Episode-10
夕陽が西に聳えるクリマーレ山脈の頂に触れ世界に影が降りたころ、魔法使いは腰につけた革帯の一つのポーチから乾燥肉を取り出すと、ぶちぶちと音を立てて噛み切った。水を飲み、また肉を頬張る。雑木の茂った清閑な森を、肉を噛みちぎる音と水を飲む音、小枝を踏む音を伴とし暫く森を進んだ。
魔法使いは、森の中で独りきりでも寂しいと心を小さくしたことは無かった。朝なら小鳥の囀りがよく響き、その可愛らしい旋律を楽しみ、昼間は明るい静けさの中に満ちる生命の躍動を発見しては、その森の住人たちに挨拶をした。夜はというと、獣の声や不気味な鳥の鳴き声で、恐怖の中に自分が生きていることを実感させられ、気を引き締めて次の陽の光を迎えるとともに、日々生きて目覚めることに感謝することができた。だが、そのどの理由よりも魔法使いの心を支えるものがあった。それは、人の弱さを裁く無慈悲な場所であると同時に、それ以上に力を与えてくれる存在だと信じる心だった。
ゆえに、魔法使いは意気揚々と、時折学物的な物思いに耽ながら山を歩いた。帝国兵がウッソンス村に来たということはバーインス王国は完全に帝国の属国となったということだ。北の辺境に兵を送るほどの余裕が出てきた表れだ。しかし、王への忠義に厚い神衛士だったものが帝国の鎧を纏い犬のように従順になるとは驚いた。十年で人は変わるというのか……。
酒場で尋問した若い兵士は、帝国はバーインス王国を拠点としてシルヴィアンス王国に最後の戦いをすると言っていた。もはやこの地に居場所はない。魔法使いはいっそう力強く北を目指して足を踏み出した。
その時、後ろの方で小枝を踏む僅かな音に気づき、魔法使いは杖に手を伸ばした。気絶させた帝国兵達がもう追ってきたのか?
杖を握ると意識を熱くも留まる力として想像して自分の内側に呼び起こす。自分自身を力の奔流とし渦巻く炎の塊をその内に見出し、奔流の中心でありながらも静観するように冷たく意識する。そうして集められた強い意識の塊に反応して杖がそれを呑み込んでいく。杖に自分自身の奔流から流れる意識の塊が流れ込んでいくのを感じた。杖と魂を共有したかのような感覚だ。ここまでくると思いのままの魔法を操れる。宿場で使った魔法と同じ性質のものを想像した。その意識に呼応し杖が戴く宝珠が翡翠色に変わった。
静まりかえり何一つも動かない刹那の中、魔法使いは先手を打った。
音のした方へ杖を突き出し、右から左へと力強く振り払った。木洩れ陽に照らされて宝珠が煌いた。杖の動きに合わせて一陣の風が森の中を駆け抜けた。右から左へと落ち葉を巻き込み大量の破擦れ音を立てながら木々の間を駆け抜けていく。
杖をさらに振ると風は逆方向に吹き生き物のように森の中を舐めていく。強い風にのった落ち葉は、その勢いで天然の武器へと化け、切り傷くらいならつけられる上に、落ち葉の駆け抜ける噪音は相手の五感を遮断する。防衛の役割も兼ね、時間稼ぎにも使える魔法だ。
少しも経たない内に木の根元にあった小さな窪みから人が飛び出してきた。鎧と剣を持った帝国兵だと思っていたため魔法使いは拍子抜けして魔法を中断した。だが魔法はやめても自らが力の奔流になっているという意識の塊を手放すことはしなかった。その証拠として未だに杖が自らの体の一部のように感じる。
転がり出てきて腰を抜かし地面に倒れているのは見覚えのある娘だった。はち切れんばかりに膨らんだ自分の背負い袋に潰されて、その場に突っ伏している。
魔法使いはそれを目で捉えると辺りを警戒しながら娘に近づいてゆく。
「おい、追われているのか?」
座り直し顔を上げた娘はわずかな恐怖の色を顔に浮かべている。呼吸も荒く警戒していた。乱れて顔にへばりついた黒い髪を手で払い、前髪を右耳にかけると必死に作り笑いを浮かべた。
「あら、魔法使いさん。奇遇ですね!」
街で偶然出会った知り合いのような口調で話す娘に、魔法使いは面倒ごとを非難するような怪訝な目を向けた
「嬢ちゃん、追われているのか?」魔法使いは訊ねた。
「いいえ、多分。わかりません……あの、わたしはシーナです」
魔法使いは歩いてきた方向に注意深く目を走らせた。だが、何も見つけることはできない。隠れられそうな窪みがいくつもある。敵が出てきたら出てきただ。魔法使いは暫く杖との繋がりを保つために力の奔流を意識の塊として留めておくことにした。
「そうかい〝嬢ちゃん〟。そんなの持ってどこにいくんだ。〈偉大なる厳父〉でも越えるつもりか?」
娘は一瞬きょとんとした表情を見せると、何か思いついたように顔をはじけさせた。
「あぁ! 北の大きな山のことですか? わたしの村では〈紅き王〉と呼んでいます」
「そうかい。それで、嬢ちゃんは何でここにいるんだ?」
