深い眠りから目覚める
『この窓もやっぱり悪くないかな。本物と違って毎日景色が変わるものね』
真夜中の3時、数日ぶりに返ってきた部屋で私とリグルはくつろいでいた。
いつものように、リグルは窓辺のテーブルの上でうつぶせに寝そべっていた。小さなひじをついて、外をぼんやり眺めている。星空には緑のオーロラがたなびき、遠くに山の連なりが見えた。美しく寂しい風景だった。
『オーロラって楽器みたいだよね、パイプオルガンとか、ハープとかさ。厳かな音楽が聞こえてきそう』
私はベッドの上に紅茶のポッドとチョコレートの載ったトレーをおいて、飲んだり食べたりしていた。オーソドックスな板チョコが今回の件の報酬だった。アビリティを使い“社会貢献”するとご褒美として普段は手に入らない嗜好品がもらえる。
ベッドのヘッドボードにだらしなくもたれ、板チョコを端からかじり、アールグレイの紅茶を口に運ぶ。行儀が悪いのはわかっていたが、疲れきっていた。視倉邸での出来事が頭から離れず眠れそうにない。チョコレートの甘さと紅茶の香りが少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「音楽はいいですね」いつの間にか遊理がソファに座っていた。
「“もしぼくが物理学者じゃなかったら、多分音楽家になっていただろう”」
『アインシュタイン?ぼくとしては、続きの言葉が好きだけどね。“ぼくはしばしば音楽の中で考え、音楽の中で白昼夢に生きている”彼は詩人にもなれそうだよね』
「“神はサイコロを振らない”とかかっこいいですよね」
『“人間が神のしくじりにすぎないのか、神が人間のしくじりにすぎないのか”』
「そこで神殺しのニーチェを持ってくるのは、ずるいですよ」
「何かあったの?」
二人の会話に割って入る。
失礼しました、と遊理が頭を下げる。
「不破さんもぼくも、キオくんの件が片付かなくて研究室の仮眠室に泊まることになりまして」
『それで暇つぶしにカイナの意識に入り込んで来たわけ?』
「すみません、夜分に」遊理は悪びれない。
「ちゃんと寝ないと。アビリティを使っていたら疲れがとれないでしょう?」
遊理はにこりと笑った。
「三鬼さんは優しいですね。真夜中の突然で無礼な訪問に怒りもせず、相手を気遣うなんて。なかなかできることじゃありません」
顔が赤くなる。
「別に。私も疲れているから、遊理もそうかなって思っただけ」
私みたいな人間が優しいなんて言われるのは居心地が悪い。
「いえ、優しいですよ。アビリティ保有者としてじゃなく、人として。でも優しさは無防備さにもつながります。つけこまれやすく、ボロボロにされやすい」
『まさしく、今、遊理がつけこんでいるわけだよね?』
「心配しているんですよ、同士として」
「同士?」
「まともな心を持ったアビリティ保有者同士ってことです。ぼくは三鬼さん以外のアビリティ保有者と接する機会もあるわけですが、正直、不破さんが異常者って呼ぶのもよくわかるような連中が多いんです。三鬼さんのように普通の感覚を持ったアビリティ保有者に出会えるとほっとします。まぁ不破さんに対するヤンデレ感はちょっとアレですけど、異常とまでは言えませんしね」
『ずいぶんな上から目線だね。ぼくからするとそもそも遊理がまともな奴なのか疑問だけど』
「さっきから、リグルさんから悪意を感じるのは気のせいですかね?」
『気のせいじゃないよ。カイナは無警戒、無防備で隙だらけかもしれないけど、ぼくは違う。用がないならさっさと帰って』
「実は、いくつか大事なお話があって来たんです」
リグルはにらんだが、遊理は話し続ける。
「まず、キオくんの件で問題が起きました」
『問題?』
「えぇ。あの後、ぼくたちの報告を受けて研究室から調査部が視倉邸に向かいました」
『調査部って仕事の幅広すぎだよね。今回なんて調査っていうより事態収拾が目的でしょ』
「調査部は元警察官や探偵、黒い仕事をしていた人も混じった有象無象、海千山千の猛者たちですから。扱いは難しいですが、やるべきことはやります。でも今回ばかりはそんな彼らも驚いたみたいですよ」
『どういうこと?』
「収拾すべき対象がなかったんです。キオくんの遺体も、アオくんもヨリくんも、そのほかのコーティングされた小動物や植物もすべてなくなっていました」
「そんな……どうして?」
「分かりません。なので、ご意見を伺いに」
そう言って遊理は、私じゃなくリグルを見る。
『うーん』リグルは腕組みをして頭を軽く振った。
『思いつくのは一つかな』
「なんですか?」
『キオが生きていて証拠隠滅をした』
私は驚いて言葉を失ったが、遊理はにこりと笑った。
「不破さんも同じことを言ってました」
「だって、あの時、キオは息をしていなかったし、脈もなかったんでしょう?」
遊理と圭の二人で調べたはずだ。
「えぇ。でも、キオくんが自分で自分にアビリティを使っていたとしたら?たとえば肌の柔らかさと同じ質感で、すごく薄い高密度な膜で自分を覆ってたとしたら?ぼくも不破さんも簡単な触診をしただけです。死んだ振りは十分できただろう、と不破さんが言ってました」
『あくまで憶測の域をでないけどね』
「でもほかに考えようがありませんし、レポートの最終報告もそうなるでしょう。おかげで室長から、ぼくらは白い目で見られています。確認が甘かったせい、というわけです。こっちは死にそうな思いをしたっていうのに。ひどい話です」
曖昧にうなずきながら、私は不思議に思った。リグルは今、さらりと答えを出した。だったらなぜ屋敷にいた時、その可能性に気付かなかったのだろうか。圭だってそうだ。
まさか二人とも気づいていたのに黙っていたのだろうか。つまりわざとキオを逃した……?
