第7話(後):餌付けと味見の無限ループ
4.朝の急襲、そして地図を描いた猫
チュンチュン……。
小鳥のさえずりで、僕は目を覚ました。
「……ん……」
体が重い。物理的に重い。
目を開けると、視界いっぱいに鮮やかなピンク色の髪が広がっていた。
「……むにゃ……お兄ちゃん……だいすき……」
ココちゃんが、僕の上に乗っかっていた。
うつ伏せになり、僕の胸をベッド代わりにして熟睡している。
よだれが少し垂れているのがご愛嬌だ。
そして右側では、ルミナさんが僕の右腕を抱きしめ、鼻先を僕の首筋に埋めていた。
(……なんて状況だ。幸せすぎてバチが当たりそう)
僕は苦笑しながら、体を起こそうとした。
その時。
「……あれ?」
違和感を感じた。
お腹のあたりが、妙に湿っぽい。
汗か? いや、それにしては冷たいし、範囲が広い。
なんだろう、このじっとりとした感触は。
「ココちゃん? 起きて。朝だよ」
僕が優しく揺り起こすと、ココちゃんは「んぅ……」と瞼を擦りながら身を起こした。
「おはよぉ……お兄ちゃ……」
彼女の言葉が止まった。
とろんとしていた寝ぼけ眼が、ぱっ! と見開かれていく。
彼女の視線の先。
僕のパジャマのお腹の上と、彼女のネグリジェの下半身部分。
そこに、大きな「世界地図」が描かれていたからだ。
シーン……。
小鳥のさえずりだけが響く、数秒の沈黙。
ココちゃんの顔色が、青から白へ、そして爆発したように真っ赤に染まった。
「あ……あ、あ……」
彼女の唇がわなないている。
天才少女。小悪魔。マセガキ。
そんな彼女の鉄壁の仮面が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
「…………しちゃっ、た…………?」
昨夜のホラー映画の恐怖か。
それとも、夢の中で僕に甘えて安心しきっていたせいか。
あるいは、寝る前に飲んだジュースのせいか。
理由は分からないが、事実は一つ。
天才少女が、好きな男の子の上で、盛大におねしょをしてしまったのだ。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!!」
ココちゃんが泣き出した。
昨日のような演技の泣き方ではない。
顔をぐしゃぐしゃにして、鼻水を垂らし、恥ずかしさと情けなさで心が折れた、本気の号泣だ。
「ごめんなさぁぁぁい! ココ、漏らしちゃったぁぁぁ!
お兄ちゃんに……お兄ちゃんにぃぃぃ!」
その声で、ルミナさんが飛び起きた。
「な、なに!? 敵襲!? どこ!?」
「ルミナさん、落ち着いて! 違うんです!」
ルミナさんは状況を把握し、呆然とした。
そして、泣きじゃくるココちゃんを見て、普段の対抗意識など吹き飛んだようだった。
「……あー、やっちゃったか」
「うぅぅ……お嫁さんにいけないぃぃ……嫌われるぅぅぅ……」
ココちゃんは顔を覆って泣き続けている。
子供にとって、おねしょは世界の終わりにも等しい絶望だ。しかも好きな人の前で。
これは一生のトラウマになりかねない。
僕は即座に行動した。
ココちゃんを抱き上げ、優しく頭を撫でる。
「大丈夫だよ、ココちゃん。泣かないで」
「だってぇ……汚いよぉ……」
「汚くないよ。誰だって失敗はあるし、昨日は怖かったもんね。仕方ないよ」
僕は笑顔で言い聞かせながら、ルミナさんに目配せした。
「ルミナさん、お風呂沸かしてもらえますか? ココちゃんを洗ってあげてほしいんです。その間に僕がシーツとパジャマを洗いますから」
「えっ、ミナトくんが洗うの!? いいよ私がやるよ!」
「いえ、僕がやります。主夫ですから。」
僕の言葉に、ココちゃんが涙目で顔を上げた。
「……お兄ちゃん、怒らない……?」
「怒るわけないじゃん。むしろ、無防備な顔が見れて嬉しかったよ」
「っ……!」
ココちゃんが息を呑んだ。
僕は彼女の額に、ポンと優しくキスをした(おでこに)。
