表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
失われないブルー  作者: ふらり
第三章
10/12

不協和音の果てに

 皆が見ていた。

 羽に一筋、鮮やかな青が入った野鳥が庭の噴水のそばにいた。水を飲み終えて飛び立とうとした瞬間、水中へと落下した。

 鳥を拾い上げる。鳥は薄い膜状にコーティングされていた。

 父さんは研究者の顔で目を細め、カノンは「嘘みたい」と声を震わせた。ヨリは何故か自分がやったみたいに、すっげーだろと得意気で、アオはうずうずした様子でそばにきた。

 ぼくは、鳥をアオに渡す。アオは大切な宝物のように鳥を両手で受け取った。

 ぼくは父さんとカノンを振り返る。二人には、今日初めて見てもらった。反応が気になって仕方ない。

「アオくん、脚のところを持って、私に見せてください」

 父さんが言った。アオは鳥を掲げる。

「カケスですね」父さんはそっと鳥の頭に触れた。「これは生きているんですか?」

 多分、と答える。

 アオから鳥を返してもらい膜を取り去るイメージを描く。それから指先で背中のあたりをひっかいて切れ目をいれる。薄い膜は揺らめきながら勝手に蒸発していく。

 カケスの黒い尾羽が震え、一瞬、平衡感覚を失ってよろめいたあと、空へと飛び立った。

 皆が晴れた空を見上げる。

「まるで奇跡ですね」

 父さんに誉められ、ぼくは誇らしくなる。

「ねぇ、何でもあんな風にできちゃうの?」

 カノンが聞く。

「何でもって?」

「うーん、たとえばお料理とか?」

 ヨリがゲラゲラ笑った。

「ラップがわりにしようとするなよ」

「そうじゃないけど」

「料理は無理だ」ぼくは答える。「これは生きているものに対してだけできる。もっと厳密に言えば、ぼくが生きてると認識するもの、ということだけど」

「どういうこと?」

「野菜は生きてるかもしれない。たとえばジャガイモや玉ねぎも球根で発芽するんだから生きてると言える。でも、ぼくにとってはジャガイモはチップスの原料やカレーの具材であって生物じゃない。だからできなかった」

「試したのかよ」

 そう、あれから実は一人で色々と試していた。

「ところで、今、キオくんは鳥に手を伸ばしただけで触れてはいませんでした。離れていてもできるということですね?」

「できるけど、2m以内くらいまでです」

「ゴットハントよりすごいですね」

 父さんが感心した顔をする。

「距離的にはそうかもしれませんが」

 ゴットハントは半径45センチ以内に近づかないと対象を感知できない。

「ゴットハントみたいに捕まえたものを分析はできません」

「でも、鳥、こわがってなかったね」

 アオの台詞に父さんはうなずいた。

「貴重な瞬間をとらえ、動物も怯えさせない。ゴットハントより素晴らしいところがたくさんあります。会社の研究に協力してほしいくらいです」

 胸の奥がざわざわと温かくなる。

「はい、いつでも」とうなずくと、父さんは優しく微笑んだ。

 会社の研究に協力だなんて冗談だとわかっている。でも、本当に父さんの役に立てたらどんなにいいだろう。ぼくは父さんのことも、父さんの自然資源研究も心から尊敬している。


 夜、ぼくは興奮して眠れなかった。

 あの後、皆から色々なことを聞かれて答えたり、虫や花をコーティングしてみせたりもした。こんな風に、ぼくがみんなの中心になるのは初めてだった。変な感じだったけど、悪くなかった。

 コーティングはとても疲れる。集中力もいるし体も全力疾走した後みたいにぐったりする。今日は短時間でかなりの回数を行ったから本当に疲れ切っていた。でも頭の芯は熱っぽく、フル稼働していた。

