第五話 白い制服の値段
1 白い制服は、誰のためにある
光冠都市の朝は、何事もなかったかのように始まっていた。
パン屋の煙突から白い煙が上がり、市場には野菜や果物を積んだ荷車が並ぶ。診療所の前では、開院を待つ人々が列を作り、子供たちは白い壁に沿って学校へ向かっていた。
鐘は、いつもどおりの時刻に鳴った。
誰も昨夜の異常について話さない。
いや、話している人間はいるのだろう。
しかし、シンの耳に届くのは、天気の話と、食料の値段と、近所で生まれた子供の話ばかりだった。
「……変な感じだな」
市場の端で、シンは呟いた。
隣を歩くガルドが、焼き菓子をかじりながら横目を向ける。
「何がだ?」
「昨日の夜、あれだけ大騒ぎになったのに。街の人たちは、いつもどおりだ」
「騒ぎになったことを知らないんじゃないのか?」
「でも、衛兵は大勢動いていたよ」
「衛兵が動いていたからって、全員が理由を知っているわけじゃないだろ」
ガルドは、残りの菓子を口へ放り込んだ。
「それに、昨日も今日も飯は必要だ。仕事をしなきゃ食えない。自分に関係があるかどうかも分からない騒ぎに、いちいち構っていられない人間だっている」
「……そうだね」
「納得してない顔だな」
「いや。ガルドの言うことは分かるよ」
シンは市場を見回した。
果物を売る老人。
荷車を押す男。
子供の手を引く母親。
彼らは、目の前の暮らしを生きている。
昨日の鐘が何を意味していたのかなど、知らなくてもいいのかもしれない。
知らないまま、今日を幸せに過ごせるのなら。
だが、知らないままの幸せを守るために、誰かが犠牲になっているとしたら。
その犠牲を、誰も知らないままでいいのだろうか。
「……難しいな」
「さっきから、そればっかりだな」
「だって、難しいんだよ」
「なら、考えろ。考えたら腹が減る。腹が減ったら飯を食え。飯を食ったら、また考えろ」
「……ガルドって、時々すごく正しいことを言うよね」
「時々とは何だ」
ガルドが睨む。
シンは笑った。
そのとき、通りの向こうから、白い制服の衛兵たちが歩いてきた。
四人。
全員が同じ歩幅で進み、同じ間隔で周囲を見ている。
胸元には、白冠教団の紋章。
腰には剣。
手首には、白い結晶を埋め込んだ腕輪。
彼らが近づくと、市場の人々は自然に道を開けた。
誰かが頭を下げる。
誰かが笑顔で挨拶をする。
衛兵たちは、それに慣れた様子で応じた。
その中の一人が、シンたちの前で足を止めた。
「失礼。身分証を確認させてもらいたい」
若い衛兵だった。
声は丁寧。
態度も穏やか。
しかし、視線はシンの胸元から離れなかった。
「……身分証ですか?」
「昨夜、管理区域内で異常共鳴が検知された。念のため、周辺に滞在している旅行者の確認を行っている」
シンは一瞬、言葉に詰まった。
ガルドが半歩前へ出る。
「旅行者の確認なら、宿舎で済ませたぞ」
「宿舎の記録と照合する必要がある」
「それなら宿舎へ行けばいい。どうして、わざわざ市場で呼び止める?」
「ご協力いただけないということか?」
衛兵の声は、少しだけ硬くなった。
ガルドの肩が動く。
シンは慌てて、その前へ出た。
「協力します。身分証は宿舎に置いてきたので、戻れば確認できます」
「では、同行を」
「……そこまで必要なんですか?」
シンは、できるだけ穏やかに尋ねた。
「ただの確認なら、ここで名前を伝えるだけでもいいでしょう?」
「規則です」
衛兵は即答した。
その瞬間、シンの胸の奥で、無色の輝石がかすかに震えた。
衛兵の腕輪から、微弱な振動が伝わってくる。
昨日の夜、旧水路で感じたものと同じだ。
白の同期網。
腕輪はその一部なのだろう。
「……お前、昨日の夜から、ずいぶん規則に好かれているな」
ガルドが小声で言った。
「好きで好かれているわけじゃないよ」
「知っている。だから腹が立つんだ」
衛兵が一歩近づいた。
「どうされますか?」
シンは考えた。
ここで拒否すれば、余計な疑いを招く。
同行しても、身分証と照合された瞬間に零号の記録へつながる可能性がある。
どちらを選んでも、危険はある。
そのとき。
「その二人は、私が確認します」
背後から声がした。
衛兵たちが一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、セラだった。
彼女はいつもの簡素な服を着ていたが、腰には古い剣を差していた。
若い衛兵は、彼女の顔を見た瞬間、表情を硬くした。
「……セラ元衛兵」
「久しぶりね」
「現在、教団の管理命令に基づいて、旅行者の確認を行っています」
「知っているわ」
「ならば、妨害はお控えください」
「妨害?」
セラは首を傾げた。
「私は、この二人の滞在に関する証言を求められた場合、協力するつもりよ。何か問題がある?」
「あなたは、すでに教団の正式な職務を離れています」
「ええ。だから、あなたの上官でもないし、部下でもない。命令を受ける義務もないわ」
衛兵は口を閉ざした。
セラは、シンとガルドを背にかばうように立った。
「それとも、教団を離れた人間が誰かと話すことまで、規則で禁じられているのかしら?」
「……そのような規則はありません」
「なら、問題ないわね」
セラは微笑んだ。
衛兵たちは互いに顔を見合わせた。
やがて、若い衛兵が一歩退く。
「……今回は、確認を見送ります。ただし、今後も調査への協力をお願いします」
「もちろん」
衛兵たちは歩き去っていった。
シンは、ようやく息を吐いた。
「助かりました、セラさん」
「礼はいいわ」
セラは、衛兵たちの背中を見送っていた。
「……それより、あなたたち」
「はい?」
「少し、付き合ってほしい場所があるの」
その声は、いつもより低かった。
「どこへ?」
「教団の旧兵舎」
セラは答えた。
「私が白い制服を着ていた場所よ」
ガルドが、菓子を持つ手を止めた。
シンはセラの横顔を見た。
彼女は、何かを決めた顔をしていた。
「……何か、分かったんですか?」
「昨夜の異常共鳴について、教団が動き始めている。ヴァイスは、あなたの身柄を確保するために、衛兵だけでなく、かつての部下にも命令を出したらしいわ」
「セラさんにも?」
「私は、もう部下ではないけれどね」
セラは小さく笑った。
「でも、命令書には私の名前が載っている」
彼女は懐から、折り畳まれた紙を取り出した。
白い紙。
赤い封蝋。
そして、見覚えのある紋章。
白冠教団の管理印だった。
「あなたたちに見せたいものがあるの」
セラは言った。
「私が、どうして白い制服を脱いだのか。その理由を」
シンは頷いた。
ガルドも、黙って歩き出した。
三人は、市場を離れた。
鐘の音が、背後から聞こえてくる。
いつもと変わらない、穏やかな響きだった。
だが、その音の下には、まだ知られていない記録が眠っている。
白い制服の値段。
そして、セラが支払った代償が。
2 衛兵候補生セラ
旧兵舎は、光冠都市の北西区画にあった。
現在の衛兵詰所からは少し離れた場所にあり、白い壁にはところどころ灰色の染みが浮かんでいる。正面玄関の上には、かつて白冠教団の紋章が掲げられていたらしい。今は取り外され、四角い跡だけが残っていた。
建物の周囲には、背の低い植え込みが並んでいる。
手入れはされているが、花は少ない。
白い花ばかりだった。
「……ここ、今も使われているのか?」
ガルドが尋ねた。
「一部はね。訓練施設として使われている場所もあるけれど、古い記録庫や、使われなくなった宿舎も残っている」
セラは正面玄関を見上げた。
「私が候補生だった頃は、ここで寝起きしていたわ」
「セラさんも、最初は候補生だったんですね」
「当たり前でしょう。最初から衛兵だったわけじゃないもの」
「いや、なんとなく……最初から衛兵らしかったのかなって」
「どういう意味?」
「規則を守って、剣を持って、真面目に訓練している姿が想像できるというか」
セラは、少しだけ目を細めた。
「……そうね。昔は、規則を守ることが正しいことだと信じていたから」
その声には、懐かしさと苦さが混じっていた。
三人は建物の中へ入った。
玄関ホールには、古い掲示板がある。
壁には歴代の衛兵長の肖像画が並び、中央には、白い制服を着た若者たちの集合写真が飾られていた。
シンは、その写真の前で足を止めた。
写真の中のセラは、今より少し幼かった。
髪をきっちりとまとめ、背筋を伸ばし、胸を張っている。
顔には、迷いがなかった。
隣に立つ候補生たちも同じだった。
皆が同じ方向を見ている。
同じ制服を着ている。
同じ場所で、同じように笑っている。
だが、写真の中で一人だけ、視線を外している少年がいた。
セラの隣。
まだあどけなさの残る顔。
白い制服の袖を少しだけ余らせ、どこか居心地が悪そうに立っている。
「……この人は?」
シンが尋ねると、セラは写真を見上げた。
「ユリウス」
その名前を口にするまで、少し時間がかかった。
「私の同期よ」
「今も衛兵を?」
「いいえ。もういないわ」
「……辞めたんですか?」