「さあ、ルミナさんと一緒にお風呂に入っておいで。さっぱりして、美味しい朝ごはん食べよう?」
ココちゃんは真っ赤な顔でコクコクと頷き、逃げるようにルミナさんに連れられて浴室へと消えていった。
残された僕は、濡れたシーツを剥がしながら苦笑した。
「……さて、洗濯洗濯」
主夫の仕事は大変だ。
でも、あの生意気な小悪魔ちゃんが見せた、年相応の弱点。
あれはあれで、破壊力抜群だったな。
5.餌付けと味見の無限ループ
数十分後。
お風呂から上がり、さっぱりしたココちゃん(目はまだ少し赤い)とルミナさんが食卓についた。
ココちゃんはまだ恥ずかしそうで、僕と目を合わせようとしない。モジモジと指をいじっている。
「さあ、朝ごはんですよ。今日は特製フレンチトーストです」
僕が皿を置くと、甘いバニラと焦がしバターの香りが広がった。
厚切りのパンは黄金色に焼け、たっぷりのメープルシロップと粉砂糖、そしてホイップクリームが添えられている。
落ち込んだ心を回復させるには、甘いものが一番だ。
「……わぁ……キラキラしてる……」
「熱いから気をつけてね。はい、あーん」
僕はナイフで切り分けたフレンチトーストをフォークに刺し、ココちゃんの口元に運んだ。
「えっ……い、いいの……?」
「もちろん。元気だしてほしいからね」
ココちゃんはおずおずと口を開け、パクッと食べた。
その瞬間、彼女の瞳がパァッと輝いた。
「んん~っ!! おいしぃ~!!」
「よかった。甘さはどう?」
「最高! トロトロで、ふわふわで……お兄ちゃんの味がするぅ……」
彼女は頬に手を当ててとろけている。
機嫌が直ったようで何よりだ。
すると。
バンッ!
テーブルが揺れた。
「……ミナトくん?」
横から、地獄の底から響くような低い声が聞こえた。
見ると、ルミナさんが虚ろな目で口を開けて待機していた。
「私には? 私への『あーん』は?」
「あ、ルミナさんも食べますか?」
「食べる! 食べるに決まってるでしょ! ココちゃんだけズルい! 私もおねしょしたら優しくしてくれるの!?」
「それはダメですけど……はい、あーん」
ルミナさんの嫉妬(子供相手に本気だ)に苦笑しながら、僕は彼女にもフレンチトーストを運んだ。
「あーん! ……はぐっ! ……んふふふふ♡」
ルミナさんは至福の表情で咀嚼し、飲み込むと同時に叫んだ。
「おいしい! 次! 次ちょうだい!」
「あ、ズルーい! 次はココの番だよ!」
「ココちゃんはさっき食べたでしょ! 年長者を敬いなさい!」
「おばちゃんのいじわるー! お兄ちゃん、ココにちょーだい!」
左右から伸びる二つの口。
まるで雛鳥の餌付けだ。
僕は大忙しでフレンチトーストを切り分け、右へ左へと運び続けた。
「はいはい、順番順番!」
「ん~っ♡ もっと!」
「お兄ちゃん、ミルクちょーだい!」
「はい牛乳ね」
騒がしくも幸せな朝食風景。
おねしょ事件ですっかり自信を喪失したかと思われたココちゃんだが、どうやら転んでもただでは起きないらしい。
(……ちぇっ。失敗しちゃったけど……お兄ちゃん、全然引かなかった。
むしろ、優しくしてくれた。
お洗濯までしてくれて……『私の恥ずかしい地図』をお兄ちゃんの手で綺麗にしてくれた……。
……なんか、それってすごく……興奮するかも♡
お兄ちゃん、やっぱり最高。絶対逃がさない!)
フレンチトーストを頬張りながら、ココちゃんは再び獲物を狙う目を光らせていた。
僕の安息の日は、まだまだ遠そうだ。
――そして。
そんなドタバタな朝を過ごしていた、その時。
ピンポーン。
玄関のチャイムが、厳かに鳴り響いた。
ルミナさんとココちゃんが、同時に動きを止める。
モニターに映し出されたのは、全身を銀色の鎧に包み、鋭い眼光を放つ「女性騎士」の姿だった。
「……ゲッ。監査官だ」
ルミナさんが呻いた。
ついに、第三の刺客――「法と規律の守護者(でも中身は……)」が、僕たちの前に現れたのだ。
(第7話 終わり)