 まだ、できそうだ、と思った。

 皆には言わなかったがコーティングはすればするほど精度があがる。最初、対象への距離は30センチ以内じゃないとできなかった。でも今は2mまでのびた。

 真夜中の1時を過ぎた。

 ベッドを抜け出して階段を降りる。ひそやかな話し声が耳についた。広間のドアから廊下に明かりが漏れていた。

 どうやら、声の主は父さんとカノンのようだ。二人ともいつも夜は早く寝る。こんな時間まで起きているのは珍しい。そっと広間のドアに近づく。

「お願い、もう一度、話し合いましょう」

「カノンさん、このことは何度話し合っても変わりません。仕方がないことなのです」

「どうしても?」

「どうしてもです」

「きっと、すごく傷つくでしょうね」

 カノンは悲し気なため息をついた。

「皆を守るためです」

「守るって。兄弟を引き裂くことが守ることなの?違う方法があるんじゃない?ヨリは感受性がすごく豊かなのよ。心に深い傷が残ることになったらどうするの?」

「カノンさんは、さっきからヨリくんのことばかり気にしていますね」

「あなたに言われたくないわ、いつもアオくんアオくんって、アオにばっかり構ってるくせに」

 カノンが声をはりあげる。

「カノンさん、冷静になってください。別に責めているわけではありません。子供に対して好き嫌いや相性があるのは、親だって人間なんだから当然です。ましてやあなたは血もつながっていないのだし、ヨリくんのことを一番に気にしていても問題はありません」

「別にそんなこと」

 と言いかけてカノンはうつむく。

「ただ、この問題は視野を広げ俯瞰的に取り組まなければなりません」

「アオもキオも大事だし大好きよ」

「私も皆大好きです。照れくさい言葉ですが愛しています」

「でもあなたはアオをひいきしすぎ」カノンが父さんをにらむ。「アオの写真ばっかり撮って、アオにばかり話しかけて」

「話がそれています」

 父さんは首を傾げた後、小さくため息をついた。

「これはお話しするつもりはなかったんですが」

「何?」

「私は山道の散歩が好きです」

「話をそらしているのはあなたじゃない?」

「大切なことです。関係も大いにあるので聞いてください」

 父さんは息を深く吸って、ゆっくり吐き出した。何かを覚悟するような呼吸の仕方だった。

「屋敷のすぐ裏側に細いけもの道があります。5分ほど歩くと小さな広場にでます。切株もあり座って休むのにちょうどいい場所です。私は歩いて思考をめぐらせることが目的なので、普段はここでは止まりません。でも数日前、立ち止まらずにはいられませんでした」

 父さんは言葉を切った。

「よく知っているような、懐かしくも不吉な匂いがしました。私は吸い寄せられるように広場の端の、森との境界へ行きました。茂みや落ち葉の上で無数の動物の死骸が腐っていました。虫、野ネズミ、鳥。種の異なるものの大量死です。しかもどれも不自然な姿で硬直していました」

 カノンが息をのんだ。

「ウイルスか何かによる伝染病を疑い、会社の研究所にいくつかをサンプルとして送りました。けれど死因は不明でした。でも、今日、ようやく原因がわかりました」

「まさか、そんな」

「覚えていますか?今日、私が“カケスが生きているのか”と聞いたとき、キオくんは“多分”と答えたのです。キオくんはとても慣れた様子で、あのアビリティを使いこなしていました。きっとあの広場で練習していたのでしょう」

「まさか……キオは何を考えているかわからない子だけど、そんなことをするわけ……」

 弱々しいカノンの声を遮り、

「アビリティ保有者には、問題のあるものが多いのです」

「問題?」

「例えば、反社会性パーソナリティ障害。一般的にサイコパスやソシオパスと言われるものですね。通常は人口の3%程度ですが、アビリティ保有者に限るなら2割を越えます。また、そこまではいかなくても不穏な思考や思想を持っているものが6割近くにのぼります」

「そんなの初めて聞いた」

「公にはされていませんが、統計データがあります。私は仕事で知る機会があり、アビリティ保有者と日常的に接している人間にも会いました。彼は言いました。アビリティ保有者は病んだ心の持ち主だと。あるいは心自体がない」

「あなたはキオがそうだっていうの?」

「私はキオくんが笑った顔も泣いた顔も見たこともありません。カノンさんはありますか?」

 カノンは弱々しく首を振った。

「幸いなことに、その時の仕事のおかげでアビリティ研究室のそれなりの地位の人間に知り合いがいます。明日、山を降りて彼にあい、早々にキオくんを隔離してもらうよう手配します」

「でもキオは……いい子よ、感情を表にだすのが下手なだけ。お手伝いもしてくれるし勉強も良くするし……」

「私もいい子だと思っていました。でもあの大量の死骸を見た後では確信がありません。キオくんは何をするかわからない、いつどう破裂するかわからない爆弾です。通報して専門家の手に委ねることが、ヨリくんやアオくんを守ることになるのです」

