Episode-4
陽が傾き始めてすでに三時間は経った空の下で、火の季の終わりである晩火星の涼しい風に吹かれながら、一人の初老の男が畑焼きをしている。
右手に持っているのは、年季の入った艶やかな黒い木の杖で、先端には絡まり合う枝の細工に包まれた宝珠を戴いている。その先端の赤黒く透き通った宝珠から炎が放たれ、本の中に出てくる地底に棲む魔獣が吐く火炎にも劣らないそれが、役目を終えて人生の終盤を歩む老人のようになった草木を無慈悲に灰にしていく。
男は見紛うことなき魔法使いの出で立ちをしており、頭に被っている帽子は、つばの出っ張りがやけに広い真っ黒なとんがり帽子で、着ている服は足元まであるこれまた真っ黒な長衣、金属類は一つも見られない天鵞絨のようになめらかな生地で仕立てられたそれらは、金色だが品の良さを感じさせる簡素な刺繍が施されており、朝日が昇ると同時に召使いが埃を払う宮殿にいたのなら、誰もが目に敬意を讃えるであろう高貴さを漂わせていただろう。
畑焼きなどに晒したならば、気が振るった、価値のわからぬ愚者などと、辞書が作れるほどの陰口を並べられたはずだ。だが、今は誰が見てもそれを口ずさむ者はいない。十年という放浪の旅によって裾は汚れ、繕われた場所は多く、とんがり帽子には皺が刻まれ、銀の皿のごとく真っ直ぐであったつばの部分は、骨なしのように波うっていた。
魔法使いにとって、十年の放浪は長いようで短いものであった。世界に存在する大抵の魔法使いは知識に貪欲であり、かつ己の欲する魔法の知識には飢えた犬が骨をしゃぶるがごとき執念を見せる。そしてこの魔法使いも例外ではなく、十年の時を己が欲する知識の探求にそそいだ。
魔法の根源を解き明かそうとする純粋な欲求は、火、風、水の自然元素を象る魔法をより深く調べることから始まった。魔法使いは火を操る魔法に優れた国の出であり、かの国にあの者ありと言わせしめる腕の持ち主だったため、火の魔法に於いては師と仰げる存在はいなかった。
ゆえにまず、水の魔法に秀でた南の隣国カリャクス王国へと向かった。魔法使いの育ったバーインス王国とは古くから同盟で結ばれた国であったが、獅子奮迅の勢いで他国を呑み込んでいった帝国に敗れて間もないころだったため、常人ならぬ冒険家が好むような不安と恐怖の中を行かなければなかった。それも、昔からの友の恩恵により全てを乗り切ることができたのだが。
カリャクス王国に数年滞在し、友から水の魔法の多くを学び、魔法使いは次に風の魔法を求めて最後の同盟国、シルヴィアンス王国へと向かった。
シルヴィアンス王国は帝国との争いに疲弊し、脅威は帝国に止まらず、野盗の一団にも手を余らせ、帝国に屈するのも最早時間の問題だった。そのような中であったため、魔法使いは思うように知識を集めることができなかった。
ここでもシルヴィアンスの友の力を借りる機会はあったが、戦争に加担することが条件であったために魔法使いはその申し出を断った。魔法使いは臆病であったからでも、戦うだけの力がなかったわけでもない。戦いを忌み嫌っていたからだ。以前は魔法使いも魔法を操り武勇と名声を誇り、国のため民のため、王のため、何よりも娘のために戦いに魂を注いだ。だが、娘を失い、怒り、憎悪、絶望の底なしの海で溺れ、国と王への忠誠と名誉、正義を見失った先に見出したのは、命の奪い合いの虚しさに、星なき夜空のごとく冷たい虚無の世界だった。ゆえに、魔法使いは戦いから身を退いた。
そうして、四つの季節が一廻りすることなくシルヴィアンス王国と戦から離れ、御国秘蔵の書物でしか語られない魔法に似た神秘という力と、さらなる知識を求めてモルゲンレーテ神秘教国があると言われている北を目指していた。
そして、魔法使いは北を目指すための物資調達のために、帝国の属国となった元バーインス王国領内の辺境の地にあるウッソンス村で仕事をこなしているのであった。