「そうね」
セラは、それ以上答えなかった。
ガルドが、シンの横から写真を覗き込んだ。
「ずいぶん嫌そうな顔をしているな」
「え?」
「この男だ。写真を撮るのが嫌だったのか?」
「……たぶん、そうね」
セラは微かに笑った。
「ユリウスは、写真が嫌いだった。自分がどんな顔をしているか分からないから、と言っていたわ」
「変な理由だな」
「そうかしら?」
「鏡を見ればいいだろう」
「鏡に映る顔と、他人から見える顔は同じではないでしょう?」
ガルドは首を傾げた。
「……面倒な男だな」
「ええ。とても」
セラは写真に手を伸ばした。
ガラス越しに、少年の顔を指でなぞる。
「でも、私はあの頃、彼のそういうところが好きだった」
その言葉に、シンは何も聞かなかった。
好きだった。
過去形だった。
それだけで、今の彼女が何を失ったのか、少しだけ分かった気がした。
「こっちよ」
セラは写真から手を離し、廊下の奥へ歩き出した。
古い扉の前で止まる。
扉には、簡素な文字が刻まれていた。
――記録保管室。
「ここには、昔の訓練記録や、衛兵候補生の報告書が残されているはずよ」
「閲覧できるんですか?」
「正式な手続きでは難しいでしょうね」
「……つまり?」
「昔の鍵が、まだ使えるか試してみる」
セラは懐から小さな鍵を取り出した。
ガルドが眉を上げる。
「持ち出したのか?」
「退職時に返却するのを忘れたの」
「嘘だな」
「ええ。嘘よ」
セラは、あっさりと認めた。
「返すつもりだったけれど、返したら二度と入れなくなると思って」
鍵を差し込む。
回す。
カチリ。
扉が開いた。
「……開くんですね」
「古い鍵穴は、意外と頑丈なのよ」
「規則は守らないんですか?」
「守るべき規則と、守る必要のない規則があるわ」
セラは扉を押し開けた。
「少なくとも、今の私はそう考えている」
記録保管室は、埃っぽかった。
天井まで届く棚に、書類箱が並んでいる。壁際には、壊れた白い結晶を保管する木箱が積まれていた。
部屋の中央には、大きな机がある。
机の上には、古い帳簿と、数枚の紙が残されていた。
セラは慣れた様子で棚の間を歩き、奥の一角で足を止めた。
「ここね」
箱の側面には、年号と部隊番号が書かれていた。
セラは一番下の箱を引き出し、机の上へ置いた。
蓋を開ける。
中には、候補生たちの訓練記録が収められていた。
剣術。
体術。
輝石制御。
防壁運用。
規律評価。
そして、最後にもう一つ。
適応性評価。
シンは、その項目を見て眉を寄せた。
「……適応性?」
「衛兵として、白の同期網にどれだけ適応できるかを測る項目よ」
「そんなものまであるんですか」
「昔は、もっと単純だった。輝石の暴走を防ぐために、白い網からの調整信号を受け取れるかどうか。それを確認するための試験だったの」
セラは帳簿をめくった。
「でも、だんだん意味が変わっていった」
あるページで、指が止まる。
そこには、候補生の名前が並んでいた。
セラ。
ユリウス。
そして、ほかの同期たち。
名前の横には、いくつもの数字と評価記号が記されている。
セラの評価は、優秀だった。
剣術、上位。
判断力、上位。
輝石制御、良好。
規律遵守、極めて良好。
適応性、優良。
ユリウスの評価は、少し違った。
剣術、良好。
判断力、極めて優秀。
輝石制御、優良。
規律遵守、要改善。
適応性――。
そこには、黒い線が引かれていた。
「……消されている?」
シンが尋ねると、セラは頷いた。
「当時、ユリウスは白の同期網に対して、妙な反応を示していたの」
「妙な反応?」
「同期網からの調整信号を受け取っても、完全には同調しなかった。能力の制御には問題がないのに、網が定めた基準から少しだけ外れる。何度測定しても、その傾向が消えなかった」
「それで、適応性が低いと?」
「最初はね。けれど、彼は訓練でも実戦でも優秀だった。規則を守らないわけでもない。命令を無視するわけでもない。だから、評価を決める側も困ったのでしょう」
セラは別の書類を取り出した。
そこには、ユリウスの訓練記録が記されていた。
ある日の訓練。
白い防壁の展開中、候補生の一人が転倒。
ユリウスは命令を待たずに防壁の外へ出て、候補生を助けた。
評価――規律違反。
別の日。
輝石制御の試験中、危険な振動を検知。
ユリウスは試験の中止を要求したが、監督官は続行を命令。
ユリウスは装置の電源を切った。
評価――命令違反。
さらに別の日。
訓練施設で暴走しかけた石獣を発見。
ユリウスは周囲の候補生を退避させ、単独で石獣を引きつけた。
評価――独断専行。
シンは書類を読み進めた。
記録されている事実だけを見るなら、ユリウスは何度も規則を破っていた。
しかし、どの行動も、誰かを助けるためだった。
「……この人、悪いことをしていないように見えるんですが」
「私も、そう思っていた」
セラは答えた。
「当時の私は、彼に何度も注意したわ。勝手な行動をするな。命令に従え。自分の判断だけで動くな。そんなことを言っていた」
「それでも、彼はやめなかった?」
「ええ」
セラは、少しだけ笑った。
「彼は、いつもこう言ったの。『命令に従った結果、誰かが死んだら、その命令を出した人間だけが責任を取るのか?』って」
シンは顔を上げた。
「……何と答えたんですか?」
「『命令を出した人間が責任を取るのだから、私たちは命令に従えばいい』と答えたわ」
セラは目を伏せた。
「当時の私は、本気でそう思っていたの」
沈黙が落ちた。
ガルドが腕を組んだまま、低く言った。
「……責任を取るって、便利な言葉だな」
セラが顔を上げる。
「どういう意味?」
「命令した奴が責任を取るから、命令された奴は考えなくていい。そう言っているように聞こえる」
ガルドは、棚に並んだ記録箱を見た。
「でも、命令した奴が責任を取ったからって、死んだ奴が生き返るわけじゃない」
セラは何も言わなかった。
ガルドは続けた。
「私は、誰かを助けるために自分の身体を削ってきた。あの頃は、そうするしかないと思っていた。でも、それで誰かを助けられたとしても、自分が死んだら、その後に助けられたかもしれない人間を助けられなくなる」
彼女は、自分の手を握った。
「だから、責任を取るっていうのは、失敗した後に謝ることだけじゃない。失敗する前に、何をしているのか考えることでもあるんじゃないのか」
セラは、長いあいだガルドを見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「……そうね」
その声は、少しかすれていた。
「今なら、そう答えられると思う」
セラは帳簿を閉じた。
「でも、あの頃の私は、答えられなかった」
彼女は、別の箱を引き寄せた。
箱には、黒い文字で記されていた。
――第七期候補生・特別適応性検査記録。
セラは、その蓋を開けなかった。
ただ、箱の上に手を置いたまま、目を閉じた。
「……この箱に、私が白い制服を脱ぐことになった日の記録が入っているわ」
シンは息を呑んだ。
「見てもいいんですか?」
「見せるために、ここへ来たの」
セラは目を開けた。
「でも、先に一つだけ話しておきたいことがある」
彼女は二人を見た。
「私は、あの日、命令に従った。ユリウスも、私も。そして、その結果、一人の少年が死んだ」
セラの指が、箱の縁を強く押さえた。
「私は、あの少年を救えなかったことだけを悔やんでいるわけではないの」
「……どういうことですか?」
「救えなかった後も、私はしばらく、あれが正しい判断だったのだと思おうとしていた」
セラは、箱を開けた。
「そのことが、一番許せないのよ」
中には、薄い書類が何枚も収められていた。
その一番上に、古い写真があった。
小さな少年が写っている。
青い輝石を胸元に持ち、白い診療着のような服を着ている。
年齢は、十歳か、十一歳ほどだろう。
少年は笑っていた。
ぎこちない笑顔だった。
写真の裏には、名前が記されていた。
――リオ。
セラは、その名前を指でなぞった。
「……この子が、私の守れなかった少年よ」
3 青い少年、白い部屋
記録の最初にあったのは、リオの診療記録だった。
十歳。
青色輝石の保有者。
蓄積地の位置は胸部。
確認された特性は、周囲の生命活動に対する干渉。
能力の発現は不安定。
発動時、近距離にいる生物の代謝や運動能力が一時的に低下する。
強い感情の変化によって、影響範囲が拡大する可能性あり。
保護者は母親一名。
父親の記録はない。
最後の項目には、こう書かれていた。
――周辺住民の安全確保のため、専門施設での検査を推奨。
「この子は、最初から人を傷つけていたんですか?」
シンが尋ねた。
「いいえ」
セラは即答した。
「少なくとも、私が知る限り、リオが誰かを傷つけようとしたことは一度もなかった」
「でも、能力が発動すれば、周りの人が危険になる可能性はあった」
「そうよ」
セラは否定しなかった。
