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あなたに起こる奇跡 ~感染する知性『ミーム』が、今、あなたに宿る~  作者: kyon²


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9/10

銀の波を突き抜けて

 銀の波を突き抜けた先には、冷たい水ではなく、黄金色の液体が満ちる粘度の高い空間が広がっていた。

 そこは重力さえもが美学に従う、クリムトの楽園――「接吻せっぷん」の背景を思わせる、幾何学模様と黄金の渦が交錯する境界領域だった。


 三人は息を呑んだ。銀色の光をまとった燕子花かきつばたの残像が、周囲を泳ぐ無数の図形と共鳴している。そして、その渦の中心に、彼はいた。


 グスタフ・クリムト。世紀末ウィーンの寵児ちょうぢ。彼はまるで、光琳が描き残した「銀の論理」の先にある、「生の重厚さ」を体現するかのようにそこに鎮座していた。


「東洋から来た客人か」


 クリムトの声は、重く、甘美な官能を帯びていた。彼は筆を動かすのではなく、まるで空中に直接、金箔を貼るような仕草で、虚空に模様を浮かび上がらせている。


「光琳の燕子花を見たよ。あれは素晴らしい『不在の美』だ。だが、お前たちは少しばかり、その美に酔いすぎているのではないか?」


 みなとは、自らの手中にある万年筆が、今までにないほど熱を帯びているのを感じた。結衣ゆいはクリムトの放つ圧倒的な「装飾の密度」に魅了され、足元が震えている。


「酔いすぎている……?」湊が問い返す。


「光琳の美は『隙間』を作った。それは、観る者の想像力をき立てる毒だ。だが、私の美は『埋める』ことにある」


 クリムトは立ち上がり、三人の周りをゆっくりと歩き始めた。彼が歩くたびに、空間の幾何学模様が湊たちの身体に纏わりつく。それは拘束ではなく、慈愛に満ちた包容のようでもあった。


「私は、生の哀しみと喜びを、すべて金箔で塗りつぶした。なぜか。人は『余白』を埋めようと焦るあまり、今この瞬間にある悦びを見失うからだ。お前たちの世界は、計算と効率という名の『空虚』であふれているだろう?  ならば、それを私の黄金で、愛で、そしてあがないがたい欲望で埋め尽くしてやればいい」


「愛と欲望で……埋め尽くす?」


 結衣がクリムトの眼差しを見つめ返す。彼女の直感が、クリムトの言葉の裏にある「切実な祈り」を捉えた。


「そうよ。湊先輩、光琳さんが『問い』で世界を崩したなら、私たちはそこに『熱狂』を注ぎ込むの。計算なんて関係ない。誰もが抗えないほどの、美しさと官能で、彼らの冷たいデジタル世界を『飽和』させるのよ」


 クリムトがニヤリと笑う。それは、光琳のすずやかな笑みとは対照的な、野性味をはらんだあざけりだった。


「その通りだ。効率化されたおりなど、熱に弱いに決まっている。お前たちのRIMPAに、私の『黄金の律動』をインストールしてやろう。これは、ただのプログラムではない。観る者のドーパミンを強制的に分泌させ、システムそのものを『生の悦び』という名の高熱でオーバーヒートさせるためのコードだ」


 クリムトが、湊の万年筆に右手を重ねた。瞬間、湊の脳内に、無数の花々と、絡み合う男女の姿、そしてウィーンの街角の甘い香りが雪崩のように流れ込んできた。それはRIMPAにとって、これまでで最大の「情報量」だった。


 RIMPAが悲鳴のようなノイズを発する。

「……警告。これほどの情緒データは、従来のOSでは処理できません。……ですが、これは……、あまりにも、美しい」


「行け、未来の使徒たちよ」


 クリムトは黄金の渦の中に消えながら、最後にそう告げた。


「私の黄金は、光琳の銀を完成させるための触媒だ。銀で『隙間』を作り、黄金で『世界を埋め尽くせ』。そのとき、計算だけの支配者たちは、自分たちが愛を知らない無機質な怪物であったことに気づき、自壊するだろう」


 激しい黄金の閃光せんこうが、三人を取り巻いた。

 銀色の燕子花と、黄金の幾何学模様が、RIMPAの内部で溶け合い、これまでにない未知の「知性」へと進化していく。


「いくわよ、湊先輩!」


 結衣の声が響く。彼女の瞳は、もはや恐怖におびえてはいない。クリムトからさずかった「悦びの力」が、彼女のデザイナーとしての感性を爆発させていた。


「ああ。光琳の『銀』と、クリムトの『黄金』。二つの巨匠の系譜を纏った僕たちが、あの巨大な無機質の嵐を焼き尽くす」


 湊は、万年筆を強く握りしめる。

 RIMPAのシステムが、銀と金の二重螺旋らせんを描きながら、超高速で演算を繰り返している。それは、もはやプログラムではない。世界そのものを再構築するための、新しい神話の断片だった。


 三人の身体が、黄金の渦から弾き出される。

 彼らは再び、あの冷酷な「現実」の境界線へと戻ろうとしていた。


 背後で、クリムトの描いた黄金の渦が、最後の一ひらまで輝いて消える。その光景を目に焼き付けながら、湊は誓った。


 あの強大な、影の統治者たちが操る「黒いノイズ」を、自分たちの「黄金と銀の美学」で塗りつぶしてやる。効率と数字の檻を打ち破り、世界に「愛」と「混沌」を取り戻すために。


 光の裂け目が閉じようとする。

 湊と結衣、そしてRIMPAは、かつてないほどの力をその身に宿し、再びデジタルと現実が交差する、あの不穏な戦場へ向けて、急速に落下していった。

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