1.身に覚えのない婚約破棄騒動
「いや、本当に突然なんだよ! ブレアに婚約破棄されたのは!」
夜会場の中央で響いた大声に、私は足を止めた。
なぜなら今聞こえてきた台詞の中に、私と同じ名前があったからだ。
煌びやかなシャンデリアの下、人だかりの中心にいるのは、うちと同じ五大商会の一つ、ミリス商会の跡取りギルバートだ。
確かに二週間前、彼との縁談話がミリス家から持ち込まれた。
でも、私は即座にお断りしている。
ミリス商会長である彼の父親も、その場では納得して話を引っ込めたはずだ。
だから、彼の言うブレアは、きっと違うブレアだ。
そうに決まってる。
「ブレアっていうのは、もしかしてレイバン商会のですか?」
周囲にいた一人がそう尋ねると、ギルバートは同意するように深く頷いた。
……まさかの私、ブレア・レイバンのことだった。
おかしな話だ。
婚約どころか、話は一歩も進んでいない。
それなのに、なぜ婚約破棄になるのか。
わけが分からない。
だけど、夜会の参加者たちは、困惑と面白がりの入り混じった視線をギルバートへ向けている。
……夜会の噂は厄介だ。
これが事実でないとしても、放っておけば、レイバン商会の娘が一方的に婚約を破談にしただの、ミリス商会と関係が悪化しているだの、勝手な尾ひれがついて広がっていくだろう。
面倒極まりないけど、ここで火消しをしないほうがもっと面倒なことになる。
私は小さく息を吐くと、ドレスの裾を軽く持ち上げ、人だかりの中心へ向かった。
「お話中失礼します。その話に出てくるブレアとは、どなたのことですか?」
私がにこやかにあえてそう声をかけると、ぴたりと場が静まった。
ワイン片手に饒舌に話していたギルバートは、私を見るや否や満面の笑みを浮かべる。
「ブレア……!」
「ええ、ブレアです。それでギルバート様、今、誰に婚約破棄されたと?」
笑顔のまま尋ねると、ギルバートはなぜか勝ち誇ったような顔をした。
「決まっているだろう、君だよ! ようやく来てくれたんだな。みんなの前できちんと説明してくれ。どうして俺たちの婚約を破棄したんだ?」
俺たちの婚約。
その言葉を聞いた瞬間、私は微笑みを崩さないまま、事実を告げた。
「そもそも、あなたとは婚約していませんけど」
しんと広間が静まり返る。
ギルバートだけが、きょとんと目を瞬かせた。
本気で私がはぐらかしていると思っているらしい。
彼はかすかに戸惑ったように首を傾げると、笑いながら言った。
「な、何を言っているんだ、ブレア。少し前に父上がレイバン家に縁談を持ち込んだろう。君だって俺に悪い気はなかったはずだ。なら婚約は成立していたも同然じゃないか! なのに、今日になって父上が急に『あの話はなしだ』と言ってきて……」
なるほど、話が見えてきた。
どうもギルバートは、縁談を持ち込んだ時点で、私が断るはずがないと勝手に思い込んでいたらしい。
昔から私が彼のことを好きだ、という妙な勘違いをしているとは思っていたけど、ここまでだったなんて予想外だった。
私は何度も、あなたのことは好きじゃないって伝えていたのに。
事実でもないのに彼の言葉を認めるわけにはいかない。
私は表情を引き締めて言った。
「まず、成立していたも同然と、成立していた、は別物です」
私はきっぱりと言い切ったあと、続けて、縁談の話はあったけどその場で断ったことを告げた。
けれどギルバートはなおも食い下がる。
「嘘だ!」
「断りました」
即答すると、ギルバートはわずかに青ざめる。
「そ、そんなの信じられるわけないだろう!? 君は俺を昔から意識してたんだし」
「していません」
「照れ隠しなんていらないから」
「事実です。――以前からお伝えしていますが、私は、あなたのことを一度もお慕いしていたことはありません」
再び即答すると、今度は周囲から小さな笑いが漏れた。
