第4回 顧雍、孫策の死を見届ける
顧雍は合肥県長として大いに治績を挙げることにより、その名を益々高めることになる。「婁」、「曲阿」、「上虞」などの県令を歴任し、地方官としてその名を知らしめした。
そしてこの頃、顧雍の赴任先を治めていたのが、「小覇王」の異名をもつ「孫策」であった。
西暦一八四年(中平元年)の黄巾の乱以降、各地では諸侯、軍閥により勢力争いが繰り広げられており、ここ最近この辺りで勢力を急拡大しているのが孫策であった。
孫策は「江東の虎」と恐れられた「孫堅」の長男で、その軍事的才能は、当代随一といっていいであろう。
顧雍は、あくまで孫策に対して敵でも味方でもなく、漢に直接任命された県令として振る舞い、職務をこなしていた。
もし、そのいずれかをはっきりと表明しなければいけない局面が訪れるとすれば、民の安全が守られれば顧雍にとっては、それほど大きな問題ではなかった。
そうこうしているうちに、孫策の支配する領域は、江東ほぼ全域となり、漢の方でも「会稽太守」に任命して、事実上、孫策による江東の支配を認めたのである。
そして江東の支配を盤石にした孫策は、その目を北の徐州、豫洲方面に向けることになる。ここは、北部の新進気鋭の「曹操」が押さえる地盤であった。
しかし、孫策はかつての敵であった「許貢」の残党の襲撃による傷がもとで急死してしまった。享年二六歳であった。
そしてこの死が、顧雍の運命をも変えるのである。




