02
昨夜半まで雪を降らした雲は拭われ、その向こうに控えていた真冬の太陽が今は燦々と白い世界を照らしている。
弱い日差しを求めた黒猫が窓辺を占拠していた。
温かい時間を貰ったが、さて、そろそろ暇を請うか。
椅子の背にかけてあった薄っぺらいコートを手に取って今更だが気づいた。
洗濯・・・?
いや、着たっきりのシャツもジーンズも、躰さえ綺麗になっている。
風呂に入ったどころか、服を脱いだ覚えも無い。
この数日、身を隠すためにゴミ集積所にまで入り込んでいたと云うのに。
思い返せば今朝、いや昨日だ。
酷く咽て気が付いた時には、この状態だった。
タオルで顔は拭った。
確かにその記憶はあるが。
いったい・・・
「追われている割には呑気な奴よの。」
ガイと呼ばれている青年の声に顔を上げれば、三人が眼を向けていた。
少女はキョトンとしているが。
「追われてるの? 何に?」
「何、にだな。誰と云うより確かに弓月の云う通りだろう。」
『不穏なモノが近づいて来るぞ。』
大柄な男の声に被せたのは誰だ。
そこからの展開は完全に不意打ちだった。
聞き覚えの無い声の主を探そうとした俺の眼の端に、何かが映ったと思った瞬間、視界が暗転。
耳に残った声は。
「九郎、見張っていろ。」
誰だ、そいつは・・・・・・
「訳有りなのは判ったけど、何が来るの?」
呑気たらしく尋ねる弓月にガイが応えた。
「山脇雅也を追って来た奴らだな。どうやら真っ当なモノではあるまい。」
「へぇ、どうするの? 畳む? 燃やす? それとも飛ばす?」
クツクツと魔導師が嗤う。
「それも良いがな、まさか家探しもするまい。知らぬと云えば済む話よ。」
ああ、すっかりおかしな度胸がついてしまった。
面白がってガイがいろいろ仕込むものだから、今の弓月は向こうの世界の極悪魔導師に成りつつある様だ。
此処は少し引き締めておかないと調子に乗って何を仕出かすか判らんな。
だが。
階段の途中で振り返るものじゃ無い。
唐突な、そして奇妙なほどしっくりくる言葉が響いた。
「あの人、グレィス王宮の料理人にしちゃえば?」
呆れるぐらい率直な発想に、脚が次の段を踏み損ねる。
当然。
ズダダダダ・・・・・ン・・・。
「・・・・・・・・・何をしておる? ゼル。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・大丈夫?」
大丈夫なわけが有るかっ。
ありていに言うなら無頼の客人には丁寧に御引き取り願った。
押し入って来た四.五人の強面の男たちにしても、もとより威圧を込めた聞き取りだけで暴力を振るう訳も無い。
此方も親切にも、見かけたならご報告致しましょうと云えば気持ち良く退出して行く。
そう云えば、連絡先を聞き忘れていたが。
まあ、良いとしよう。
ただ、先ほどから気になっていたのだが。
「で、何が可笑しい。」
振り返って尋ねたゼルに、堪えていた笑いが炸裂した。
『この辺でこんな男を見なかったか。』
写真を持って、勢いよく入って来た三人のチンピラはともかく、幅を利かせて後からお出ましになった兄貴分は、ついうっかり弓月にイカガワシイ眼つきを向けたばかりにゼルの極寒ビームを真面に喰らってしまった。
言葉を失くして仰け反ったままの男の次に入って来た貫禄ある年配の男も、第一声が。
『お、可愛いねぇ。おじさんの彼女にならねえか?』
これに対したのは冷気では無い。
私と弓月の魔力を足したほどの怒気。
店内を圧するそれに、誰が対向出来ると云うのか。
腰が砕け、膝が笑い、蒼白の顔面は死後硬直したかのように凍り付いていた。
『何か判ったら連絡しよう、それで良いか?』
まるで首振り人形の様にコクコクと頷くと五人の男たちは後ずさって出て行った。
「ゼルったら容赦ないよね。
何だかドンドコ短気になって行くみたいで将来が心配だよ。」
お前はゼルの母親か。
「それより弓月、さっきの話はどう云う事だ。山脇雅也を向こうに連れて行くとは。」
「だって美味しかったでしょ、リゾットもオムレツも。」
あれだけの味覚を持ってるならクーヤ料理長の右腕になれましょうぞ。
あれは絶対にプロの味付けです。
きっとどこか名のあるお店で修業をしていたに違いない。
この私、北城弓月の舌は騙せませんぞ。
このまま埋もれさせておくのは実にもったいない。
そして。
どうやらあのおじさん達に捕まればボコられる運命と見た。
