第22節
木曜日、集中豪雨の警報が、スマホの画面に彩られる。
雨が嫌いなわけじゃないよ。
濡れるのだって、本当は、平気。
傘に当たる雨音は、心地よくて好き。
あやめと再会してからは、もっと好きになった。
傘は、いつも一つしか持って行かないから。
でも、一つだけ苦手なことがあるの。
昔から、大きな音が怖かった。
それは、あれとは関係ない。
でも、大きな音が鳴ると、あれを思い出す。
だから、雷が苦手だった。
「今日は、休もっか。」
毛布に包まり、膝を抱える私を、あやめは撫でてくれる。
最初は、その手さえ、怯えてしまっていた。
少し落ち着いた今も、やっぱり、怖い。
それでも、その温もりに、甘えたい。
その優しさが、とても嬉しい。
それは、あやめが、ずっと一緒に居てくれたから。
だから、そう思えるまでに落ち着けた。
灰色の色彩が、窓を描く。
それを切り取る様に、雨が伝う。
ぱちぱちと弾く旋律が、まだ降り続くと詩う。
遠くで光る、唸りの前触れ。
本当は、知っていた。
あれが私を蝕むとき、いつも雨音が聞こえていたことを。
「違うよ。」
私に囁く、私の声。
私は、思わず顔を上げた。
そこに彩られるのは、あの悍ましい家。
かつて聖域だった、穢れの部屋。
「私の…部屋…?」
あやめが、居ない。
どうして…。
「おはよう。」
目の前に立つのは、ママ。
そんなはずは、無い。
ママは、ずっと前に…。
「そうよ。私は、君を置いて、居なくなった。」
私の声が、私へと紡がれる。
頬を伝う雫。
互いの瞳に、それが彩られる。
「帰ってきたの?」
私は、期待を描く様に呟いた。
「もう、帰れないよ。でも、そばに居ることは、できる。」
ママに、影が滲む。
その色彩に、私は、不安へと落ちる。
「行かないで…。」
私は、思わず手を伸ばした。
「どこにも行かないよ。でも、君は君の道を歩かないと…。」
ずっと、私は、私の道を歩いてる。
ずっと、歩いてきたはず。
私の歩いてきた道は、私の道ではなかったのかな。
「君が今、歩いている道は、君が選んだのかな?」
「それは…。」
私は、学校を辞めることを選んだ。
私は、あの家を出ることを選んだ。
私は、あの店で働くことを選んだ。
私は、病院に通うことを選んだ。
「もし、あれが何もしない人生だったら?」
「…。」
私は、そうしたくて、選んだんじゃない…。
「そうよ。君は、選んだわけじゃないよ。」
私は、必死に首を振る。
それを認めたら、私は縋るものを失いそうで。
「君の歩いてる、その道は、それを選ばざるを得なかっただけ。」
「やめて、やめてやめてやめてやめてやめて…。」
否定できない。
でも、それだけは、聞きたくなかった。
影が、私へと手を伸ばす。
私の体が、びくんと跳ねる。
「こうなってしまったのは、あれのせい…。」
その影の手が、私を優しく包み込んだ。
「君が、この道を選ばなくてはいけなくなったのも、あれのせい…。」
ママが、居なくなったのも…。
「そうよ、あれのせい。君は、何も悪くない。」
私には、縋るものが、何もない。
私は、私である意味が、何もない。
「あやめちゃんが、居るじゃない。」
あやめちゃんが、私のところに帰ってきてくれた。
「そうね。」
でも、本当は、ずっと、どこにも行ってなかった。
その温もりに、触れることができなくても。
その色彩を、見ることができなくても。
その音色を、聴くことができなくても。
ずっと、私の傍に居てくれてた。
ただ、お互いに見失って、探し合ってただけ。
でも、また、会えた。
「そうよ。だから、もう、私は要らないはずよ。」
そんな事ない。
「君は、少しずつ、私に押し付けなくなったよ。」
思い出すのは、初めて、影を見つけた日。
校庭に佇む色彩。
それを見つめる旋律。
ショッピングモールでの思い出。
そして、その夜…。