 短い沈黙の後、カノンはうなずいた。


 気づけば、ぼくは屋敷の外に飛び出していた。庭を抜け山道を走った。夜気が肺に染みて、ごちゃまぜになった感情がこみあげてきた。苦しい、辛い、でも涙はでない。いつもそうだ。父さんが言ってたようにぼくは感情を表にだすことができない。こんなに強く感じているのに。喜びや嬉しさを感じても、笑うことに結びつかない。だから異常者なのか?だから家族はぼくを必要としてくれないのか?ぼくは、父さんもカノンもヨリもアオも、家族みんなが同じくらい大好きなのに。

 やみくもに走っていたら木の根にひっかかって転んだ。体を打ち付けた痛みと、爆発しそうな肺のせいでそのまま動けない。地面はひんやりと湿っていた。しばらくして鼓動と呼吸が落ちつき、そのまま仰向けになる。

 黒くざわめく枝の向こうに星空が見えた。

 明日には、みんなと離れ離れになるのか?生まれ育ったこの山にも、あの家にも二度と戻ることはないのか?

 家族、山、家。ぼくの大切なすべてが失われる。

 絶望。

 これまで大げさだと思っていた言葉を生まれて初めて実感したその時、目の前を白っぽい鳥がかすめて通った。フクロウでもミミズクでもない。この辺りにあんな夜行性の鳥がいただろうか。

 錯覚かもしれない、と思った時、もう一度、その鳥がぼくの目の前を通り過ぎた。さっきよりはっきりと見えた。

 夢でよく見るあの灰色の鳥によく似ていた。鳥はしばらく枝にとどまり、ぼくを見下ろしてから飛び去った。

 ぼくは夢の暗示を理解する。いや、本当はずっとわかっていたはずだ。でも気づかないふりをしてきた。


 四羽の溺れる鳥がいて、一羽を選ぶ。でもそれは救うためじゃなくて、溺れさせるためにいらない鳥を選ぶのだ。ほかの三羽のために。


 ぼくは、選ばれた一羽だ。


 翌朝、まだ、朝もやが残る中、父さんは車に乗りこんだ。心なしか顔色が悪いし目の下は薄く黒ずんでいる。あまり眠っていないのかもしれない。

 車は出発した。

 窓の外を景色が流れていく。

 ぼくは注意深く待った。

「父さん」

 決めていたタイミングで、ぼくは後部座席の影から起き上がり声をかけた。

「おや、キオくん、どうしたんですか?」

 父さんの肩がびくりと震えた。振り返った横顔に怯えのようなものが浮かんでいた。だが、すぐに前を向き、いつもの穏やかな微笑みがバックミラーにうつされた。

「話があるんです。終わったら歩いて屋敷に戻るので、いったん車を止めてもらえませんか?」

 わずかな逡巡の後、

「分かりました」

 父さんはナビに手を伸ばした。

 車が止まる。

 父さんがぼくを振り返ろうとした瞬間、集中力を最高に高めた。頭の芯が焼き切れそうなほど熱くなり、生ぬるい鉄の味が唇についた。鼻血だ。

 父さんの全身は薄い膜で覆われていた。

「父さん」

 呼びかけるが返事はない。髪の毛の一本一本、靴の先まで完全にコーティングされ、父さんは微動だにしない。

 成功だ。

 ぼくは車を降りて助手席に移動する。

 父さんの頭をそっと押して目をナビに近づける。網膜認証が通り、ナビのオーナー操作ができるようになった。自動運転モードの完全解除、責任がどうとかと書いてある複数の警告文言をOKで抜ける。

 もう一度、車を降りて、父さんが座る運転席側にまわりドアを開ける。

 しばらく父さんの姿を目に焼き付ける。それからそっと抱きしめる。

「ごめんなさい」

 ぼくも父さんと同じだ。溺れさせる一羽を選ばなきゃいけなかったんだ。

 父さんはほかの三羽を守るために。

 ぼくはほかの三羽と一緒にいるために。

 父さんから離れる。息を深く吸って集中する。今度は鼻血は流れなかった。でも、父さんを包む膜がゆるんだのはわかった。膜は厚めにしたからすぐにははがれない。父さんの足をアクセルにのせて、ドアを閉める。この先はまっすぐ行けば急な崖だ。車が落下した後、膜は蒸発して消えるだろう。