「リオの能力は、本当に危険なものだった。本人が意図していなくても、周囲の人間が突然動けなくなる。呼吸や心拍に影響が出ることもあった。もし大勢の人間がいる場所で暴走すれば、取り返しのつかない事故につながった可能性はある」
ガルドが、記録を覗き込んだ。
「なら、施設で検査すること自体は間違っていないんじゃないか?」
「……ええ。検査すること自体は、間違っていなかったと思う」
セラは答えた。
「問題は、何を検査するのか。誰のために検査するのか。そして、検査の結果をどう使うのか。それを、誰が決めるのかよ」
彼女は、次の書類を取り出した。
そこには、リオの能力についての観察記録が残されていた。
初期の報告は、比較的穏やかな内容だった。
能力発動時の周辺環境。
輝石の振動。
身体の変化。
発動のきっかけ。
そして、能力が弱まる条件。
リオ自身も、検査に協力していたらしい。
自分の力を怖がっていた。
だからこそ、どうすれば暴走を防げるのか知りたがっていた。
記録には、担当者の言葉が残されていた。
――対象は、能力の制御を強く希望している。
――他者への危害を恐れており、能力発動を避けようとする傾向が見られる。
――適切な訓練と心理的支援により、安定化の可能性あり。
シンは、そこでページをめくる手を止めた。
「……安定化できる可能性があったんですね」
「そうよ」
「じゃあ、どうして……」
「その先を読んで」
セラの声は、静かだった。
次の記録には、別の筆跡が加わっていた。
――能力の安定化には長期間を要する見込み。
――対象が成長した場合、影響範囲が拡大する可能性あり。
――周辺住民への潜在的脅威を考慮し、通常の訓練計画から除外。
――管理下での能力抑制を優先する。
さらに、その次。
――対象の精神状態が不安定。
――検査中、職員に対して帰宅を要求。
――施設内での規律維持に支障あり。
――行動制限を強化する。
シンは眉を寄せた。
「帰宅を要求しただけで、規律維持に支障があると?」
「その頃には、リオは母親と会えなくなっていたの」
セラが答えた。
「最初は、検査の時間が延びただけだった。次は、面会の回数が減った。その次は、面会の前に追加の検査が必要になった。理由は毎回違ったけれど、結局、リオが母親に会える時間は、少しずつ減っていった」
「……どうして、そんなことを」
「施設側は、リオの精神状態が能力へ影響すると考えていた。母親に会えば安心する。安心すれば能力が安定する。そこまではよかった」
セラは書類の端を揃えた。
「でも、母親に会いたがること自体を、依存傾向として問題視するようになったの」
ガルドが顔をしかめた。
「……何を言っているんだ?」
「母親と離れていることで不安になる。会いたいと泣く。帰りたいと言う。そうした反応が、感情制御の未熟さとして記録されていった」
セラは、机の上に一枚の報告書を置いた。
「そして、最終的にはこうなった」
そこには、短い文が記されていた。
――対象は、精神的依存によって安定化処置への協力が不十分。
――自発的な意思による制御は困難。
――継続的な管理が必要。
シンは、その文章を何度も読み返した。
帰りたい。
母親に会いたい。
自分の力が怖い。
誰かを傷つけたくない。
その気持ちが、管理が必要であるという判断へ変換されている。
「……この子は、どうして施設へ連れていかれたんですか?」
「最初は、本人も納得していたのよ」
セラは、リオの写真を見た。
「自分の力を制御できるようになれば、母親と一緒に暮らせる。そう説明されていたから」
「……約束されていたんですね」
「ええ。少なくとも、リオはそう信じていた」
セラは目を伏せた。
「でも、検査が進むにつれて、目的が変わっていった。能力を制御できるようにすることより、能力が暴走する可能性をなくすことが優先されるようになったの」
「暴走する可能性を、なくす……」
「リオの能力は、周囲の生命活動を弱めるものだった。だから、教団は能力そのものを抑制する方法を探し始めた」
セラは、別の書類を取り出した。
その表紙には、赤い印が押されていた。
――特別処置計画。
「ここから先は、当時の私も詳しく知らされていなかった。衛兵は施設の警備を担当していたけれど、内部の検査内容は、限られた職員しか知らされていなかったから」
彼女は、書類を開いた。
そこには、リオの輝石を外部から調整する方法が記されていた。
白の同期網から強い信号を送り、青い輝石の振動を一定の範囲へ固定する。
能力の発動を抑え、暴走の可能性を減らす。
理論上は、可能だった。
しかし、最後の注意書きに、こう記されていた。
――対象の蓄積地が外部信号へ適応できない場合、過剰な負荷が発生する恐れあり。
――蓄積地の損傷が確認された場合、直ちに処置を中止すること。
シンは、その文面を指でなぞった。
「……危険性は、分かっていたんですね」
「そうよ」
セラの声が、少しだけ低くなった。
「だから、処置を始める前に、私は中止を求めた」
ガルドが顔を上げた。
「セラが?」
「ええ。私は施設の警備責任者の補佐をしていた。リオの様子を見ていたし、彼の能力が精神状態に左右されることも知っていた。だから、強い信号を一度に送り込めば危険だと考えた」
「それで、上は何と?」
「問題ない、と言われたわ」
セラは、笑わなかった。
「計算上、処置は安全。過去の実験でも成功例がある。危険性は管理可能。そう説明された」
「成功例はあったんですか?」
「……あったわ。ただし、リオと同じ能力ではなかった」
シンは息を呑んだ。
「違う能力なのに、同じ方法を使ったんですか?」
「輝石の基本構造は共通している。だから、理論上は応用できる。そう判断されたの」
セラは目を閉じた。
「当時の私は、それを受け入れた」
「でも、危険だと思っていたんでしょう?」
「ええ」
「だったら、どうして……」
「命令だったからよ」
あまりにも短い答えだった。
シンは言葉を失った。
セラは、彼の顔を見つめた。
「今のあなたには、理解できないかもしれない。私にも、もう昔の自分を理解することは難しい。でも、当時の私は、命令に従うことが正しいと思っていた」
彼女の声は、静かだった。
「命令を出した人間は、私よりも多くの知識を持っている。私よりも多くの事例を知っている。私が知らない情報をもとに判断している。だから、私が疑問を感じても、それは私の知識が足りないからだと思っていた」
「……」
「危険だと思った。けれど、専門家は安全だと言った。おかしいと思った。けれど、上官は問題ないと言った。リオが怖がっているのを見た。けれど、これは彼の将来のためだと説明された」
セラは、自分の手を見た。
「そのたびに、私は自分の疑問を飲み込んだ」
沈黙が落ちた。
記録保管室の外から、遠くの足音が聞こえる。
誰かが廊下を歩いている。
規則正しい足音だった。
セラは、その音を聞きながら、ゆっくりと続けた。
「白い制服を着ているとね、世界が少し単純になるの」
シンは顔を上げた。
「単純に?」
「ええ。守るべき人と、危険な人。従うべき命令と、破るべき命令。正しい行動と、間違った行動。制服を着ていると、そういう境界がはっきりしているように感じる」
セラは、かすかに笑った。
「本当は、そんなに簡単ではないのに」
彼女は、リオの写真を机の上へ置いた。
「私は、白い制服を着ている自分を信じていた。だから、制服を着た自分が間違っているかもしれないと認めることができなかった」
「……セラさん」
「でも、あの日。私は初めて、制服を着ている自分よりも、目の前にいる一人の少年を信じなければならないと思った」
セラは、書類の最後のページを開いた。
そこには、処置当日の記録が残されていた。
日付。
時刻。
担当者。
立会人。
処置開始。
異常振動を検知。
信号出力を増加。
蓄積地の反応、基準値から逸脱。
そして――。
――対象、意識消失。
――蓄積地損傷を確認。
――処置中止。
――回復処置を開始。
その後の記録は、短かった。
――回復の見込みなし。
――治療継続は困難と判断。
シンは、紙を握り締めそうになり、慌てて力を緩めた。
「……誰が、処置を続けるよう命令したんですか?」
セラは答えなかった。
代わりに、書類の最後に添付されていた命令書を差し出した。
そこには、責任者の署名があった。
白冠教団・管理部門。
そして、命令を承認した者の名。
ヴァイス。
シンの目が、その文字に釘付けになった。
「……ヴァイス管理官」
「ええ」
セラは頷いた。
「彼は、処置の継続を承認した。少なくとも、記録上はそうなっている」
「記録上は……?」
「当時の私は、直接の命令を受けた。処置を中止すべきだと判断した職員がいたことも知っている。けれど、正式な命令書には、ヴァイス管理官の承認が記されていた」
セラは、書類を見つめた。
「だから、私は長いあいだ、彼がリオの死に責任を持つべきだと思っていた」
「違うんですか?」
「責任がないとは言わない。でも、彼一人の問題ではなかった」
セラは、ゆっくりと首を振った。
