決戦前夜
【リリアーナ視点】
時計塔の秘密の部屋。
窓から差し込む冷たい月明かりが、床に広げられた王都の地図や、いくつかの貴族家の紋章が記された羊皮紙のリストをぼんやりと照らし出していた。
レオナルド様が、その鋭い瞳で資料を指し示しながら、低い声で作戦の細部を説明している。
その隣では、アルフォンス殿下が真剣な表情で頷き、ヴィクトル様は腕を組んで壁に寄りかかりながらも、その視線はレオナルド様の言葉を一言も聞き漏らすまいと集中していた。クララ様とエリス様も、それぞれの席で、緊張と決意の入り混じった表情を浮かべている。
アネットには、エリス様が考案した通り、表向きは私がエリス様を避け、時に威圧的な態度を取っているように見せかけ、彼女がエレオノーラ様に「リリアーナ様は相変わらずエリス様を敵視し、孤立しているご様子ですわ」と報告するように仕向けていた。エレオノーラ様を油断させ、私たちが水面下で動くための、貴重な時間稼ぎだった。レオナルド様の分析によれば、エレオノーラ様は現在、次の創立記念魔法実演会で私を完全に破滅させるための準備に集中しており、私たちのこの小さな抵抗など、取るに足らないものと高を括っている可能性が高い、とのことだった。
その夜から、私たちの戦いは静かに始まった。
ヴィクトル様とエリス様は、その卓越した行動力と、エリス様の場合は平民としての顔も使えるという意外な利点を活かし、幾度となく夜陰に乗じて、ヴァイスハイト家の王都別邸や、時にはアルブレヒトお父様が滞在している領地の屋敷の周辺にまで足を運び、エレオノーラ様の悪事の証拠となりうるものを探り始めた。
庭の構造、警備の薄い時間帯、使用人たちの動向などをエリス様が原作知識と彼女自身の機転で指摘し、ヴィクトル様が騎士としての卓越した身のこなしで潜入を試みる。
目的は、エレオノーラ様の日記や手紙、あるいはエドガー先生が作成したという『アリアの呪い』に関する捏造資料の原本や怪しげな薬品などだった。まだ決定的なものは見つかっていなかったが、いくつかの不審な金の流れや、エレオノーラ様が密会していた怪しい商人たちのリストは手に入りつつあった。
一方、レオナルド様とクララ様は、その知性と情報網を駆使し、昼間の世界で動いた。
レオナルド様は持ち前の驚異的な分析力と、アストレア公爵家の人脈を使い、エレオノーラ様の過去の経歴や不透明な金の流れ、彼女と密かに繋がりのある怪しい商人や、弱みを握られている貴族を徹底的に洗い出す。
クララ様は、ベルンシュタイン伯爵令嬢としての立場を利用し、王都の華やかな社交界の噂や、エレオノーラ様に不満を抱いている侍女などから、慎重に情報を集めていた。時には、エレオノーラ様の息のかかった人物にあえて親しげに接触し、偽情報を流して撹乱するという大胆な行動に出ることもあった。
そして、私は……アルフォンス殿下の厳重な監督と、そして何よりも温かい保護のもと、学院の使われていない古い温室――サンルームよりも人目につかず、それでいて陽光が十分に注ぐ場所――で、自分のこの『生命魔法』を制御し、安全に、そして有効に使うための訓練を、来る日も来る日も続けていた。
アルフォンス殿下は「焦らなくていい、リリアーナ。君の力は、決して呪いなどではない。それは、君の優しい心が、まだ制御の仕方を知らないだけだ」と、いつも辛抱強く励ましてくださった。
クララ様も、「大丈夫ですわ、リリアーナ様。あなたの力は、きっと多くの人を救うことになりますわ」と、その温かい手でわたくしの手を何度も握ってくれた。
エリス様も、時にはひょっこり顔を出し、「リリアーナ様ならできるわ! 私の原作知識によれば、その力は使い方次第で最強の癒やしになるはずよ! それが『生命の聖樹の巫女』の力なんだから!」と、独特の調子で元気づけてくれた。
仲間たちの揺るぎない励ましと、そして何よりも、エレオノーラ様の悪事を止めたい、これ以上誰も不幸にしたくないという強い意志が、私の心を支えた。徐々に、ほんの少しずつだけれど、私はこの力を、自分の意思でコントロールできるようになり始めていた。その力は、まず、疲弊しきっていた私自身の心を内側から癒し、次に、夜遅くまで作戦を練る仲間たちの疲労を和らげたり、潜入で負ったヴィクトル様の小さな切り傷を瞬時に治したりする形で、建設的に、そして秘密裏に使われ始めた。
私の表情にも、ほんの僅かながら、以前にはなかった明るさが戻り始めていた。
そんなある日、王都に大きな、そして私たちにとって僥倖とも言えるニュースが舞い込んだ。
隣国ディオメーデスのアンキセス・マグナス第一王子が、両国の親善を深めるための大規模な外交使節団を率い、近日中に王都アーシェンブルクを公式訪問されるというのだ。
エリス様は、その知らせを聞いて、わっと歓声を上げた。
「アンキセス殿下……! やったわ! きっと、お祖父様が、わたくしの手紙を読んで動いてくださったのに違いないわ!」
彼女は、祖父である隣国の軍師ウォーレン・ミラー様に、私たちの状況と、エレオノーラ様の危険性、そしてヴァイスハイト家と王家の危機を訴える密書を、信頼できる特別なルートで送っていたのだ。