 ぼくは振り返らないように屋敷に向かって走り出す。背後で車が道を飛び出して枝や落ち葉を荒々しく踏む音が聞こえた。

 耳をふさぐ。早く戻ってベッドにもぐりこんで眠ろう。すべてが夢だと思えるように。


 バイキング形式の食事はとても人気みたいで、どんどんなくなり、どんどんドローンが補充していた。

 ぼくの前にはカノンが盛り付けてくれた皿があった。一口食べてみる。味がしなかった。心の麻痺は舌に影響するようだ。

 屋敷内は、思い出を語るささやきに満ちていた。青い海の底のような一階ホールで誰もが悲しげに、あるいは懐かしげに父さんについて語っていた。話の輪に加わるにはぼくは子供すぎたので、片隅でこっそりと耳を傾けていた。素早い魚の尾びれのように父さんの面影が何度もひらめいた。あちこちに父さんがいるみたいで胸がいっぱいになった。

 父さんが亡くなって一週間、今日は親しかった人たちを招いた追悼会だ。

「これうまいぜ」

 ヨリが現れぼくの皿からエッグスティックをつまみ食いした。細長い円柱状のスティック食品は、父さんの会社で開発された途上国向けの飢餓対策の商品だ。栄養が豊富で特殊なフリーズドライ効果で半永久的に腐らない。唾液に反応して口の中でだけ溶け出す仕組みだ。

「なんか雰囲気、暗いよな」

 軽口をたたくヨリの目は厚ぼったくて真っ赤だった。毎晩、泣き続けていることがわかる目だった。

 エッグスティックを食べ終えると「来いよ」とヨリが言った。

「アオが面白いものを見つけたんだ」

 ヨリが向かったのは二階の書斎だった。

 誰もいない。

「アオは?」

「こっちだ」

 ヨリはデジタルブックを取り出して操作する。すると本棚の裏側でカチリと音がした。本棚の真ん中がへこむように後ろへと下がった。それから左側にスライドした。床にレールが組み込まれているようだった。

 本棚の真ん中がぽっかりと開いた。薄暗い空間にベッドがあり、その上にアオがポツンと座っていた。

 隠し部屋だ。

 ヨリの後について中に入る。

 ベッドばかりが何台も並ぶ奇妙な部屋だった。

「たまたま見つけたんだけどさ、ここって元々ホテルにする予定だったらしいじゃん。余ったベッドをしまっているのかもな」

 言いながらヨリはデジタルブックを再び操作した。また本棚がするすると動く。書斎への出入口は閉ざされて壁になった。

 外からの光が途絶える。足元の保安灯が弱々しくともる。

 ヨリはアオの横に座った。

「キオも座れよ」

 二人に向かいあう形で隣のベッドに腰かける。ヨリもアオも輪郭はわかるが表情はほとんど見えなかった。少し大きな影と、少し小さな影。

 不意に小さな影が「どうして?」と悲しげに言った。

「どうしてお父さんを殺したの?」

 少しの沈黙の後「何の話?」とかすれた声で聞き返す。

「どうしてお父さんを殺したの?」

 もう一度アオは繰り返す。悲しげだが声は確信に満ちていた。答えられずだまりこむ。

「ちゃんと否定しろよ」ヨリが怒った。「キオがそんなことするわけないんだからさ」

「あの朝ね、お父さん、ぼくの部屋に来たんだよ。これから山を降りるって言いにきてくれた。いつもと様子が違って寂しそうだったんだ。だから心配で、ぼく、部屋の窓から父さんを見ていたんだ。父さんが車に乗って、車の後ろの座席のところにキオが隠れているのが見えたんだ」

 なるほど、と思う。二階のアオの部屋から見下ろしたら、隠れているぼくが見えただろう。

「どうしてぼくなんだ?ヨリかもしれない」

「は?なんで俺なんだよ?」

 ヨリが憤って立ち上がる。アオがヨリの服の袖をそっとひっぱった。ヨリは泣きそうな声で、ふざけんなよ、とつぶやいてまた座る。

「ヨリじゃないよ」アオは断言した。「ヨリの部屋に行ったんだ。ヨリは寝ていたよ。でも……キオの部屋には誰もいなかった」

 ぼくは困り果てる。二人はぼくの答えを待っている。部屋は静かで、だんだん薄闇に目が慣れてくる。アオとヨリの表情がわかるようになる。二人とも悲しそうで苦しそうな顔をしていた。

「何か理由があって乗ってたんだろ?たまたま助かったんだろ?」

 ヨリは無理やりつじつまを合わせようとしていた。

「お前が父さんの事故に関わってるわけないんだからさ」

 アオはうなだれる。

「じゃぁ、どうしてキオはここにいるの?どうしてお父さんと一緒に事故にあわなかったの?もし、運よく助かったとしてもお父さんの車に乗っていたら、事故のことは知っていたはずだよね。お父さんが落ちた崖は家からすぐそこなんだもの。でも、お父さんの事故がわかったのは、あの日、あう予定だった人から連絡があったからだよ。5時間以上もたってからだよ」