「処置を実行したのは、現場の職員よ。危険性を知りながら黙っていた者もいた。命令に従った私もいた。そして、リオの能力を危険なものとして扱い、彼を施設へ送り込んだ仕組みそのものもあった」
彼女は、シンを見た。
「私は、誰か一人に責任を押しつけて、自分だけが被害者だったことにしたくないの」
シンは、すぐには答えられなかった。
ヴァイスが悪い。
教団が悪い。
命令に従った衛兵が悪い。
そう言えば、話は簡単になる。
怒りを向ける先ができる。
けれど、それだけでは、同じことが繰り返される理由を説明できない。
誰かが悪意を持っていたから起きた悲劇なら、その人間を排除すれば終わるかもしれない。
しかし、善意や恐怖や責任感が積み重なった結果として起きた悲劇なら。
同じ善意を持つ人間が、同じ仕組みの中で、同じ選択をしてしまうかもしれない。
「……リオは、最後に何か言いましたか?」
シンが尋ねると、セラは長いあいだ黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「ええ」
彼女は、写真を手に取った。
「処置の直前、私はリオに会った。彼は、すごく怖がっていた。でも、私の顔を見ると笑ったの」
セラの目が、少しだけ潤んだ。
「それで、こう言ったわ」
彼女は、写真の裏に書かれた名前を見つめた。
「『セラさん。これが終わったら、お母さんに会える?』って」
誰も、何も言わなかった。
「私は、会えると答えた」
セラは、目を閉じた。
「約束したのよ」
その言葉だけが、部屋に残った。
シンは、リオの写真を見つめた。
ぎこちない笑顔。
少し余った服の袖。
母親に会いたいと願う、十歳の少年。
彼は、誰かを傷つけたいわけではなかった。
自分の力を制御したかった。
母親と暮らしたかった。
それだけだった。
そして、その願いは、白い報告書の中で「管理が必要」という言葉に変わった。
シンは、ゆっくりと拳を握った。
「……俺は、ヴァイスを許せないかもしれません」
「それでいいわ」
セラは答えた。
「無理に許す必要はない。許すことが正しいとも限らない」
「でも、セラさんは……」
「私は、彼を許したわけではないの」
セラは、はっきりと言った。
「ただ、彼だけを憎んでいれば済むという考え方を、やめようとしているだけ」
彼女は写真を元の場所へ戻した。
「リオが死んだことを、なかったことにはできない。私が約束を守れなかったことも、命令に従ったことも、消えない」
そして、シンを見た。
「だからこそ、同じことを繰り返さないために、何が必要なのかを考えなければならない」
シンは、静かに頷いた。
答えはまだない。
だが、少なくとも、考えるべきことは見えてきた。
誰かを守るという言葉の中に、何が含まれているのか。
そして、その言葉から、誰が取り残されているのか。
それを見失わないこと。
それが、最初の一歩なのかもしれなかった。
4 あの日、鐘は三度鳴った
「……リオが亡くなった日、何があったんですか?」
シンの問いに、セラはすぐには答えなかった。
記録保管室の窓から、朝の光が差し込んでいる。
白い光だった。
清潔で、穏やかで、何もかもを均一に照らす光。
セラは、その光を見つめていた。
「その日のことは、今でも夢に見るわ」
やがて、彼女は話し始めた。
*
リオの処置が行われたのは、雨の日だった。
光冠都市では珍しい、冷たい雨。
白い壁を流れる水滴が、街灯の光を反射していた。
施設の廊下には、いつもより多くの衛兵が配置されていた。
特別処置が行われるため、一般職員の立ち入りは制限されていたのだ。
セラは、処置室へ続く廊下の入口に立っていた。
白い制服。
胸元の紋章。
腰に差した剣。
その日も、彼女はいつもと同じ装備を身につけていた。
違っていたのは、手のひらに汗をかいていたことだ。
「……セラ」
隣から声がした。
ユリウスだった。
彼も白い制服を着ていたが、襟元が少し乱れていた。
「何?」
「本当に、このままやるのか?」
「……命令は出ているわ」
「そうじゃない。君自身は、どう思っている?」
セラは答えなかった。
ユリウスは、処置室の扉を見つめた。
「さっき、担当医と話した。リオの蓄積地は、外部からの信号に対して過敏に反応しているらしい。強い調整信号を送れば、制御できる可能性はある。でも、同時に、蓄積地が耐えられない可能性もある」
「その話は聞いたわ」
「だったら、処置を延期すべきだ」
「延期して、その間に能力が暴走したら?」
「暴走しないように、僕たちが見守ればいい」
「ずっと?」
セラは、思わず強い声を出した。
「私たちは衛兵よ。施設にいる間だけでなく、街全体の安全を守らなければならない。リオの能力が不安定なままなら、いつ、どこで事故が起きるか分からないのよ」
「だから、危険な処置を受けさせるのか?」
「……危険だと決まったわけじゃない」
「安全だとも決まっていない」
ユリウスは、セラの目を見た。
「セラ。君は、リオを助けたいんだろう?」
「当然よ」
「なら、どうして本人が怖がっている方法を選ぶ?」
「本人の希望だけで決められることじゃないわ!」
廊下に、セラの声が響いた。
近くにいた職員が振り返る。
セラは、慌てて口を閉じた。
ユリウスは、しばらく彼女を見つめていた。
「……そうか」
彼は、小さく頷いた。
「君は、もう決めたんだな」
「私は……」
「分かった。もう、何も言わない」
ユリウスは踵を返した。
その背中を見て、セラは何か言おうとした。
しかし、声が出なかった。
自分が正しいと信じたかった。
自分が選んだ道が、リオを救うための道なのだと信じたかった。
そのためには、疑問を持つユリウスの言葉を聞き続けるわけにはいかなかった。
彼の言葉を受け入れれば、自分の選択が間違っているかもしれないと認めなければならなくなる。
だから、彼女は背を向けた。
それが、最後だった。
少なくとも、セラが覚えている限り、ユリウスとまともに話したのは、それが最後だった。
*
処置室の中には、白い結晶が何十個も並んでいた。
中央の寝台に、リオが横たわっている。
手足には、拘束具ではなく、身体の状態を測定するための器具が取り付けられていた。
胸元の青い輝石には、細い金属線が接続されている。
リオは、セラの姿を見つけると笑った。
「セラさん!」
「……こんにちは、リオ」
「今日は、いつもより人が多いね」
「特別な検査だからよ」
「そっか」
リオは、少しだけ不安そうに周囲を見た。
「……ねえ。痛くない?」
セラは、言葉に詰まった。
痛くない、と言うことはできなかった。
痛いかもしれない。
苦しいかもしれない。
それでも、安全に終わるはずだと説明されていた。
だから、彼女はこう答えた。
「すぐに終わるわ」
リオは、ほっとしたように笑った。
「よかった」
そして、小さな声で続けた。
「終わったら、お母さんに会えるんだよね?」
セラは、頷いた。
「ええ。約束するわ」
「……うん!」
その笑顔を、セラは今でも覚えている。
忘れられない。
忘れてはいけないと思っている。
*
処置が始まった。
白い結晶が一斉に光り、装置の中央から細かな振動が送り出される。
リオの青い輝石が、淡く光った。
最初は順調だった。
測定値は基準の範囲内。
周囲の生命活動への影響も、ほとんどない。
担当医が、安心したように息を吐いた。
「問題ありません。予定どおり進めます」
処置室の隅で、セラは拳を握った。
これでいい。
これで、リオは母親に会える。
そう思った。
だが、数分後。
青い輝石の光が、不規則に揺れ始めた。
「……蓄積地の振動に乱れが出ています」
測定担当者が報告した。
「出力を調整してください」
担当医が指示する。
信号が弱められた。
しかし、乱れは収まらない。
むしろ、青い輝石の光は、徐々に強くなっていった。
「蓄積地の反応が基準値を超えています!」
「信号を停止しろ!」
「停止命令が通りません! 同期網側が出力を維持しています!」
室内が騒然となった。
セラは、処置台へ駆け寄ろうとした。
「リオ!」
リオの身体が震えていた。
彼は目を見開き、何かを言おうとしていた。
しかし、声が出ない。
青い輝石から、冷たい光が広がった。
室内の空気が重くなる。
職員たちの動きが鈍くなった。
一人が膝をつく。
別の一人が、壁に手をついて倒れ込んだ。
リオの能力が暴走している。
セラにも、それが分かった。
「処置を中止してください!」
彼女は叫んだ。
「早く! 信号を止めて!」
担当医が操作盤を叩く。
しかし、装置は止まらない。
白い結晶が、さらに強く光る。
リオの青い輝石が、その光に応えるように震えた。
セラは、処置台のそばへ駆け寄った。
少年の手を握る。
冷たい。
驚くほど冷たかった。
「リオ! 聞こえる? リオ!」
少年の唇が動いた。
かすかな声。
セラは、耳を近づけた。
「……おかあ、さん……」
その瞬間、セラは理解した。
リオは、怖がっていた。
ずっと怖がっていた。
それでも、母親に会うために、頑張ろうとしていた。