ありえない。リグルはともかく、圭に限ってそんなことはない。私は疑問を飲み込む。
それよりもキオが生きている可能性に心がざわめいた。キオのしたことは許されない。それでもキオの痛みに共鳴した私は彼に生きていてほしかった。生きてさえいれば、悔やむことも償うこともできる。
罪は消えなくても救いはある。
そう思いたかった。
「室長は現場の苦労がわかってないんですよね。頭でっかちなエリートは困りものです。おかげで、しばらくは、ぼくも不破さんも言い訳を含めた膨大なレポート作成に追われそうです」
『かわいそうに』
リグルがわざとらしく大あくびをした。
『話は終わり?だったら帰りなよ。カイナも疲れているんだから』
「もう一つだけ、好奇心を満たしたら帰ります」遊理は言った。「三鬼さんに確認したいことがあって」
「何?」
「3年半前の事件に関してです」
予想外の言葉に私は凍りつく。
「あなたが“リグル”と呼んでる彼のことが不思議でした。アビリティ保有者が、“他人には見えない友達”を作るのはよくあることですけど、大概、誰かモデルがいるものです」
『なにわけわかんないこと言ってるのさ?』
「アビリティ保有者であることが確定すると、素性も過去も国がすべてを隠します。でも研究室には詳細な個人ファイルがあります。もちろんすごく厳重に管理されていて、ぼくはまだこの第三研究室に来て日が浅いし、三鬼さんの担当も実は“仮”がつくので閲覧範囲がすごく狭いんです。3年半前、あなたが致死量以上の血痕にまみれた部屋で気を失っていた事件も、何があったのか興味はありますが調べられません。でも、この間、あなたの記憶を見て知りました。“リグル”は、3年半前のあなたの事件の被害者だったんですね」
呼吸が荒くなるのがわかった。
『遊理、やめろよ!』リグルの声が小さくなり姿がかすみだす。
「ぼく、という一人称で話す、あなたと同じ顔、姿を持った女性です」
私はある事に気付く。
「今回の事件、私をあの屋敷に連れて行ったのはそのため?」
「えぇ。一卵性の双子で外見は似ているけど性格は大きく違う二人。男女の違いはありますが年齢も近いし、三鬼さんなら深くシンクロできるだろうと確信がありましたから。でも蓋をあけてみて、びっくりしました。片方がアビリティ保有者なんて共通項もあったんですから」
「成功だね」
「でも、研究者としての好奇心がまだ満たされません」
「何を聞きたいの?」
疲れ切っていた。聞きたいというなら、さっさと何でも話してしまおうと思っていた。どうせ、遊理に話しても圭に伝わることはない。遊理は自分がアビリティ保有者であることを隠さねばならないのだから。
「三年半前、三鬼さんは罪をすべて認めたのに動機だけは語ろうとしませんでしたね?」
遊里は私をじっと見つめる。責めるでもなく咎めるでもない無邪気な目をしていた。
「なぜ、三鬼さんは自分の双子のお姉さんを殺したんですか?」
鼓動がはやまる。救いを求めるようにリグルの姿を探す。いない。リグルの姿は消えていた。
「双子のお姉さんのハギさんは不破さんの恋人だったんですよね、嫉妬ですか?」
「嫉妬じゃない」
私は呼吸を整えようとする。だめだ。不意にあの笑顔が浮かぶ。私と同じ造りの顔、だけど表情の違いで、まったく別な人間に見える。輝くような、はじけるような私にはない特別な美しさを持った人。
「姉さんはすごく魅力的な人だった。頭がよくて、明るくて、出会った人はみんな姉さんを好きにならずにはいられなかった」
圭もそうだった。嫉妬。あの時は確かに嫉妬した。自分と姉さんの埋められない違いにあれほど苦しんだことはない。
「お姉さんとあなたはいつも一緒だったんでしょう?仲のいいお姉さんをなぜ殺したんですか?」
仲がいい?確かにそうだったかもしれない。少なくとも表面上は。
「私は姉さんを憎んでいた」
「かなわない相手だからですか?やっぱり嫉妬ですか?」
そんな幸せな理由ならどれだけよかっただろう。
「姉さんの放つ光の下には濃い影があった」
私はつぶやく。
「小さい頃から、ずっと私は姉さんにいじめられていた」
へぇ、と、遊理が身を乗り出す。
