乳を、せせらぐ川のほとりでぽつぽつと会話をしながら食べた。
それからしばらく進み、視線の先にある川が切れた。そこが滝の始まりで、高さは周りに生えるブナよりも高い。屋根裏付きの二階建ての家を縦に二つ並べてもすっぽり入りそうだ。
滝壺は白く泡立ち、そこに入ったものを二度と水面に浮き立たせることはない。滝壺の広さは家が一軒と、小さな中庭がすっぽりと埋まるほどで、大きくて滑らかな岩が囲んでいる。
アダーツィが腕を持って支えてくれた。その腕にすがるようにして下に落ちる滝を覗いてみる。足元がふわふわとした感覚をおび、滝底に吸い込まれそうになる。
「危ないよ」アダーツィは驚きに満ちた笑を含みながら腕を引く。
シーナは自分でもわからず笑った。
「ありがとう。アダーツィが引っ張ってくれなかったら、わたし落ちてたかも」
二人は乾いた岩の上に腰を下ろし、眼下に落ちる滝を見ながら色々な話をした。アダーツィは自らの国の話や、ピンとの思い出を語った。シーナが特に興味を持ったのは国の話だった。
アダーツィ達の母国プルッケルは、アルゲンレーテよりも西にある自由国家で、国民の半分以上が職人、それも芸術に秀でた職人が占めている国である。国の行政を行なっているのは職人ではなく、資源管理組合という組織で、猟団、探掘団、農団の三つが行政を執り行っている。都市のいたるところに意匠が施されていて、宿の酒場にでる杯の一つ一つにも贅沢な装飾が彫られ、お土産として買うものもいる。都市の家は、白い漆喰で覆われ、屋根は空さえ妬むほどの鮮やかな青色をしており、家の角の部分や柱は装飾として金色に塗られている。町の地面は均一に整えられた灰色の石畳がどこまでも続き、花壇には色とりどりの花が植えられ、人々の目と心に贅沢な安らぎを与える。そんな芸術の生きる都市プルッケルは、西だけでなく東の端にあるバルダス帝国にまで名前が知られ、芸術に於いて右に出る国はないと認められる栄えある国家だった。
シーナは話を聞いて、そんな町の姿を想像し、心を馳せた。幼き頃の宮殿の装飾はとうに忘れてしまった。金色と赤色の装飾は覚えているが、それ以外は全く思い出せない。白と青と金の国プルッケルのはさぞ美しいことだろう。織物はどんなものがあるのだろうか? どんな装飾を施すのだろうか? シーナは茫洋とした表情で遠くを見やった。