自分の力を制御できるようになれば、また母親と暮らせると信じていた。
その願いを、彼女は守ると約束した。
なのに。
「……ごめん、なさい」
リオの声が、かすれた。
「ぼく……ちゃんと、できなくて……」
「違う!」
セラは叫んだ。
「あなたは悪くない! リオ、あなたは何も悪くない!」
少年の手から、力が抜けた。
青い輝石の光が、消えかける。
「リオ……?」
返事はなかった。
担当医が駆け寄り、リオの状態を確認する。
心拍が弱い。
呼吸が浅い。
蓄積地に深刻な損傷が起きている。
「回復処置を開始! 早く!」
医師たちが動き始めた。
セラは、リオの手を離せなかった。
少年の手は、まだ温かかった。
まだ、生きている。
まだ、間に合う。
そう信じたかった。
だが、白い結晶が一斉に明滅した。
そして、室内に機械音が響いた。
『対象の蓄積地に重大な損傷を確認』
『生命活動の維持が困難』
『回復処置の成功率を再計算』
セラは顔を上げた。
「何を言っているの?」
装置は、淡々と音声を続ける。
『回復処置に必要な資源を再配分』
『対象の回復見込み、基準値を下回る』
『治療継続は困難と判断』
「……やめなさい」
セラの声が震えた。
『治療継続は困難と判断』
「やめろ!」
彼女は、操作盤へ駆け寄った。
「まだ生きている! この子は、まだ生きているのよ!」
白い制服の袖が、操作盤に触れる。
警告音が鳴った。
衛兵たちが彼女を止めようとする。
「セラ衛兵! 離れてください!」
「嫌よ!」
「規則です!」
「そんなもの、知るものですか!」
セラは、操作盤へ手を伸ばした。
信号を止める。
回復処置を続ける。
リオを、死なせない。
そのために、彼女は何でもするつもりだった。
だが、彼女の手が操作盤へ届く前に。
リオの手が、かすかに動いた。
セラは振り返った。
少年の目が、わずかに開いていた。
唇が動く。
声にならない声。
セラは、再び耳を近づけた。
「……セラ、さん……」
「ここにいるわ。ここにいるから!」
少年は、ほんの少しだけ笑った。
「……お母さんに……」
その先は、聞こえなかった。
リオの手から、完全に力が抜けた。
青い輝石の光が消えた。
室内の警告音が止まった。
そして、装置は静かに告げた。
『対象の生命活動を確認できません』
セラは、動かなかった。
少年の手を握ったまま、動かなかった。
誰かが彼女の肩をつかんだ。
誰かが何かを叫んでいた。
けれど、彼女の耳には、何も届かなかった。
ただ、頭の中で、リオの声だけが繰り返されていた。
――終わったら、お母さんに会えるんだよね?
彼女は、約束した。
約束したのに。
*
「……それで、記録はどうなったんですか?」
シンの問いに、セラは現実へ戻った。
「最初の報告書には、処置の失敗と、蓄積地の損傷が記されていたわ」
「最初の?」
「ええ。後から書き換えられたの」
セラは、机の上に別の書類を置いた。
処置当日の正式報告書。
そこには、リオの死因が簡潔にまとめられていた。
――対象の蓄積地損傷により、治療継続は困難。
――事前の説明に対する対象の理解は確認済み。
――処置手順に重大な逸脱なし。
――現場職員の対応に問題なし。
――本件は、対象の特性に起因する予測困難な事例として処理する。
シンは、書類を見つめた。
「……予測困難?」
「そうよ」
セラは頷いた。
「でも、さっきの記録には、危険性が書かれていた。処置の中止条件も書かれていた。つまり、予測できないことばかりではなかったの」
「なのに、記録を変えた……」
「ええ。リオの死を、仕組みの問題ではなく、本人の特性の問題として処理した」
セラは、書類の端を指で押さえた。
「そのほうが、簡単だったのでしょうね」
シンは、怒りを抑えられなかった。
「そんなの……!」
声が大きくなった。
セラが、静かに彼を見た。
シンは口を閉じた。
「……すみません」
「謝らなくていいわ」
セラは首を振った。
「怒っていいのよ。私だって、今でも怒っている」
「だったら、どうして……」
「怒ることと、何をするかは別だから」
セラは、窓の外を見た。
「私は、リオの死をきっかけに、初めて記録の仕組みを調べ始めた。誰が報告書を書き換えたのか。誰が処置の継続を承認したのか。どうして危険性が把握されていたのに、処置が止められなかったのか」
「分かったんですか?」
「一部はね」
彼女は、別の紙を取り出した。
「でも、調べれば調べるほど、私が知らなかったことが増えていった」
リオの検査計画は、管理部門の承認を受けていた。
処置の実施は、専門施設の判断によるものとされていた。
衛兵の役割は、施設内の安全確保に限定されていた。
処置の失敗は、対象の蓄積地の特性に起因するものとされた。
どの書類にも、担当者の名前はある。
だが、責任の所在は曖昧だった。
命令を出した者は、現場の判断を尊重したと言う。
現場の者は、専門家の判断に従ったと言う。
専門家は、装置の出力が規定の範囲内だったと言う。
装置の記録は、対象が基準から逸脱したと告げる。
そして、最後に残るのは。
――対象の蓄積地損傷により、治療継続は困難。
「……誰も、自分が殺したとは言わないんですね」
シンの声は、低かった。
「ええ」
セラは答えた。
「誰も、リオを殺そうとしていたわけではない。少なくとも、私が知る限りではね」
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
「それでも、リオは死んだ」
ガルドが、拳を握り締めた。
「……そんな仕組み、間違っている」
「そうね」
セラは頷いた。
「でも、間違っていると分かったとき、私はどうすればいいのか分からなかった」
彼女は、白い制服の集合写真を見つめた。
「上官に訴えるべきか。記録を外部へ持ち出すべきか。教団の命令を拒否するべきか。私には、どれも怖かった」
「……怖かった?」
「ええ」
セラは、隠さなかった。
「職を失うことが怖かった。仲間を失うことが怖かった。自分の判断が間違っていて、もっと大きな事故を引き起こすことが怖かった。教団の仕組みを壊して、助けられるはずだった人たちまで危険にさらすことが怖かった」
彼女は、シンを見た。
「正しいと思うことをするのは、いつだって簡単ではないわ。自分が正しいと信じることと、本当に正しいことは違うから」
シンは黙って聞いていた。
「だから、私は考えることをやめた。少なくとも、しばらくのあいだは」
セラの声が、少しだけ震えた。
「私は衛兵を続けた。命令を受け、巡回し、街を守った。リオのことを忘れたわけではない。でも、考え続けていたら、何もできなくなる気がしたの」
「……」
「そして、私は、次の命令を受けた」
セラは、箱の奥から一枚の書類を取り出した。
その紙には、別の子供の名前が記されていた。
――未登録青色輝石保有者。
年齢、六歳。
保護者、母親一名。
能力特性、未確定。
そして、移送命令。
シンは顔を上げた。
「……この子も?」
「ええ。リオの死から数か月後のことよ」
セラは答えた。
「この子も、周囲の生命活動に影響を与える可能性があると判断されていた。能力は不安定だったけれど、まだ大きな事故は起きていなかった」
「それなのに、施設へ?」
「教団は、早期の検査が必要だと判断した」
セラは書類を机に置いた。
「私は、その命令を受けた」
シンは、次の言葉を待った。
セラは、ゆっくりと息を吸った。
「そして、そのとき初めて、命令を拒否したの」
5 命令違反
その子供の名前は、マナといった。
六歳。
青い輝石の保有者。
確認された能力は、まだなかった。
時折、周囲の植物が急にしおれたり、小動物が動かなくなったりする。
それがマナの能力によるものなのか、偶然なのか、当時の記録だけでは分からなかった。
母親は、教団へ何度も相談していた。
娘の身体に何か起きているのではないか。
自分の育て方が悪かったのではないか。
このまま成長したら、誰かを傷つけてしまうのではないか。
教団は、その不安に応えた。
専門家による検査。
安全な環境での保護。
能力を制御するための訓練。
説明は、丁寧だった。
母親は、何度も頭を下げた。
娘を助けてほしい、と。
そして、移送命令が出された。
*
その日、セラは母子の住む家を訪れた。
白い制服を着て、腰に剣を差し、教団の紋章を胸につけて。
彼女は玄関の前で、しばらく立ち尽くしていた。
手には、移送命令書がある。
そこに書かれている内容は、規則に従えば正しいものだった。
危険な能力を持つ可能性がある子供を保護する。
専門施設で検査を行う。
能力の暴走を防ぐ。
本人と周囲の安全を確保する。
何一つ、間違っていないように見えた。
けれど。
セラは、書類の下に挟まれた一枚の報告書を思い出していた。
――対象の蓄積地損傷により、治療継続は困難。
リオの最後の記録。
あの文章を、彼女は何度も読んだ。
何度読んでも、少年の声は消えなかった。
――お母さんに会える?