 ぼくはアオがゲームが得意な理由に気づく。アオは感情のせいで論理が曇らない。ヨリみたいに信じたいことを信じるなんてことはしない。父さんが誰よりもアオを愛した理由もそういうことかもしれない。

「キオが話してくれるのをずっと待っていたんだ」

 アオはぼくのしたことを確信している。

「ごめん」

 ぼくは謝る。

 これ以上、二人を悲しませたくないと思った。


 気づいたらヨリとアオは折り重なるようにベッドに横たわっていた。薄く柔らかな膜で覆われている。狭そうだったので、ぼくはアオを隣のベッドに移動した。膜ごしに目があった。もう意思はない。でもアオの目は問いかけていた。

 どうして、と?

 目をそらし、なるべく自然な姿勢にして布団をかける。ヨリにも同じようにした。二人がいつか目覚めたら、今日の事、いや、父さんの死の原因を忘れていてくれないだろうか。都合のいいことを考えていたら、鼻血が垂れて唇についた。しょっぱくて金臭い。ぼくは自分のシャツの裾で乱暴に拭った。

 目眩がした。鼻血は流れ続けるし、頭痛もするし、疲れ切っていた。ぼくも二人のようにベッドに横になりたかったが、それはだめだった。

 ぼくはヨリの持っていたデジタルブックで壁を開けて書斎へでた。

 これからすることを考えてため息がこぼれた。

 ぼくはカノンに嘘をつかなければならない。ヨリとアオと森で遊んでいてはぐれてしまったと。とても気が重かったが仕方なかった。カノンに協力してもらう以外、やりようがない。



「5歳の時にね、親に売られたの」カノンは言った。「母親が私を海辺の町に連れて行ってくれた。そんなことは初めてで私は嬉しくてはしゃいでいた。そのうち知らないおばさんがやってきた。母とは知り合いみたいだった。おばさんはとても優しそうな人で、私に甘いココアをくれたの。

 母親は言った。私は用があるから先に帰るけど、おばさんが楽しいところに連れて行ってくれるから、と。

 私は素直におばさんについていった。おばさんは私の手を引いて、海沿いの道路を歩き続けた。どこに連れて行ってくれるのだろうとワクワクしていたら駐車場についた。広いけど、余り管理されていない雰囲気だった。ホコリをかぶったり、窓が割れている車もあって。

 私たちは駐車場の一番端まで歩いた。そこには何台もトラックがあって、おばさんはあたりをさりげなく見渡してから、トラックの荷台を開けた。中にはたくさんの木箱が積み上げられていた。おばさんは木箱の一つを開けて、私に中に入るように言った。嫌だと言うと無理やり押し込められた。おばさんは見た目よりずっと力があった。逃げようとしたけど体が思うように動かなかった。ココアに何か入っていたんだと思う。木箱にも何か仕掛けがあったのかもしれない。木箱の蓋が閉じられると、私はすぐに意識を失った。

 目が覚めると薄暗い部屋にいた。何人もの子供たちがいた。皆、木箱に詰められて、気づいたらこの部屋にいたと言っていた。

 そのうち男がやってきて、私たちにこう言った。子供同士での会話は禁止、大人に逆らうのも禁止だ、と。私は、そんなのおかしい、ここはどこ、と怒って叫んだ。他の子供たちも口々に似たようなことを叫んだ。男はにっこり笑って“しつけだ”と言って私を思いっきり蹴っ飛ばした。

 それからは毎日、殴られたり蹴られたりした。でも時々、優しくされた。優しいと言っても普通のことだけどね。ご飯をもらえるとか、夜、ゆっくり眠らせてもらえるとか。

 いつからか子供たちのほとんどは“大人”にすりよって忠誠を誓って生きるようになっていた。大人たちがくれる優しさにすがるしか生きる方法がなかったから。でも私だけは逆らうのをやめなかった。優しさにも感謝なんかしなかった。殴られてばかりいたし、ご飯もほとんど食べられなかった。それでも、どうしても従うことはできなかった。私たちをいたぶる大人が時々、両親にだぶった。怒りが抑えられなかった。大人たちが憎くて仕方なかった。