「いつかは、受け入れなくちゃいけなかったのよ。」
あの日、あれは、ずっとと言った。
あの時、あれは、今更と言った。
「そうね。君が覚えていないだけ。」
それまでは、私は、影に、押し付けていた…。
嫌な事、全部…。
「ごめんなさい…。」
「それは違うわ。」
影の手が、私の頬に触れる。
「ごめんね、私はいつだって、感情的になってしまうの。」
悲しそうな微笑みが、私を見つめる。
「だから、居なくなってしまったのよ。」
天井からぶら下がる色彩。
「だから、離れられなかったのよ。」
あの日の旋律が、反響する。
「だから、代わりに受け止めたのよ。」
私は、気づいていた。
雨音が聞こえる時、それは、あれが私を蝕む時じゃない。
本当は、影が見える時、私の声が私に話しかけてくる時。
「でも、君は、そろそろ、君の歩みたい道を、歩まないと…。」
「私の、歩みたい道…?」
「もう、知っているでしょう?」
踏切で、あの恋人たちに助けてもらってから、私は生き直してきた。
今も、あの悪夢が、私の心を埋め尽くすことがある。
そこに溺れて、色彩を手放すことがある。
言葉にならない言葉の中に、不協和音となった想いをぶつけることもある。
それでも、少しずつ歩いてきた。
どうして、歩き出せたの?
あやめと再会するまで、私が元気でいられる日は、水曜日と木曜日だけだった。
病院のリハ室。
私の、好きな場所。
作業療法士。
私に、歩き方を思い出させてくれた人。
「君は、どんな道を歩きたい?」
私は、呆然と影を見つめる。
「もう、気づいてるでしょう?」
わからない…。
そんな事を、考えたこともなかったから。
「それは、言葉にできないだけ。でも、すぐに、できる様になるよ。」
影が消えていく。
「行っちゃうの…?嫌だよ…。」
影が、私に微笑みかける。
「もうすぐ、君を傷つけるあれが、自由を得るの。」
どういうこと…?
「君は、気にしなくてもいいわ。でも、あれの手が、君に触れようとしてくるかもしれない。」
私を蝕み続けた、あれ。
「だから、あれに、会いに行くだけよ。君のところに来ない様に…。」
ゆっくりと、全ての色彩が黒へと染まっていく。
「もう、一人で歩けるよね、ゆり。」
影が、黒へと溶けていく。
「行かないで…、ママ…。」
私は、その先へと、必死に手を伸ばしていた。
遠くに響く、轟音。
その音に怯える様に、私は瞼を開いた。
「夢…、なのかな…。」
頭に残る、柔らかさ。
頬に残る、温もり。
私は、それを確かめる様に囁いた。
「起きたの?お店には、電話しておいたから、安心して。」
あやめが、私を覗き込む。
ふかふかのベッドが、私を包み込んでくれている。
あやめが、眠る私を運んでくれた。
そのことが、私の胸を高鳴らせる。
「ありがとう…。」
私は、あやめへと、腕を伸ばした。
「いいのよ。」
包み込み合う私たちの腕が、温もりに溶けていく。
「でも、病院は、行きたいな…。」
重なる頬に、そっと囁いた。
「そう。じゃあ、準備しよっか。」
あやめの優しい音色が、私を撫でる。
並ぶ、二つの鏡。
私が、この家に始めてきた日から置いてあるピンクと黄色の鏡。
それを覗き込みながら、私たちはメイクをする。
「病院が終わったら、お茶しようよ。」
リップを塗り終えたあやめが、微笑みかけてくる。
「うん、行きたい。」
私は、前髪を整えながら、微笑んだ。
荷物を持って、玄関を開ける。
アパートの前に停まるタクシー。
「呼んでくれていたの?」
「私、バス苦手でさ…。」
「ありがとう。」
私は、思わず、あやめに抱きついた。
「ゆり、ありがとうって、いっぱい言ってくれる様になったね。」
あやめの微笑みが、私の瞳を煌めかせた。
いつの間にか、雨は止んでいる。
雲の隙間から差し込んだ光に、私たちは、空を見つめた。