娘は、目を宙に泳がせてから、慣れた様子で頭を少し傾げて微笑んだ。
「この先の川まで、お散歩をしようと思って」
「そうかい」
魔法使いは見え透いた嘘をあしらうようにそう言うと、自分の荷物を纏め直して背中に担ぎ、地面に突き立てられた杖を手に取って、そっけなく娘に背を向けて歩き出した。
魔法使いはシーナのことなど気にもとめずに、そればかりか、いつもよりも速く歩いていた。額には汗が滲み、一歩踏み出す度に体温で熱せられた生ぬるい空気が長衣の首元を抜けて肌を撫でていく。
魔法使いは幸せだった日々の記憶を懐かしむと同時に一筋の不安、恐怖と怒りが〝悪〟独特の柔らかさをもって背筋を走り抜けるのを感じ、心の中で音の無い警告の笛が鳴らされた。また苦しみを味わいたいのか? 過去の自分がそう言ったような気がして、大地を覆う雲の影から逃れるように、無心を願って早足になっていた。
考えまいとする意志がより記憶を強くし、昔の記憶が五感を刺激し、あたかもその場にいるかのように生々しく、鮮やかに脳裏に描かれた思い出は命を持ったかのように動き始める。カリヌはこの村娘の歳ぐらいの時は何をしていたか。あの子はいつも精一杯だった。生々しい心の傷から洩れる甘美で残酷な記憶が頭の中を流れていく。
その昔、今は亡き娘と出会った三十年前のこと。魔法使いが二十歳になり、風は蒼く季節が変わったことを告げ、その日は少し暑い日だった。
バーインス王国の魔法学院中央にある大庭園、その中にある、四角く綺麗に整えられた花崗岩の石畳広場で、若き魔法使いは何列にも整列した入学したての、まだまだ幼い魔徒達を感情なく見下ろしていた。
若き魔法使いは初めての指南職に就いた。だが、まだ二桁にいったばかりの子供の相手の仕方など経験もなく、その上、魔法使いの師匠が気難しい人物で、優しくされた覚えはなかったものだから、愛想の欠けらも無い表情と目でこれから数年間に渡って教える子供達を、ただ見下ろしていた。
教え子の魔徒達は、大抵はおしゃべりに興じたり、集中力に欠けた子供がきょろきょろとしていたり、つまらなさそうに地面を見つめていたり、顔色が悪くなるほどの緊張と不安を孕んだ者が点々とする落ち着かない中、魔法使いの人情のない鉄の冷たさをもった目にとまった一人の少女がいた。とまったというよりとめられたが正しいかもしれない。数多の感情と雑音が入り混じる子供の列の中にあった希望と欲望の輝き、子供の純粋な熱を帯びたその眼に。
その少女――カリヌはかなり変わった子であった。授業が終わり、魔法使いが教壇から魔法師員室へ戻る時には必ずと言っていいほど魔法使いを尾行してくるのだった。尾行に気づき、声をかけようとすると、まるで敵の存在を嗅ぎつけた斥候さながらに走り去ってしまう。魔法使いは最初はどうしたものかと悩んだが、子供の奇怪な一種の遊びなのだろうと気にしないようにした。
月日と共に尾行は酷いものになっていった。魔法師匠達が帰る頃、門の陰で待ち伏せるようになったのだ。あいにく、魔法院の中には家に帰らずにそのまま泊まっていく研究熱心なもの、または嫁を恐れて帰れない者など数多くいて、魔法使いはその前者の内の一人だった。カリヌ本人は気づいているのかわからないが、魔法使いの部屋は門が見える位置にあり、その待ち伏せ行為が毎日見えるのであった。
少女は、門が施錠されると帰っていき、そのとぼとぼと歩く後ろ姿に、魔法使いは何度か締め付けられるような感情を抱いたこともあったが、当時は研究に研究の毎日だったためにわざと触れずにいた。学びたくて来ているのだ、必要なら自分から来るだろうと思って。
それから、魔法使いはほとんど家に帰ることはなくなり、遂には家さえ引き払い、魔法学院の自分の研究室に住みついた。カリヌはやがて待ち伏せはしなくなった。
夏の期が過ぎ残暑もどこか南へ去っていき、肌寒い風が街の中にやってきたある日、特別な日がやってきた。バーインス王国建国記念日である。
魔法師匠もこの日だけは帰る者が多く、魔法院の中はまるで廃墟のようだった。多くの者が、家族との暖かな時間や、金子によって得られる仮初めの愛の熱、仲間との無意味なようでかけがえのないそれらの時間を過ごすために帰る中、魔法使いはこの日も研究に溺れていた。
研究に行き詰まり、泥の溜まった排水管のような心に耐えられず、自室の床に全てを投げ出すように手足を広げて寝転んだ。そこから見える窓越しの空は、深い灰色に染まり、静かな雨を降らしていた。
気分も雨、天気も雨で最悪だと悪態をつきながら立ち上がり、雨の様子を見るために窓から外の様子を窺うと、門から少し離れた木の陰に、ちょこんと立っているカリヌの姿があった。研究が上手くいかない苛立ちが飛び火した。こんな雨の日にあいつは何をしてるんだ? 風邪をひくだろうに!