「姉さんは私をおもちゃにしていた。悲しませたり苦しめたりすることを楽しんでいた」
水に顔をつけられた。針で体のあちこちを刺された。理不尽な嫌で仕方ない命令をされた。逆らえなかった。私は姉さんの言いなりだった。
「10歳の時、小さな猿を飼っていた。名前をリグルと言ったの。そう、リグルよ。“他人に見えない友達”のモデルは姉さんだけじゃない。リグルはある日、姉さんに散々いじめられて、手をひっかいた。姉さんの手から血が流れた。姉さんは私に選べと言った。自分が拷問して苦しめてリグルを殺すか、私があっさり殺すかどっちがいいかって。私はリグルの首をしめて殺した」
姉さんはリグルを殺す私をほめた。
えらいよ、カイナ、ぼくの言うことをちゃんと聞くなんて。
「でも大人になり私は少しずつ変わった。姉さんと距離をとろうとした。決定的だったのは、19歳の時、大学で圭にであったことだった」
あの頃から圭は不器用で感情表現が下手だった。でも私は一緒にいると心が安らいだ。友達と呼べるようになった時には、一方的に深く愛していた。
「姉さんは、圭の存在に気づいて近づいた。当然のように圭は姉さんを好きになった。姉さんは言った。もし圭が気に入らないことをしたら、リグルにしたようにするんだよ、って。だから、私は、私は」
息ができない。視界がにじみ遊理の姿がぶれる。
『だから、ぼくを殺したんだね』
歌うような軽やかな声が言った。
もうそこにいるのは遊理じゃなかった。
『ひどい妹だよね、ほんと。馬鹿だし暗いし服のセンスは最悪だし、ぼくがいないと何もできないくせに逆らうし』
太陽のように輝く笑顔。背筋からこみあげる恐怖。逃げなきゃ、でも逃げられない、無理だ、怖い、怖い……私は顔を枕にうずめる。
だが、枕は形をなくした。体が宙に浮く。違う、水の中だ。視倉邸のホールのような濃淡のある青くうねる深い水だ。
息ができない。頭を押さえつけられている。浮かび上がることができない。
現実じゃないとわかっていた。でも心に合わせて肉体は死ぬ。
意識が遠のく。
その時、『カイナ!』遠くから声がした。
もう一度、『カイナ!』と呼ばれた。
『大丈夫、カイナ、助けるから』
よく知っている声だった。
『ふざけるなよ、ぼくのモデルは、サイコパスな姉さんでも、かわいそうな猿でもない。わかってるだろ?ぼくは、カイナが生まれて初めて好きになった相手で、カイナを必死で守ろうとした昔のあいつだろ?』
涙がこぼれて青い水の世界に溶けた。頭は押さえつけられていたけれど、手を上へと伸ばす。指先にふわふわの柔らかな毛が触れた。
目が覚めた。
窓の外には並木道があった。大学の敷地内にあった並木道で、圭とよく一緒に歩いた場所だ。
窓は、いつも通り私の記憶を映していた。
つまり、いつもの朝だった。
でもリグルはどこにもいなかった。
二日後の午後3時、部屋のドアがノックされた。
遊理だった。
「ほとんど食事をしてないと聞きましたよ」
気まずそうに言う。顔が青ざめて頬が痩せていた。遊理の方がやつれているみたいだった。
「コーヒーと紅茶、どっちにする?」
遊理は小さな声で、コーヒーを、と言った。
コーヒーに口もつけずに遊理は言った。
「この間、あの後、また三鬼さんの過去をトレースしてしまいました。小さい頃の、その、お姉さんのハギさんとの記憶です」
「そう」
「それから余り眠れなくて、あの、ぼく、失礼なことをしました。身勝手な好奇心で三鬼さんの心に土足で踏みこんで本当にすみませんでした」
深々と頭を下げる。
「いいの、気にしないで」
「怒ってないんですか?」
「少しも」
「でも」
遊理はとまどった顔をする。
「本当に怒ってないから」
言いながら、怒って見せたほうがよかったのかな、と考える。そうすれば遊理の罪悪感は薄れたかもしれない。
でも、実際少しも腹はたたなかった。研究者なら好奇心旺盛なのは当然だし、興味を持たれる方が無視されるよりずっといい。
「好奇心の対象になるってことは、気にしてくれたってことでしょう?だからいいの」
この狭い部屋で一生を過ごす私にとって、人との接触は、数少ない娯楽であり刺激だった。でも遊理はますます戸惑った顔をした。
「今日、圭は一緒じゃないの?」
