Episode-2
シーナは寝台から落ちて目を覚ました。心臓が寝起きとは思えないほど高鳴り、呼吸は荒い。夢だと理解していたはずなのに、十年経った今でも悲しみと絶望感は当時のまま心を締め付けた。
似たような夢を幾度となく見てきた。細部は毎回違うが、事の流れは一緒だった。豪華な宴から始まり、炎の狼から逃げ回り、最後は必ず同じ結末だった。忘れたいのかもわからない過去が、忘れて欲しくないかのように時折夢を通して主張してくる。それでも、この夢は久しく見ていなかった。昨日、してもいない仕事の失敗の濡れ衣を着せられて嫌な思いをしたからかもしれないわ。絶対にそうよ。
シーナは重くて白い息を吐き出しながら寝台の端に座り、雨風によって古めかしさを感じさせる木の格子窓を見上げた。
屋根裏部屋の薄汚れた窓から覗く景色は、何も邪魔をするものがない。夜明け前の白みがかった青色が、格子窓の硝子に色をあたえている。いつもなら二度寝をしたいなと思うところだったが、悪夢のおかげで怠惰な思いは微塵も湧かなかった。気分を変えようと立ち上がり窓の外を見た。
シーナの住む村は円形状になっていて、円屋と呼ばれる木製の円形の建物が、更に円を描くように並んでいる。そしてそれぞれの円屋の中央には、小さな丸い庭がある。バーインス王国領土の最北にある辺境のこの村は、ウッソンス村と呼ばれていた。
シーナの部屋は西側にある一つの円屋の屋根裏部屋にあり、窓は村の外側についているため、正門に続く細い街道を望むことができた。そして今、仕事の下準備をする人しか起きていない早い時間に村を訪ねようと足を運ぶ人影を、まだ暗さが支配する街道に一つ見出した。まだ遠くにいるが、その姿に部屋の寒さを忘れさせるほどの好奇心を刺激されて、シーナは窓の縁に手を触れて食い入るように見た。
右手に身の丈もある六尺棒のようなものを持ち、三角錐を取り巻く広いつばをもったとんがり帽子、物語に出てくるような魔法使いの姿だ。男に見える、確証はないがそう思った。
ふと、その魔法使い風の男は視線を上げて村を見た。シーナは自分が見られたのではないかと胸が一瞬縮まる思いとともに窓から離れ、半身になって窓の外を覗き続けた。魔法使いが円屋の下まで来ると見えなくなったので、恐る恐る窓を開けて音を聞いた。
杖か何かで木製の門扉を叩く音がした。こんなに朝早くに、来客などこない西門の番が起きているかしら? この村に来るのは、東の隣村のインスティンス村から大きな幌馬車で来る行商人くらいだわ。それも、一つ星――二十八日間――に一回しかこない。日が高く昇った時間に優雅にパイプで煙草をふかしながら東門から来る。こんな朝早くに人が訪ねて来るなんてことは経験がない……少なくとも、このウッソンス村に住み始めてからは。
シーナは門に行こうかと思い、壁に掛けてある繕いだらけの茶色の亜麻布のマントを手に取ったが、自分の姿を見下ろして固まった。
寝巻きの村娘が出て来たらびっくりするわ。それに門番でもないのに村に入れるのも叱られそう……。
そう思っている間に、窓の外から蝶番の軋む音がした。門が開いたのだろう。シーナはほっと一息つくと麻で編んだ部屋履を履き、マントを羽織って前裾をひっぱり体を覆うと、忍び足で廊下に出た。
木製の廊下は氷のように冷たく、部屋履の存在を忘れるほどの早さで足の感覚を奪っていく。長年人々の行き交う歩みによって磨かれた木の床は、なめらかで光沢がある。部屋を出て通路を左に進み、通路に対して右に降りる階段を慎重に降りて玄関まで近づいた。玄関から外は外履きの靴に変えなければならないが、今は誰も見ていない。シーナはそっと玄関に歩み出ると、そっと引き戸を開けて外を窺った。
門番のイオドスが魔法使いと何かを話している。イオドスと対面して話している魔法使い風の男は、シーナ側に背を向けているために表情が見えないが、何かを言っている。声からして初老の男だとシーナは思った。イオドスの丸くて眉毛の太い顔が、難しい本を読んでいるかのように歪んでいるところを見ると、何か交渉されているようだ。イオドスは考えることをやめたようで、大義そうな表情を浮かべて魔法使い風の男を見上げた。魔法使い風の男は小さな手のひらに収まる袋をイオドスに渡し、イオドスはそれの重さを測るような手つきをした後、ついてくるよう促した。向かう先は村長の家のようだ。
「シーナっ! なんで部屋履なの!」
突然背後から掛けられた声に、シーナは文字通り飛び上がって振り返った。
「フィムスおばさん! お、おはようございます!」
ウッソンス村では、それぞれの円屋の一階が一つの仕事場になっていて、一人の当主が仕切っている。フィムス・サリスは織物屋の当主で、ここの円屋の家主だった。
「おはようございますじゃないのよっ! あんた普段は礼儀正しいのに陰ではこれなんだから呆れた。親の顔が見てみたいわよほんと」呆れた顔には蔑みが見て取れた。
シーナは慌てて扉を閉めると、部屋履を脱いで裸足のまま階段を駆け上がりm自分の部屋に急いで向かった。先ほどよりも鋭く、容赦ない冷たさが足を襲ったが、背後から感じる視線の方が耐えられなくて、唇を噛み締めて戻った。
部屋に戻ると、寝台の下から心の拠り所である蔵書を取り出して当てもなく開いた。開かれたのは何度も何度も読んだお気に入りの頁だ。シーナはそっと文字を指で撫でた。
『アルムシア伝記』わたしも〈アルムシア〉のようでありたい。
『アルムシア伝記』は、千年以上も前の時代に活躍した女戦士の物語で、一族の地位が堕ちて、一人で生きねばならなくなった少女が剣をとり、やがて成長し人々のために戦い悪を倒して讃えられるというものだ。悪自体は怪物や漆黒の肌を持つ人の形をしたウラドなどで、シーナは成長したある日この伝記はただの空想の話だと気づいたが、この物語が好きだった。
わたしも剣が扱えたら……。弱い考えを振り払うように頭を振り、目覚めた時よりも白さが増した空を窓越しに見やった。
今日が始まる。あぁ寒い……窓を閉めておけばよかったわ。
シーナは立ち上がると、灰色に染められた仕事着に着替えた。