セラは、目を閉じた。
そして、扉を叩いた。
「白冠教団の衛兵です」
扉が開く。
母親が顔を出した。
疲れた顔をしていた。
けれど、セラの制服を見ると、少しだけ表情が和らいだ。
「ああ……お待ちしていました」
「……おはようございます」
「今日は、娘を迎えに来てくださったんですよね?」
セラは、答えられなかった。
母親は、その沈黙を不安と受け取ったらしい。
「何か、問題がありましたか?」
「……いえ」
セラは、手に持った書類を見た。
「本日は、マナさんの検査について、お話があって来ました」
「はい。娘を診てもらえるんですよね?」
「……そうです」
「よかった」
母親は、心から安堵したように笑った。
「この子、最近、ずっと自分を責めているんです。庭の花が枯れたのも、小鳥が動かなくなったのも、自分のせいだって。何度違うと言っても、聞かなくて」
セラは、玄関の向こうを見た。
小さな女の子が、母親の服の陰からこちらを覗いていた。
青い輝石が、胸元で淡く光っている。
「……マナちゃん?」
セラが呼びかけると、少女は母親の後ろへ隠れた。
「こんにちは。私はセラ。今日は、あなたに会いに来たの」
「……お母さんと、一緒?」
少女の声は、小さかった。
セラは、息を呑んだ。
その問いを、知っていた。
リオも、同じことを聞いた。
母親と一緒にいられるのか。
帰ってこられるのか。
セラは、手に持っていた書類を見た。
移送命令書には、こう書かれていた。
――対象の単独移送を原則とする。
――保護者の同行は、施設管理上の理由により認めない。
――面会については、検査結果を踏まえて別途判断する。
セラは、紙を握り締めた。
「……マナちゃん」
彼女は、膝をついて少女と目線を合わせた。
「お母さんと、一緒にいたい?」
少女は、小さく頷いた。
「……うん」
「そう」
セラは、少女の目を見た。
「分かったわ」
立ち上がり、母親へ向き直る。
「本日の移送は、中止します」
母親は、目を見開いた。
「……え?」
「マナさんの状態を確認する必要はありますが、現時点で、直ちに施設へ移送しなければならない理由はありません。まずは診療所で検査を受けてもらい、その結果を踏まえて、今後の対応を決めるべきです」
「で、でも……教団からは、今日中に移送するようにと……」
「命令は承知しています」
セラは、はっきりと言った。
「そのうえで、私は移送を中止します」
母親は、戸惑っていた。
少女も、不安そうにセラを見つめている。
セラは、胸元の紋章に手を触れた。
白い制服。
教団の権威を示すもの。
人々を守るために着ていたもの。
その制服を着たまま、彼女は命令に逆らっていた。
怖かった。
今すぐ、誰かが駆けつけて、自分を拘束するかもしれない。
職務を解かれ、記録から名前を消されるかもしれない。
それでも。
「……大丈夫よ」
セラは、マナに向かって微笑んだ。
「今日は、お母さんと一緒にいられるわ」
少女の顔が、少しだけ明るくなった。
「……ほんとう?」
「ええ」
セラは答えた。
「ただし、これから診療所で検査を受けましょう。あなたの身体のことを、きちんと調べるために。怖いことがあったら、先生に話していいの。嫌なことがあったら、嫌だと言っていい」
マナは、しばらく考えてから、頷いた。
「……うん」
母親が、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
「お礼はいいです」
セラは、少しだけ困った顔をした。
「私は、当たり前のことをしているだけですから」
その言葉を口にした瞬間。
彼女は、初めて気づいた。
自分が今まで、どれほど多くのことを「当たり前ではないのに、当たり前だと思い込んでいた」のかを。
*
結果は、予想どおりだった。
セラの行動は、命令違反として報告された。
彼女は職務から外され、事情聴取を受けた。
移送命令の中止について、何度も説明を求められた。
なぜ命令に従わなかったのか。
なぜ自分の判断を優先したのか。
なぜ、専門家の判断を疑ったのか。
セラは、すべてに答えた。
マナの能力は未確定だったこと。
現時点で、重大な事故が確認されていなかったこと。
移送による心理的負担が、能力の不安定化につながる可能性があったこと。
そして、以前、同様の能力を持つ少年が、施設での処置によって命を落としたこと。
彼女は、リオの名前を出した。
その記録が、すでに閲覧制限されていることも知っていた。
それでも、話した。
すると、聴取担当者はこう言った。
「あなたは、過去の事例に感情的な影響を受けています」
セラは、言葉を失った。
「今回の対象は、リオとは異なります。過去の事例を根拠に、現行の命令を拒否することは適切ではありません」
「……ですが」
「あなたの役割は、命令を実行することです。施設の判断に疑問があるのであれば、正式な手続きに従って異議を申し立てるべきでした」
正論だった。
手続きに従う。
記録を残す。
上官へ報告する。
組織の中で問題を解決する。
それ自体は、間違っていない。
しかし、セラは知っていた。
その手続きを踏んでいる間に、リオは死んだ。
そして、記録は書き換えられた。
正式な手続きに従っても、真実が守られるとは限らない。
「……では、もし同じことが起きたら?」
セラは尋ねた。
「もし、マナが施設へ移送され、同じような処置を受けることになったら。私は、もう一度、命令に従うべきなのですか?」
聴取担当者は、表情を変えなかった。
「そのときは、そのときの状況に応じて判断してください」
セラは、目を閉じた。
何も答えられなかった。
聴取は、その日のうちに終わった。
彼女は衛兵としての権限を一部停止され、正式な処分が決まるまで、巡回任務から外された。
それだけなら、まだよかった。
数日後、彼女は自分の部屋に戻り、机の上に置かれた書類を見つけた。
マナの検査報告書だった。
診療所での検査結果が添付されている。
能力の発現は不安定。
周囲の生命活動への影響は、現時点では限定的。
本人の意思による制御は困難。
専門施設での継続的な検査を推奨。
その最後に、赤い文字が加えられていた。
――移送命令を再発令する。
セラは、書類を握り締めた。
マナは、診療所で検査を受けた。
母親と一緒に。
その結果、少なくとも現時点では、重大な危険性が確認されなかった。
それなのに、結論は変わらなかった。
むしろ、最初の命令が中止されたこと自体が、問題として扱われていた。
セラは、その夜、教団の管理部門へ向かった。
面会を求めた。
記録の再検討を求めた。
移送の必要性について、もう一度、説明を求めた。
しかし、返ってきた答えは同じだった。
「規則に従ってください」
セラは、初めて声を荒らげた。
「規則は、誰を守るためにあるのですか!」
管理官は、冷たい目で彼女を見た。
「都市全体の安全を守るためです」
「では、マナの安全は?」
「そのために、専門施設で検査を行います」
「母親と引き離す必要があるのですか!」
「施設管理上、必要な措置です」
「本人の意思は?」
「未成年者の安全については、本人の意思だけで判断できません」
セラは、机に手をついた。
「……だったら、せめて、母親との面会を認めてください」
管理官は、少しだけ眉を動かした。
「検査結果を踏まえて判断します」
同じ言葉だった。
いつまで待てばいいのか。
何を確認すればいいのか。
どの条件を満たせば、認められるのか。
何も分からない。
セラは、そのとき理解した。
この仕組みは、命令に従うことを求めているだけではない。
命令が正しいかどうかを判断するための基準まで、仕組みの内側に置いているのだ。
仕組みに疑問を持つこと。
命令を拒否すること。
規則の外側から考えること。
そのすべてが、異常として扱われる。
だから、彼女は決めた。
もう一度、命令に従うことはできない。
そして、命令に従えない自分が、衛兵としてここに残り続けることもできない。
数日後、セラは白い制服を返却した。
剣を置き、身分証を返し、衛兵としての権限を失った。
彼女が長いあいだ信じていたものは、そこで終わった。
けれど。
セラは、制服を脱いだあとも、マナのことを調べ続けた。
母親のもとへ戻れたのか。
施設へ移送されたのか。
どんな検査を受けたのか。
教団の記録は、少しずつ閲覧できなくなっていった。
やがて、マナの名前も見つからなくなった。
彼女が今、どこにいるのか。
生きているのか。
それすら、分からない。
*
「……それで、マナはどうなったんですか?」
シンの問いに、セラは首を横に振った。
「分からない」
「……そんな」
「私が教団を離れたあと、記録を追おうとした。でも、マナの記録は閲覧できなくなっていた。母親の記録も、途中から消えている」
「リオと同じように……?」