畑の一つの区間を焼き終わり、杖を地面に突き立てると、とんがり帽子を外すことなく、皺が深くなってきた顔を手の甲で拭い、皮袋から水を飲んだ。一呼吸おいて最後の畑に移ると、先程と同じ魔法で焼き払っていく。触れる炎に焼かれ、平和になびいていた草は、苦しみに捩れるように無残に萎れていく。その姿は、昔手にかけた者達を思い出させ、魔法使いの気を沈ませた。
「あの、こんにちは!」
背後から投げられた、高く透き通る若々しい声によって魔法使いは虚を突かれたが、肩越しにその声の方を一瞥しただけで、返事もせずに魔法を使い続けた。
魔法使いに声をかけた村娘シーナは、魔法使いの肩よりも少し低い位置から、その黒い瞳を輝かせて魔法使いを見つめている。黒く、高いところで結わえられた髪は艶やかだが、あざとい大人のそれではなく、若さたらしめる純粋な輝きを放っていた。田畑で働き、家畜の世話に明け暮れる暮らしには不釣り合いな風貌だと魔法使いは思ったが、不釣り合いな娘がここにいて、不釣り合いな職業の男が畑焼きをしているこの瞬間を可笑しく思い鼻で笑った。
「嬢ちゃん、ここにいたら煤で汚れるぞ。戻ったほうがいい」
「魔法が見たいの。その魔法はどうやっているのですか?」
魔法使いは立ち寄ってきた村で必ず聞かれてきた億劫な会話の流れを予期し、一瞬乱れかけた感情を風吹かぬ空のように穏やかにするため、息を長く吐いた。
これだから村人は……。どこの村に行っても同じことを言われる。物珍しい魔法に目を輝かせ、「魔法はどうやっているの?」「どんなのがあるの?」そして最後のお決まりは「見せて!」だ。魔法使いは手っ取り早く追い払うために肩越しに言葉を投げた。
「使える者にしか理解できない。聞いたって無駄だぞ。ほら、風の向きが変わって丸焦げになるかもしれない。そんなのは嫌だろう? 戻るんだ」
「いいえ、こちらから村の方には陽風星の時しか風は吹かないわ。教えて下さい。魔法はどうやったら使えるのですか?」シーナに宿っている好奇心は、ありふれたものではなく、魔法を使いたいという焦りにも似た願望を纏っていた。
魔法使いはその昔、子供達に魔法を指南する職に就いていた。職業病の一つなのか、はたまた知識と知恵の素晴らしさを伝えたくてたまらない性分なのか、尋ねられれば教えたくなってしまう節があった。「それはな――」とまるで子供に教えるかのように口を開きかけた魔法使いは慌てて口を閉じ、態とらしく厳しい顔をして見せた。
夢見る村の娘に淡い期待を抱かせても、外の世界を知らない村人、ましてや女となると魔法が少し扱えたところで乞食となんら変わらない処遇を受けるのが常であり、魔法使いは世界の反対に生きる他人にさえ、そんな生き方はして欲しいなどと思わなかった。また、村を出なくても、魔法を知り、世界を夢見て、翼のない鳥が空を永遠と想い続けるような、哀れな人生を送らせるのも望むところではなかった。
ゆえに、魔法使いは先の流れを何度も体験してきて、一つの技を身につけた。無視を決め込むことで不穏な森さながらの印象を与え、村人と必要以上に干渉せず干渉させず、ただ風のように現れ去っていくことだった。そうすれば村への愛着すら抱かずに去ることができる、放浪者には一石二鳥の技だ。
魔法使いは今までの例に洩れず、自分の世界に入り込み干渉されないようにした。
どれほどの時間が経ったかわからないが、風は冷たさを強め、空には薄い暖かみのある橙色の陽光が山の向こうから世界の半分を染め上げ、真っ黒な稜線が二つの世界を隔てていた。高く澄み渡る空には火の季の残滓であるぶ厚く巨大な城にも似た雲が南に一つあるだけで、それよりも高い所には、長く線を引いた雲が幾筋も伸びていて、冷たさが世界を支配する土の季の走りを見せている。
魔法使いは仕事を終えて、村に戻るべく振り向くと瞠目して足を止めた。未だにシーナがその場に立っていたからだった。満面の笑みを投げかけるシーナにかける言葉が見つからず、魔法使いは黙り込んだ。この嬢ちゃんは何時間立っていたんだ?