話題を変えようとたずねる。
「ミーティングにでているので後から依頼人と一緒に来ます。先にコピー予定の写真だけ渡したくて」
私は写真を受け取る。三人の少年が学校の教室で笑っていた。
「リグルがいなくなったから、前みたいなアドバイスはもうできないけど」
「いないんですか?」
遊理は驚いたようだった。
「えぇ」
そう、リグルはいない。いつも私のそばにいて、守ってくれていた友達は去ってしまった。
「あの夜以来、リグルは一度もでてこない」
「え、でも」
「以前、『ぼくがいなくなったらどうする』って聞かれたの。どうすればいいか、まだ、全然わからない」
「いや、え?どういうことかな。三鬼さん、ほら、あそこに」
遊理が部屋の隅を指さした。
「今、テーブルの下に隠れました、ほら、こっちに来てます」
何もない。
「どういうこと?」
「え、だってそこに。ソファの上に」
遊理はおどおどとつぶやく。視線が不安定に揺れている。
「遊理、大丈夫?」
なんで見えないんですか、と、呻くようにつぶやき遊理は頭をかきむしった。
「ここのところ視倉邸の件で泊まり込み続きなんですけど、ぼくが眠ると現れて騒ぎだすんです。全然、まともに寝られなくて、発狂寸前です」
『カイナにあんなひどいことをしたんだから、ささやかな仕返しだよ』
声がした。
振り返る。
「リグル」
たった二日間、あっていなかっただけなのに懐かしくて涙がにじんだ。
『ただいま』
遊理がほっと安堵のため息を漏らした。
「よかった、これで眠れる」
「ちょっと待って、遊理」私はあることを疑問に思う。「リグルが見えるのは、あなたがアビリティを使っている時だけのはず。今のあなたは、実体じゃないということ?」
「えぇ、すみません、三鬼さんのところまでリグルさんを送リ届けたら、ぼくの意識から出ていってくれるって言われたので。あ、やばい、不破さんがミーティングから戻って来ます。うたた寝なんかしてるの見つかったら叱られるんで、後で、本当に来るようにします。失礼します」
遊理の姿がふっと消えた。手の中の写真も煙のように空気に溶けた。遊里のアビリティには慣れてきたけど、こんなに明るい時間だと、白昼夢に迷いこんだような不思議な気持ちになる。
「私、あなたが遊理のところにいるなんて全然気づかなかった」
『遊理の共有アビリティは、実はかなりすごいよ』リグルはニヤリと笑う。
『この二日間で、研究室のアビリティ保有者の“他人には見えない友達”にたくさんあったんだ』
私は驚く。
「本当に?」
『全員じゃないと思うけどね。でもさ、面白いのは、遊理も、見えない友達の本体であるアビリティ保有者もそれに気づいていないんだよ』
「そんなことありえるの?」
『ここ数日、カイナ、ぼくの存在を感知できた?』
私は首を振る。
『たとえば多重人格者は、他の人格が何しているのか知らなかったりするでしょ。アビリティ保有者の見えない友達は、もう少し高度で複雑なものだって考えられるのかも。それに、アビリティ保有者って、案外、自分のアビリティをコントロールや制御できてないんだよね。カイナだって写真に写っているものは無意識に全部コピーしちゃうでしょ。遊理が気づかないのも、別にそれほど不思議なことじゃない』
そう言ってリグルは部屋の中を飛び跳ねて、窓際のテーブルにたどりつく。いつもの場所に寝そべり目を細めた。
『懐かしいね』
窓の向こうには、野原が広がっていた。フェンスに囲まれた空間に青々と緑が茂っている。他愛ない記憶の断片。確か大学の近く、ビルが建つ前の小さな楽園だ。
春、名も知らぬ花の群れが咲き乱れ、夏にはむせかえる緑が空を目指した。秋は高らかな虫の合唱が満ちあふれ、冬には枯れ草に雪が散った。
四季折々の景色を眺めながら通り過ぎる時、隣には誰かがいた。
吸い寄せられるように私も窓のそばにたたずむ。
窓の外の景色は気まぐれに小刻みに変わった。秋の後に春が訪れた。春は溶けるよう冬に巻き戻された。
自由奔放な時間の中で“思い出”と“幻想”が混ざりあう。
『懐かしいね』
リグルがもう一度言った。
私は、うん、とうなずき頬杖をついた。
枯れ草の向こうに灰色の鳥の翼がひらめいた。