「分からないわ。施設へ移送されたのかもしれない。別の場所へ移されたのかもしれない。あるいは、検査が終わって、普通に暮らしている可能性だってある」
セラは、唇を噛んだ。
「希望を捨てたくない。でも、何も知らないまま、希望だけを持ち続けるのも苦しい」
ガルドは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は言った。
「……探そう」
セラが顔を上げた。
「え?」
「マナって子だ。生きているかどうか分からないなら、探せばいい」
「でも、記録がないのよ」
「記録がないなら、ほかの方法を考えればいい」
ガルドは、あっさりと言った。
「母親の名前は? 住んでいた場所は? 診療所の記録は? 当時、関わった人間は? 何か残っているものがあるだろう」
セラは、言葉を失った。
「……簡単には見つからないかもしれないわ」
「最初から簡単だと思っていない」
ガルドは腕を組んだ。
「でも、何もせずに諦めるよりはいい」
その言葉に、シンも頷いた。
「俺も、探したいです」
「シン……」
「リオのことも、マナのことも。過去を変えることはできないけれど、何が起きたのか知ることはできるかもしれません。今も誰かが同じような目に遭っているなら、止める方法を探したい」
セラは二人を見つめた。
かつて、彼女が制服を着ていた頃。
誰かを守るために、命令に従うことが正しいと信じていた。
その信念が崩れたとき、何をすればいいのか分からなくなった。
それでも、今は。
彼女の隣に、同じ問いを考えてくれる人間がいる。
答えを知っているわけではない。
正しい道を示してくれるわけでもない。
それでも、彼らは、分からないことから目を逸らさなかった。
「……ありがとう」
セラは、小さく頭を下げた。
ガルドは、少し困ったように顔をしかめた。
「礼を言われるようなことはしていない」
「それでも、ありがとう」
セラは顔を上げた。
「私一人では、もう一度、記録を調べようとは思えなかったかもしれない」
シンは、彼女の横に並んだ。
「じゃあ、一緒に調べましょう」
セラは頷いた。
その瞬間。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
三人は、同時に顔を上げた。
複数の足音。
規則正しい歩調。
そして、金属の擦れる音。
衛兵たちだ。
「……まずいな」
ガルドが低く呟いた。
セラは書類をまとめ、箱へ戻そうとした。
だが、その前に、記録保管室の扉が開いた。
「そこまでにしてもらおう」
白い制服の男が立っていた。
胸元には、管理官の紋章。
その背後には、武装した衛兵が四人。
男は、部屋の中を見回した。
そして、机の上に置かれた書類へ目を落とした。
「……懐かしい名前が並んでいるな、セラ」
ヴァイスだった。
6 管理官ヴァイス
ヴァイスは、記録保管室の入口に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
白い制服には皺一つない。
靴には埃もついていない。
髪は整えられ、胸元の紋章は、朝の光を受けて冷たく輝いていた。
彼は、まるで街のどこかで偶然知人に出会ったかのように、穏やかな表情を浮かべていた。
「久しぶりだな、セラ」
「……ヴァイス管理官」
「その呼び方は、もう必要ないだろう。君は教団の職務を離れたのだから」
「では、ヴァイスさん。ここへ何をしに?」
「それは、こちらが聞きたいことだ」
ヴァイスは、机の上の書類を見た。
「旧兵舎の記録保管室に、退職した元衛兵が二人の旅行者を連れて立ち入る。しかも、閲覧制限のかかった記録を開いている。これは、どういう状況なのだろうな?」
「昔の記録を確認していただけです」
「どの記録を?」
「衛兵候補生の訓練記録です」
「それだけか?」
セラは答えなかった。
ヴァイスは微笑んだ。
「正直に答えてくれたほうが、こちらも助かるのだが」
「……あなたが、何を知りたいのかによります」
「私は、街の安全に関わることを知りたいだけだ」
その言葉を聞いて、ガルドが鼻を鳴らした。
「便利な言葉だな」
ヴァイスの視線が、彼女へ移る。
「何か?」
「街の安全。人々の保護。規則の遵守。あんたたちは、何をするにも、その言葉を使うんだな」
「それらは、実際に重要なことだからだ」
「だったら、聞くけどよ」
ガルドは一歩前へ出た。
「人を守るために、誰かを犠牲にすることもあるんだろう?」
「状況によっては、避けられない犠牲が生じることもある」
ヴァイスは、あっさりと答えた。
「すべての人間を、あらゆる状況で救うことはできない。限られた資源と時間の中で、最も多くの命を守るために判断しなければならない場合もある」
「……その判断をするのは、誰だ?」
「責任を持つ立場の人間だ」
「その責任者が間違っていたら?」
「間違いを減らすために、複数の審査と記録を設けている」
「それでも間違えたら?」
「事実を調査し、必要な修正を行う」
「その修正で、死んだ人間が生き返るのか?」
ヴァイスは、黙った。
ほんの一瞬だった。
だが、彼の表情から、穏やかさが消えた。
「……君は、何を知っている?」
「リオという少年のことを知っている」
ガルドが答えた。
「能力を抑えるための処置を受けて、死んだ少年だ」
背後の衛兵たちが、わずかに動いた。
ヴァイスは彼らへ目配せをした。
衛兵たちは、その場にとどまった。
「なるほど」
ヴァイスは、机の上の書類を一枚持ち上げた。
「君たちは、閲覧制限のかかった記録を見たのだな」
「ええ」
セラが答えた。
「ならば、説明しよう」
ヴァイスは書類を元に戻した。
「リオの件について、私は責任を否定するつもりはない。あの処置は、私の承認を受けて実施された。結果として少年が命を落とした以上、管理責任が私にあることは事実だ」
シンは、思わず顔を上げた。
ヴァイスは、責任を認めた。
言い逃れをするのかと思っていた。
記録が正しいと主張するのかと思っていた。
しかし、彼は自分の責任を否定しなかった。
「……それなら」
シンは、言葉を選びながら尋ねた。
「どうして、処置を止めなかったんですか?」
「当時の報告では、処置は安全に実施できると判断されていた。危険性は認識されていたが、管理可能な範囲と考えられていた」
「セラさんは、危険だと訴えたそうです」
「報告は受けている」
「それでも、承認したんですか?」
「そうだ」
ヴァイスは、シンを見た。
「私は、処置を承認した。セラの懸念よりも、専門部門の判断を優先した。その判断は、結果として誤っていた」
「……それだけですか?」
「それだけではない。処置の失敗後、記録の整理が行われた。その過程で、判断の根拠や責任の所在が不明瞭になったことも認識している」
「だったら、どうして正しい記録を残さなかったんです?」
シンの声が、少しだけ強くなった。
「危険性が分かっていたことも、処置を止める機会があったことも、記録に残すべきだったはずです」
「そのとおりだ」
「……!」
「その点についても、私は責任を負うべきだろう」
ヴァイスは、目を逸らさなかった。
「ただし、君に一つ、理解しておいてほしいことがある」
「何ですか?」
「リオの処置を承認しなかった場合、彼の能力が暴走し、別の人間が命を落としていた可能性もあった」
シンは、言葉を失った。
「それは、可能性にすぎません」
「そうだ。可能性だ」
ヴァイスは頷いた。
「だからこそ、判断は難しい。処置を行えば、少年を危険にさらす。処置を行わなければ、周囲の人間を危険にさらす。どちらの選択にも、危険があった」
「……でも、リオは」
「死んだ」
ヴァイスは、静かに言った。
「その事実は変わらない。どのような理由を並べても、彼が死んだという結果を覆すことはできない」
シンは拳を握り締めた。
ヴァイスの言葉には、明らかな間違いがなかった。
処置を行わなかった場合の結果は、誰にも分からない。
リオが助かった可能性もある。
別の誰かが傷ついた可能性もある。
だからといって、実際に起きたことが正当化されるわけではない。
結果だけで判断することもできない。
だが、結果を無視することもできない。
「……じゃあ、あなたは今でも、同じ判断をするんですか?」
シンは尋ねた。
「同じ状況で、同じ情報しか持っていなかったなら、私は同じ判断をする可能性がある」
ヴァイスは答えた。
「だが、今は違う。あの処置の危険性を、以前よりも理解している。だからこそ、同じ状況を繰り返さないための対策を講じている」
「対策?」
「監視網の精度を高め、能力が暴走する前に検知できるようにする。危険な処置を行う際には、複数の専門家による審査を義務づける。緊急時の中止手順も見直している」
ヴァイスは、落ち着いた口調で説明した。
「すべての問題が解決したわけではない。だが、改善は進めている」