「お疲れ様です、こんなに広い範囲を一日で片付けてしまうなんて。やっぱり魔法はすごいですね」
魔法について話すシーナに魔法使いは肩を落とした。仕方なくといった様子で重い口を開く。
「嬢ちゃんは魔法が好きなんだな」
「はいっ。滅多に見られないですから!」
目を爛々と輝かせ言い放つシーナの目には、無限の可能性と期待に膨らんだ輝きが宿っていた。
魔法使いはその輝きに昔の教え子達を見出した。いじめられっ子だった少年が苦しい思いをしながら必死に学び、初めて魔法を使った時の明るい未来を想像した勇気溢れる目、家が貧しい為に捨てられ、何もかも失った娘が初めて魔法を使った時の希望という雫に満ちた目、どれも同じ輝きが宿っていたことを。
「そうか」と返すと魔法使いは畑から出て、村に向かって真っ直ぐと歩き始める。報酬を受け取りに村長の家に向かう途中も、シーナは魔法使いの後ろを付いてきていた。
魔法使いは金子をねだっているのかと思い始め、顔の皺を僅かに深めた。昔滞在した町で、貧しい子に付き纏われたのを思い出したのだ。
この村娘をどうやって追い払おうか? と考えている間に村長の円屋に着き、後ろを小鴨のように追って来ているシーナの事を気遣うことなく家に入ると、後ろを見ることなく扉を閉めた。
シーナはそれ以上ついて来ようとはしなかった。だが、魔法使いは去っていく足音が聞こえないことを不思議に思い暫く扉を見つめた。あの村娘はまだ立っているのか? 魔法使いは恐る恐る扉の丸い握りに手を伸ばして開けようとした。同時にようやく去っていく足音が聞こえ、言葉にし難い安心感を得て溜息をついた。
「どうしたんじゃい?」
村長にしては珍しく女性で、女性と言っても魔法使いよりも年嵩な老婆が魔法使いを見上げて声をかけた。魔法使いは一礼して仕事が終わった事を告げると、村長は深い皺を更に深くさせながら「ありがたやねぇ」と言って、柔らかな暖かい笑顔を見せた。
「随分と好奇心旺盛な子がいるようで」
村長は嗄れ声で軽快に笑った。
「シーナかねぇ。ちぃさい頃はしつっこく魔法の事だったり、王国や外の世界に興味を持っててねぇ、よく尋ねに来てたよ。活発だけど常に周りを気にしているような子でねぇ。よく本も読んどったかねぇ。今じゃあ全くそんな素振り見せないけどね。じゃけど、そん様子だと、外の世界を諦めてた訳じゃあなさそうだねぇ」
愉快そうに笑いながら、村長は質素だが、暖かな料理が並んだ食卓へと魔法使いを案内した。
村長と魔法使いは、暖炉の安らぎの明かりの中、付近の山の様子や、噂話、隣国の話を交換し、食事の終わりが見えたところで、魔法使いは北へ向かっていることと、数日滞在することを告げた。村長は先にこの世を去った前村長の夫との馴れ初めや、ウッソンス村の催し物の話をした。魔法使いは楽しそうだなと思いながらも、深く会話には入り込まず、出された酒を少しずつ飲みながら、暖炉の中で燃える小さな火を見つめ、時折相槌をうった。暖炉の火が弱まると、村長は魔法使いに湯浴みを勧めた。魔法使いは久しく湯に浸かっていなかったため、喜んでその施しを受けた。
魔法使いは湯浴みを済ませると、貸し与えられた二階の寝床で身体を休めていた。寝台は簡素な木組みの台に藁を敷き詰め、その上に目の細かい仕立ての良い敷き布を敷いたもので、長く野宿を続けてきた初老の身には充分すぎるほどの贅沢であった。横たわると、毛布を足元から持ち上げて肩までかけた。魔法使いは今日手に入れた旅に必要な物を思い返し、運が向いてきたと心を僅かに踊らせていた。
村での報酬は主に消耗品の類で、そのほとんどは村で生産、または恵まれた特産物だったが、そのほかには縄や保存食、獣除けだったり、亜麻布で織られた衣類や毛皮の衣類、夕食と寝床の提供も含まれていた。幸い、この村は物資や設備に恵まれており、魔法使いが望む物は全て手に入った。辺境の地に於いて、ここの地域で使われている金子――ペイス――や、値打ちのわからない宝石よりもありがたい。
魔法使いは、〝土の季〟の間に抜ける森と、山越えに耐えうる丈夫な革靴や毛皮のマント、綿糸の衣類、保存食、罠猟に使える物資を手に入れる事ができたのが何よりも嬉しかった。腹も満たされた至福感も相まって満足そうに目を瞑ると、夜が更け込む前に睡魔が訪れ、眠りの川へといざなわれていった。