数日後、アンキセス王子は、ディオメーデス王国の壮麗な行列と共に王都に到着した。
その行列の中心で白馬に跨るアンキセス王子の、黒髪に理知的で涼やかな藍色の瞳を持つ、凛とした佇まいは、多くの貴婦人たちの溜息を誘った。
そして、そのアンキセス王子の傍らには、常に一人の騎士が影のように控えていた。その騎士は、全身を精巧な銀色の鎧で覆い、顔もまた美しい銀の仮面で隠していたため、性別すら定かではなかったが、その研ぎ澄まされた立ち姿からは、並々ならぬ実力者の気配が漂っていた。
その夜。アルフォンス殿下の特別な計らいで、私たちは、王宮の謁見の間とは別の、人目につかない一室で、アンキセス王子と、そしてあの仮面の騎士と秘密裏に接触する機会を得た。
初めてお会いしたアンキセス王子は、噂に違わぬ、理知的で、そして強い意志を感じさせる、しかしどこか影のある魅力的な瞳を持った青年だった。
「リリアーナ・フォン・ヴァイスハイト嬢、そしてアルフォンス殿下。エリス・ミラー嬢の祖父、ウォーレン・ミラーより話は全て聞いている。そして、これは彼からの親書だ。アルフォンス殿下、そしてリリアーナ嬢、あなた方へ」
アンキセス王子は、そう言って一通の封蝋された手紙をアルフォンス殿下に手渡すと、わたくしに向き直った。
その時、ずっと黙ってアンキセス王子の後ろに控えていた仮面の騎士が、一歩前に進み出た。そして、ゆっくりと、その銀の仮面を外したのだ。
そこに現れたのは――
「……ソフィア、お姉様……!!」
私は息を呑んだ。
そこにいたのは、紛れもなく、私の従姉妹、ソフィア様だった。最後に会った時よりもずっと精悍な顔つきになり、その瞳には幾多の困難を乗り越えてきたであろう強い光を宿していたが、その優しい面影は変わらない。
「リリアーナ……! よかった、本当に無事だったのね……! 心配していたわ……!」
ソフィアお姉様は、私を力強く抱きしめた。その腕の感触は、昔と少しも変わらない、温かくて優しいものだった。私は、堰を切ったように涙が溢れ出し、子供のように声を上げて泣いた。
「お姉様……! 生きて……生きていてくださったのですね……! 私、ずっと……エレオノーラ様が……!」
ソフィア様からの手紙が途絶えたのは、やはりあの人の仕業だったのだ。そして、お姉様は命まで狙われていたなんて……!
ソフィアお姉様は私の背中を優しく撫でながら言った。
「ええ、リリアーナ。あの女の差し向けた暗殺者からは、アンキセス殿下とウォーレン様のお力添えで、命からがら逃げ延びることができたわ。幸い、暗殺者は失敗の報告を恐れて、私を仕留めたと嘘の報告をしたようだけれど……。そして、その時の動かぬ証拠も、私は持っているわ。あの女を断罪するための、決定的な証拠をね」
アンキセス王子が、静かに頷く。
「ディオメーデス王国として、そして私個人として、エレオノーラ・フォン・ヴァイスハイトの非道な行いを断じて許すわけにはいかない。リリアーナ嬢、我々は全力であなた方に協力する」
その言葉に、エリス様が興奮したように声を上げた。
「やっぱり! ファンディスクの通りなら、エレオノーラはソフィア様を消そうとするはずだったのよ! そして、リリアーナ様のその力! あれは『アリアの呪い』なんかじゃないわ! 原作本編では詳しく語られなかったけれど、ファンディスクで明かされた真実は……リリアーナ様は、失われたはずの『生命の聖樹の巫女』の血を引く、唯一の末裔なのよ! その力は、使い方さえ間違えなければ、万物に生命を与え、癒し、そして邪悪を浄化する、この上なく聖なる力なの!」
「生命の聖樹の巫女……?」
アルフォンス殿下が驚きの声を上げる。
「エリス様、以前もその『生命の聖樹の巫女』という言葉を耳にしましたが、それは一体……?」
「『生命の聖樹の巫女』は万物に癒しを与え蘇らせる力。嘗て古の魔王により大陸全土が枯れ果てた大地となった時、それを蘇らせたという奇跡の力よ。エレオノーラは、その力を『呪い』だと偽り、リリアーナ様を精神的に追い詰めることで、力を不安定にさせ、暴走させようとしていたのよ! あの実演会の事故も、全て彼女が仕組んだ罠だわ! 枯れ木に、リリアーナ様の力と反発する特殊な薬品を仕込み、邪悪な現象に見せかけたのよ!」
「あの実演会とは?」
「あら? ゲームの方の記憶だったかしら?」
エリス様の言葉は、まるでパズルのピースが一つ一つはまるように、これまでの不可解な出来事の全てを、恐ろしい真実の絵として繋ぎ合わせた。
私の力は、呪いではなかった……? 本当は、聖なる力……?
エレオノーラ様の知らない情報。ソフィアお姉様の持つ証拠。そして、エリス様の『原作知識』と、私の『本当の力』。
私は、アンキセス王子、アルフォンス殿下、レオナルド様、ヴィクトル様、クララ様、エリス様、そしてソフィアお姉様という、頼もしい仲間たちの顔を一人一人見回した。
これで、全ての駒は揃った。エレオノーラ様との、最後の戦いのための、そして、私自身の未来を取り戻すための駒が。
私の瞳に、初めて、憎しみではない、力強い決意の光が、確かに宿った。