ならば緊急避難としてグレィス王国に送り込めば一石二鳥。
ふぅぅ―――。
我ながら新年早々に素晴らしい頭脳のキレを見せてしまいました。
確かに弓月の云う事も一理ある。
だが。
「とにかく山脇雅也に事情を聴いてからだな。」
鈍痛に苛まれてやっとのことで眼を開くと黒猫が居た。
意思を持った金色の双眸が、床に伸びた俺を至近から覗き込んでいる。
見つめあって数泊、にやりと嗤う。
猫が。
俺は無意識のうちにかつてない速さで後ずさっていた。
有り得ない。
猫が嗤うなんて。
壁に背中を押し付けて正面に座る猫を凝視するが・・・
「・・・・・何をしている?」
三人が見下ろしていた。
「九郎、脅かしちゃ駄目だよ。」
俺の脚を跨いで少女が近づくとふわりとテーブルの上に飛び乗り。
『その海老を所望する。熱くは無いだろうな。』
「うん、殻剥こうか。」
『いや、かるしうむは取らねばならん。』
ふ、ふふふふふふく、腹話術かっ。
腹話術なんだな。
そうか、良かった。
きっとこの娘は猫と組んでタレントデビューを考えているのだろう。
きっとゼルとか云う男はマネージャーかなんかで。
だから俺のような悪い虫を寄せ付けないようにして居るんだ。
「山脇雅也よ、どうせ夢じゃ。今までの事を話すが良い。」
あ。
夢だったのか。
俺は、親父の跡を継いで料理人になろうと思っていた。
ガキの頃からバイトで包丁を持っていたから調理師学校でも逸材と云われ、特別推薦で入った修行先のホテル『アンギラス』でもごぼう抜きに抜擢されて、俺は完全に調子に乗っていた。
誰もが認めていた。
俺の創る皿を。
色彩も、味も、総てのコースの構成も。
だから。
腕が有れば良い。
料理人は腕が無ければ屑だ。
そう公然と言い放つほど。
二十四歳の世間という物を知らないガキは先輩のプライドさえ踏み躙った。
厨房の真ん中で。
みんなの眼の前で。
何であの時謝らなかったんだろう。
今でも夢に見る。
先輩の真っ青な顔を。
震える手に握られた包丁より、打ち砕かれた哀しい顔を。
俺に突き刺さる筈の牛刀はサブチーフがとっさに出したグリルパンが弾き、握りの甘かった先輩の指を傷つけ、折れて跳んだ刃先は何の関係も無いパートのおばさんの顔を切り裂いた。
耳に入る音は悲鳴。
眼に入る色は血の色。
そんな中で、
俺だけは動けなかった。
気が付けば警察の取り調べ。
総て俺のせいだ。
俺が悪かった。
だから。
だから、どうか。
指の腱を切った先輩と、巻き添えを食ったおばさんを治してくれ。
治してくれるなら俺は一生包丁は握らない。
どうか。どうか。どうか・・・・・・・・・・
奇跡なんか起こらない。
どんなに泣いても、祈っても。
俺に出来たのは僅かな貯金をおばさんに、退職金を先輩に差出し、チーフに解雇を願い出る事だけだった。
後はお決まりの転落人生。
ひとつ躓くと逃げた。逃げて逃げて、転がり落ちた先はチンピラの手先。
そんなやくざな人生さえ失敗して追われている。
いっそ死んだ方が良いのに、その勇気さえない。
時間が戻るならあの瞬間に戻りたい。
先輩に土下座してでも謝りたい。
蹴られても、踏みつけられても、刺されても良い。
この七年間をやり直せるのなら。
俺は泣いてはいなかった。
俺が泣いてはいけないと知っていたから。
だが。
眼の前に出されたグラスの琥珀色の酒。
ゼルの眼は優しく厳しい。
俺が泣いているのを知っているような。
「後悔は、先には出来ない。出来るのは重荷を背負い続ける覚悟だ。」
飲み干すと肩の力が抜けて行った。
「ひとつ聞こう。違う世界で働いてみるか?駄目なら連れ戻すことを約しておく。」
ぼんやりとした耳にひどく冷静な声が響く。
何処だって良い。
連れて行ってくれるなら。
俺は逃げたいだけだ。
俺の指が指輪に押し込まれる。
「今、何時だ?」
「2014年1月2日9時45分。」
「弓月。」
「了解、髪解きます。」
「行くぞ、グレィス王国へ。」
どうやらまだ夢の中にいる様だが。
掴まれた手より向かいの少女の肩に乗った猫と眼が合う。
猫が。
にやりと嗤った。
ワラッタ。
夢じゃなかった。
有り得ない現実に俺は完全にパニックになった。
「うわああああぁぁぁっっっ!!!」
「いかん!手が・・・・」
騒然とした中で視界が廻る。
違う、躰が振り回される。
何処かに
ハネトバサレル・・・