気づけば魔法使いは厚手の肩掛けを持って、傘もささずに走っていた。
開口一番「馬鹿者!」と言われた少女は肩を強張らせ萎縮していた。濡れながら鞄を両腕で抱えていて、恐々とこちらの顔色を窺う顔は血の気を失った死者のごとく色を失い、寒さで音を鳴らして震えていた。
自室まで黙って連れて行くと、魔法使いはすぐさま暖炉に薪を焚べ火を起こし、少女を暖炉の前に座らせた。一足早く暖炉の準備をしておいてよかったと思いながら、今朝絞ったばかりの乳を火にかけ、その中に、金色の花弁をもつ花から採れる高価な濃厚で甘い蜜を混ぜ合わせ蜜乳を作り、暖炉の前で震えながら座っているカリヌに手渡した。カリヌは黙ってそれを飲み干すと、安心と、寒さの和らぎに心をとかし、邪悪なものを一切感じさせない息をついた。
魔法使いはカリヌが何故、国全体が賑やかで誰もが待ちわびる建国記念日に、一人で雨の中に立っていたのか時間をかけて聞き出した。
カリヌは、移民だった。そして不仲な両親の間の子だった。国の中には移民をよく思わない者達も少なくない。そういった親を持つ子は、自然と移民に対して辛く当たるようになる。まるで当然の権利だといわんばかりに。
そしてこの少女カリヌはその闇の餌食だった。建国記念日には催し事の一つとして、色紙に国と人々の平和を祈った言葉を綴り、それを集めて成就するようにと願いを籠めて燃やすものがある。その想いを綴った紙を、同級生の魔徒の子達に破り捨てられたのだ。
唯一、居所であるべき場所である家は安らげる場所ではなかった。父は真面目な人間だが、移民に対する闇の仕打ちは大人の方が深刻だったために次第に心を壊していき、やがて母とカリヌに手をあげるようになった。カリヌが友とし、心の支えとしていた母は過労から病を患い床に伏せてしまった。それから父の暴力は深刻化していった。
その中でカリヌは幼きながらも自覚した。己を守ってくれていた盾が崩れ、自分の力で生きてゆかねばならないと。己を守り、母親を病から救い、力と財を得て、今一度家族との幸せな日々を暮らすために魂を売る覚悟で魔法を覚えることにしたのだった。
そしてカリヌは、暖炉の熱によって体から立ち上がる湯気が勢いを落とし始めた頃、尾行していた理由を語った。
――師も移民だと聞きました。それなのに、師は誰にも負けないくらい強い人で、誰でもすごい人だって。だから、その人の生き方を学べば、わたしも強くなれると思ったんです。
そのカリヌの小さい体に宿る強く純粋な信念の言葉を聞いた時、魔法使いはそれに気づかなかった己に対して深い羞恥と怒り、名伏し難い心の捩れが鎖と杭になって心を縛り上げた。そして悟ったのだった。この子を支えるのは自分の役目なのだと。
魔法使いはその記憶を思い出しながらも、シーナがついてきているのを静観している自分に苦い思いを抱いた。あの娘はカリヌと何一つ似ていない。肌の色も髪の色も目の色も声でさえ。なのになぜ追い払えない?
魔法使いは足を止め、後ろの物音を探した。だが、求めていた音は聞こえてこなかった。かわりに、微かに森の中を漂っている水の音を耳にし、近くに川があることを理解すると魔法使いはそこを目指した。ほどなくして木々が開け、一抱えもある岩が無造作に転がっている川岸に出た。
畔りまで進み水が飲めることを確かめると、歩いてきた森の方を気にしながら木の枝を拾い、石で囲いを造ると魔法で火をつけて焚き火を熾した。火の魔法は何よりも単純だ。集中すらしなくてもわずかに意識の力を集めればいい。心の中で小石を握るようなものだ。
魔法使いはよれよれのとんがり帽子で目元を覆い、岩にもたれかかって目を休めた。