ギルバートの顔がみるみる赤くなる。
もう引っ込みがつかないのだろう、彼は半ば叫ぶように言った。
「とにかく! このミリス商会が直々に縁談を持ち込んだんだぞ! それなら普通、前向きに進んでいると思うだろう!」
「前向きに進めるかどうかを決めるのは、当事者です。少なくとも私は、一度も了承していません」
私はそこで一歩前に出た。
「それなのに、勝手に婚約が成立したことにされ、今のように婚約破棄されたと触れ回られては困ります。事実と異なる噂は、私だけでなくレイバン商会にも迷惑ですので。これ以上続けるようでしたら、商会として正式に抗議します」
さすがに商会の名を出したことで、周囲の空気が変わった。
単なる男女のもつれでは済まないと、みんなようやく理解したんだろう。
ギルバートもその変化を感じたのか、わずかに怯んだ。
けれど、ここまで盛大に騒いでおいて今さら引っ込みがつかないのか、まだ諦めてくれない。
「で、でも! 君ほどの家柄なら俺と釣り合いも取れて条件は悪くないはずだ!」
……なんで彼はこうも分かってくれないんだろう。
私は痛む頭を抱えそうになりながらも、毅然とした声で答える。
「条件の話をしているのではありません。私はあなたとの縁談をお断りしました。それがすべてです」
数秒の沈黙のあと、ひそひそ声が広がった。
「婚約は成立していなかったのか」
「では、ギルバート様の勘違い……?」
視線は完全に彼へ集まり、ギルバートの顔色が変わる。
「ち、違う! 俺はただ――」
「ただ、何ですか?」
「……く、くそっ! こんな大勢の前で俺に恥をかかせて、君はなんてひどい人間なんだ! 俺を心の中では笑いものにしているんだろう! 性格が悪いぞ!」
「先に事実と異なる話を広めたのは、あなたです」
ギルバートは言葉に詰まり、さすがにこれ以上は無理だと分かってくれたのか、
「覚えていろっ!」
そう言うと、物語でよく聞く捨て台詞を吐いて、そのまま人混みの向こうへ逃げていった。
周りの参加者たちからの話を聞くと、彼があんなふうに騒ぎ出したのはこの夜会が初めてらしい。
それならよかった。
夜会に出るたびに毎回訂正して回るのは大変だから。
ひとまず、これで誤解は解けたはずだ。
とはいえ、私は内心でため息をつく。
あの様子だと、ギルバートはしばらく私に執着するだろうな。
彼の粘着質な性格は、よく知っている。
そう思いながら顔を上げた先で、一人の男性と目が合った。
会場の端に立つ、濃紺の礼装の青年。
背筋をきっちり伸ばしたその姿は、騎士団きっての堅物として知られる私の友人、オーウェンだ。
仕事一筋でこういう場にあまり顔を出さないのに、珍しいこともある。
彼は私へ向けて同情するように、わずかに眉を寄せた。
でも、私はむしろ彼の方に同情した。
見目麗しいせいで令嬢たちにしっかり囲まれ、隣にはリーリア王女までいる。
相手が相手なだけに、離れたくても離れられないんだろう。
わずかに困ったような表情が、それを物語っていた。
……助けに入るべきか。
一瞬だけ考えたけど、その前に今度は私のほうへ、縁談目当てらしい男性が入れ替わり立ち替わり声をかけてくる。
こういう集まりに参加すると、最近はいつもこうだ。
別に結婚そのものを否定したいわけじゃない。
だけど彼らが見ているのは、私自身というよりレイバン家の名前と財力だ。
そんな相手のために、現場を離れる気はない。
私はずっと、最前線で仕事がしたいのだから。
それなのに……。
ただでさえこんな不毛な縁談を断るだけでも時間がもったいないのに、自称元婚約者の相手まで増える可能性も出てきた。
――平穏に仕事がしたい。
ただそれだけなのに、どうしてこうも次から次へと邪魔が入るんだろう。
そう思いながら、私は今夜も愛想笑いを浮かべるしかなかった。