 ある日、私はまた大人に逆らった。大人は舌打ちまじりに言った。しつけられない動物は殺すしかない、明日、お前を処分すると。処分の意味はわかっていた。それまでにも病気になったり、精神的におかしくなった子供が何人か処分されていたから。

 怖かった。私はずっと部屋の隅で震えていた。不思議だね、あんなにひどい生活をしていてもまだ生きたいと願うんだから。あの頃の私は、今よりずっと生命力が強かったかもしれない。

 死への覚悟ができないまま夜になった。急に、世界がぱっとまぶしく輝いた。次の瞬間、嫌な匂いの煙が部屋に流れ込んできた。

 気づいたら私は透明のケースのような部屋にいた。

 柔らかいマットレスの上で、点滴をうたれていた。

 たくさんの“大人”がケースの外から私を見ていた。でもあの暗い部屋の“大人たち”とは雰囲気が違った。その中の一人が、こちらに向かって歩いてきた。白衣を着た背の高い男性だった。そう、それがカナメさん。皆が止めるのもきかず、カナメさんは透明ケースの中へ入ってきた。

 カナメさんは言った。

 “あなたは、すごく面白いですね”って。

 カナメさんはしゃがみこんで、私に手をのばした。なんだか腹が立って怖くて、私はカナメさんの手に噛みついた。ケースの外の人たちが騒いだ。でもカナメさんは、だまって私に噛ませていた。静かに笑いながら、大丈夫、ここは安全ですよ、と言った。私は噛むのを止めた。カナメさんの手が私の頬に触れた」

 その時の感触を思い出すかのように、カノンは頬に自分の手をあてた。

「カナメさんは“一緒に来ませんか”と言った。私は、うん、って答えた。そして視倉コーポレーションの養育施設に連れていかれて、いろいろなケアを受けて、学校にも行くことができた」

「人体売買はいまだに横行している。でも父さんの会社は被害者に色々な支援を行っている」

「そうね、おかげで学校を卒業後、優先採用枠で視倉コーポレーションで働くことができたの。恩返しができると思った。だから必死で働いた。いくつかのプロジェクトを成功させて、カナメさんに再会することができた。あの時は本当に嬉しかった。私たちは少しずつ親しくなった。カナメさんに、家族になりませんか、と言われた時は世界中がキラキラして見えた。カナメさんの手を噛んだあの日から、私は恋していたから。私にとってカナメさんは命の恩人で、夫で、時々は父親でもあった」

 カノンは決意を秘めた強い目でぼくを見た。

「いいよ、あなたの計画通りにしよう。この屋敷を一緒に守っていこう」

「ありがとう」

「ここは私たち家族の大切な場所だもの。ほかの誰かに渡すなんてありえない」

 ぼくは何だか泣きそうな気持ちになってうつむく。

 カノンの細い腕がぼくを引き寄せる。抱きしめられ、とても安らぐぬくもりに、いっそ全てを打ち明けたくなる。

 でもできない。

 父さんが事故死じゃないことも、書斎の隠し部屋にアオとヨリがいることも。知ればカノンはぼくを許さないだろう。ぼくはカノンを失いたくなかった。

「あなたは涙を流さないで泣くんだね」カノンはささやいた。「これまで気づけなくてごめんね」

 ぼくはカノンを抱きしめ返す。頭をぽんぽんと撫でるように叩かれる。姉のような存在だったカノンが母親に変わった瞬間だった。

「泣けないと困るだろうか」

「涙は人に見せるものじゃないからいいけど、笑う練習はしないとね」

「できるかな」

「大丈夫」

 カノンの体が離れる。ぼくの顔をじっと見つめたあと、指先がぼくの口の端に触れた。軽く上に持ち上げられる。

「目を細めてここを動かしてみて」

 言われた通りにする。カノンがくすりと笑う。

「ぎこちない。でも無表情よりずっといいよ」

「あとで鏡を見て試してみる」

「一緒に乗り越えよう。家族なんだから」

 その時『うまく騙しましたね』という声が頭上から降ってきた。視界を灰色の鳥が横切った。あの夜に見た鳥。夢の中で溺れていた鳥だった。今日は羽が濡れていて、丸い水滴が宝石みたいに輝いている。

 鳥は天井付近をぐるぐると円を描き飛びまわる。

『嘘は最後まで突き通しなさい』

『やっぱり嘘なんてよくないよ』

『すぐにばれるんじゃね?』

 色々な声と口調で鳴いた後、鳥は窓をすり抜けてどこかへ飛び去った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