05
ソフィアが目を閉じて、ヨハンの親指の爪よりも小さな手を合わせると、不意に支給されている、端末水晶が震えた。
《ハーレークイン・シックスへ――こちらハーレークイン・ナイナー。至急、晩ごはんの献立を教えて。私は木の実と根菜のキッシュが食べたい。送れ》
端末水晶の仕組みは、同じチャンネルを使用している小隊の全隊に、通信の内容を同時に送信する。
しかし、ソフィアは通信に独自の暗号化を施して――ヨハンの端末だけに音声が届くようにした。
《あなたと内緒話がしてみたい――って言ったら、嬉しい?》
ソフィアは無表情のまま訊いてきた。
こういう、きめ細やかな調整ができるということは――それを逆手に取って、応用できるかもしれない。
例えば帝国軍全体の通信を傍受し、あるいはこちらの情報を一方的に送れるのではないか。
ヨハンの質問に、
「使用している暗号鍵を取得すれば可能」とソフィアはあっさりと肯定した。
また彼女は、
「帝国の端末水晶が使用している暗号鍵の管理は、妖精族に一任されている」とヨハンに教えた。
「悪用したら、帝国をひっくり返せそうだな――ぬへへ」
ヨハンはそう言って笑った。
「したい?」
妖精の少女に訊かれた――素行不良の青年将校は首をかしげた。
「帝国をひっくり返したら――道を歩く女の子のスカートが全部めくれるってなら、考えてやってもいいぜ♪」
いつもの減らず口をたたいた上官に、ソフィアは冷徹に告げる。
「帝国の道を行く人は、女の子だけじゃない――老若男女、さまざまな人がいる」
「ババアのパンツなんか見たら、アレルギーと髄膜炎と肺の壊疽を併発して死んじまう――やっぱ、やーめた」
「それがいい」
ソフィアが言うと、ヨハンは通信の講義に戻ることにした。
「ところで、小隊内で通信が完結するときは、部隊名は略せ――あと、キッシュなんて洒落たものが、基地の食堂で出るわけないだろ。金曜の晩飯はビーフ・カリだ」
《ナイナー、了解――肉は嫌いだから外で食べたい。ブレイク、シックスの随伴を要請する》
「まるで〝同伴出勤〟だな――いいぜ、受けて立ってやる」
妖精族始まって以来の才媛――という謳い文句に偽りはなかった。
彼女は有能で、覚えた仕事はすべて完璧にこなす上に――誰よりも早く片付けた。
それには理由があった。
「俺のカップになんてことしやがるっ!?」
執務室でヨハンの怒声が響いた。
「お風呂にちょうどよかったから」
悪びれた様子もなく――ソフィアは裸になって、湯浴みをしていた。
湯船の代わりに、ヨハンがいつもカプチーノを飲んでいるカップを使って。
彼女が誰よりも早く仕事を終わらせるのは、不潔な軍隊の基地でつく埃や汚れを――風呂で落とすためだという。
しかし、男性社会の軍の基地に〝女湯〟という都合の良いものは存在しない。
また、妖精族が使える設備もなかった。
「ヨハンのカップは泡立ちが良くて使いやすい」
「そりゃあ、カプチーノ用だから――って、そこじゃねえよ!」
妖精の少女は素知らぬ顔で、両手ですくった石鹸の泡に息を吹きかけている。
飛び散った泡がカップの中の湯に戻って、溶けていく。
引き出しの中から虫眼鏡を見つけたヨハンは、
「アー・ビバ・ノンノン♪ で、いい湯だなってか? この見物料でチャラにしてやるよ」と言った。
裸を見られてもソフィアはまったく気にせず、
「安上がり――あなたの品性とおんなじ」と言った。
間もなく、廊下を挟んだ向かい側の談話室からガラスの砕け散る音が響いた。
おそらく、各部隊から集めた荒くれ者の軍人たちが――羽目を外したのだ。
先ほどまで大人しくカードゲームをしているかと思えば。
賭け事に発展した途端に、この有様だ。
普段なら兵たちを統率する上級曹長――シニアはヨハンの代理で、隣の州にある幼年学校に出張していた。
例の副官として任命された、ミリアムを迎えに行くためだ。
ソフィアが言う。
「副官には綱紀粛正をしてくれる、厳格な人が必要」
これにはヨハンも全面的に同意する。
「ああ――上官のカプチーノ用のカップを風呂にする、生意気なメスガキ妖精ちゃんを粛清してくれるような、厳しいやつだとなおよしだ」
彼は大真面目な口調で言って付け足す。
「エロい身体をした貴族の女で、俺の言うことを何でも聞いてくれる素直で従順なやつだと、もっといい――あ、待った。嫌がりつつ命令に〝仕方なく従う〟ってのも、乙だよな?」
ソフィアはカップから立ち上がった。
裸をあらわにして、腕組みしながら言う。
「あなたでも〝水は低きに流れる〟って聞いたことある?」
ヨハンの覗いている虫眼鏡を通して、妖精の少女は辛辣な口調で訊いてきた。
これに彼はいつもの調子で返す。
「万有引力を発見したやつの言葉だろ? 馬鹿にすんなよ――それくらい知ってるっつうの。南半球で太陽が西から昇ることだって、俺はちゃんと知ってるんだ」
「知らないならそう言えば?」
またしてもガラスの砕ける音が響いた。
ヨハンは虫眼鏡を机に放り出して――椅子から立ち上がった。
執務室を出るなり、廊下でヨハンの怒鳴る声がする。
《なにやってんだ! ガラスを割る元気があんなら、今から全員でマラソンするぞ! 警備兵に捕まったやつが罰として後始末だ!》
その命令を合図にするかのように、廊下には軍靴の足音が響いて、遠ざかっていった。
ほどなくして、警備隊の笛の音が基地の中を縦横から聞こえてくる。
執務室に残されたソフィアは呟くように言う。
「お母様へ――軍隊は粗野で野蛮で不潔な人間の男たちの巣窟だった。想像よりもはるかに、快適さと無縁。でも、あの人間のせいで退屈だけはしない。だから、しばらく帰らない。いいでしょ?」
その日の夕方。
性格や素行に問題があるとはいえ――屈強な下士官たちにヨハンは持久走で負けた。
彼は、部下が割った窓ガラスの後始末にかかりきりだ。
掃除をはじめとして、備品の損耗の報告書――部下の監督不行き届きを基地司令に詫びる、始末書に追われている。
「ふぇえん、書き終わんねえよう――ぴえん」
情けない声をあげるヨハンを見て、
「鳴いてるのはあなたじゃなくて、私のお腹――ぺこぺこって意味」と、ソフィアは言った。
第3章 妖精ソフィアはペンを抱えて踊る♪