シンは、彼を見つめた。
この男は、何も考えていないわけではない。
人の命を軽く見ているだけの人間でもない。
むしろ、彼は本気で街を守ろうとしているのかもしれない。
そのために、危険を計算し、犠牲を比較し、より多くの命を守る方法を探している。
だからこそ、厄介だった。
悪意だけなら、拒絶すればいい。
しかし、善意と責任感から生まれた仕組みが人を傷つけているのなら。
その仕組みを、どう変えればいいのか。
簡単には答えが出ない。
「……一つ、聞かせてください」
シンは言った。
「あなたは、リオが何を望んでいたか、知っていましたか?」
ヴァイスは、わずかに目を細めた。
「報告書には、母親との面会を希望していたと記されている」
「それだけですか?」
「他にも、能力の制御を望んでいたこと、施設での生活に不安を感じていたことは把握していた」
「……だったら、どうして」
「彼の望みを叶えるためにも、能力の安定化が必要だと考えたからだ」
シンは、唇を噛んだ。
「でも、リオが本当に望んでいたのは、能力をなくすことじゃなかったかもしれない」
ヴァイスは黙った。
「自分の力が怖かった。誰かを傷つけたくなかった。だから、制御したかった。でも、それは、彼の力を全部抑え込んでほしいという意味じゃない」
シンは、言葉を探しながら続けた。
「……自分の力と一緒に生きる方法を、探したかったのかもしれない」
ヴァイスは、しばらくシンを見つめていた。
「その可能性はある」
彼は認めた。
「だが、当時の我々は、その可能性を十分に考慮しなかった。安全性を優先し、本人の意思を制御計画へ反映させる仕組みが不十分だった」
「……」
「その点は、改めるべきだろう」
ヴァイスは、机の上の書類を整えた。
「君の指摘は理解した。必要な部分は、今後の制度改善に反映させる」
シンは、その言葉に違和感を覚えた。
まるで、報告を受けた管理官が、改善項目を一つ追加したかのような口調だった。
リオの死。
セラの後悔。
母親との約束。
それらが、制度改善のための情報として整理されていく。
ヴァイスにとって、シンの言葉は、検討すべき意見の一つなのだ。
悪意はないのかもしれない。
しかし、そこには、目の前にいる人間の痛みを、そのまま受け止めようとする姿勢が見えなかった。
シンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……あなたは、リオのことを覚えていますか?」
ヴァイスは、初めて答えに詰まった。
「……名前は、覚えている」
「顔は?」
沈黙。
「……」
「最後に何を言ったのか、知っていますか?」
ヴァイスは答えなかった。
シンは、目を伏せた。
責任を認めること。
制度を改善すること。
失敗を記録すること。
どれも必要だ。
だが、それだけでは、足りないことがある。
死んだ人間が、ただの事例にならないように。
その人間が何を望み、何を恐れ、誰を大切にしていたのか。
それを忘れないこと。
シンは、そう思った。
「……ヴァイスさん」
「何だ?」
「俺は、あなたを許すかどうか、まだ分かりません」
「それで構わない」
ヴァイスは答えた。
「君が私を許す義務はない。私も、許してもらうことを前提に責任を取るつもりはない」
その言葉には、確かな覚悟があった。
だが、次の言葉が、その印象を変えた。
「ただし、現在の制度を維持する必要があることも、理解してほしい」
シンは顔を上げた。
「……どういう意味ですか?」
「白の同期網は、街の安全を支える重要な仕組みだ。これを停止すれば、輝石の暴走を検知できなくなる。防壁の制御にも影響が出る可能性がある。多数の人間が危険にさらされる」
ヴァイスは、淡々と続けた。
「制度に問題があることと、制度を停止しても問題がないことは、同じではない」
シンは、何も言えなかった。
それは、オルドが話していたことと同じだった。
白い網は、人々を守っている。
同時に、人々を管理している。
だから、単純に壊せばいいわけではない。
それでも、今のままでいいわけでもない。
「……だから、変える必要があるんです」
シンは言った。
「変えるなら、代わりの仕組みを用意しなければならない」
ヴァイスは、頷いた。
「そのとおりだ。君に、それができるのか?」
シンは、答えられなかった。
今の自分には、できない。
街全体を守る仕組みを作ることも、数え切れない人々の安全を保証することもできない。
だからこそ、学ばなければならない。
この仕組みが何をしているのか。
どうして必要とされているのか。
何を変えれば、人々を守りながら、自由を取り戻せるのか。
それを知らずに壊せば、別の悲劇が生まれるかもしれない。
ヴァイスは、シンの沈黙を見て、静かに言った。
「……まだ、答えはないようだな」
「ええ」
シンは正直に答えた。
「でも、答えがないからって、今のままでいいとは思いません」
「それは、私も同じだ」
ヴァイスは微笑んだ。
「だからこそ、我々は制度を改善し続けている」
シンは、その笑みを見た。
この男は、話が通じないわけではない。
むしろ、言葉は通じる。
論理も通じる。
責任という言葉も、犠牲という事実も、理解している。
それでも、二人は同じ結論にたどり着いていない。
何が違うのか。
シンには、まだ分からなかった。
そのとき、ヴァイスがセラへ視線を向けた。
「……さて。君の話も聞かなければならないな」
セラは、静かに顔を上げた。
「私に、何を聞きたいのですか?」
「なぜ、記録を調べていた?」
「過去を確認するためです」
「過去を確認して、何をするつもりだ?」
「同じことを繰り返さないためです」
ヴァイスは、少しだけ眉を動かした。
「それは、制度の改善を求めるということか?」
「それもあります」
「それ以外には?」
セラは、まっすぐ彼を見た。
「リオの記録を、正しい形で残したい」
ヴァイスの表情が変わった。
「……記録は、すでに保存されている」
「保存されていることと、正しく残されていることは違います」
セラの声は、静かだった。
「リオは、危険な能力を持った少年として記録されています。でも、彼はそれだけではありませんでした。母親に会いたがっていた。自分の力を制御したがっていた。誰かを傷つけることを怖がっていた。そうしたことも、記録に残すべきです」
「記録の目的は、制度運用に必要な情報を保存することだ」
「ならば、その制度が人を傷つけた事実も、必要な情報でしょう」
ヴァイスは、答えなかった。
セラは続けた。
「私は、リオの死をなかったことにしたいわけではありません。誰か一人を悪者にして、すべての責任を押しつけたいわけでもない。ただ、彼が生きていたことを、記録の中から消したくないんです」
彼女は、机の上の写真を手に取った。
「この子は、零号でも、管理対象でも、危険な能力の保有者でもない。リオという名前の、一人の人間でした」
ヴァイスは、写真を見た。
しばらくして、静かに口を開いた。
「……その記録を、正式に再審査することは可能だ」
セラは、顔を上げた。
「本当ですか?」
「ただし、すべての情報を公開できるとは限らない。関係者の個人情報や、現在の安全管理に関わる部分は、閲覧制限が必要だ」
「……また、制限ですか」
「制限そのものが悪いわけではない。公開によって、別の人間が危険にさらされる可能性もある」
「では、何を公開するかは、誰が決めるのですか?」
「管理部門が判断する」
セラは、目を閉じた。
「……それでは、同じことが繰り返されます」
「そうならないよう、審査を行う」
「審査する人間も、同じ仕組みの中にいるのに?」
ヴァイスは、沈黙した。
今度は、先ほどより長かった。
セラは、写真を机に戻した。
「私は、もう一度、あなたを信じてみたいと思っています」
その言葉に、シンは驚いた。
ガルドも、セラを見た。
「でも、信じることと、従うことは違います」
セラは、はっきりと言った。
「あなたが正しいことをしようとしているのなら、その判断を確かめる必要があります。あなたが間違っているのなら、それを指摘する必要があります。私が間違っているなら、あなたに指摘してもらう必要があります」
彼女は、ヴァイスを見つめた。
「互いに疑問を持つことを許さない仕組みでは、本当に正しいことを選び続けることはできません」
ヴァイスは、しばらく彼女を見ていた。
やがて、静かに頷いた。
「……君らしい考え方だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めているつもりだ」
ヴァイスは、わずかに笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「しかし、セラ。君は一つ、忘れている」
「何をです?」
「君は、すでに教団の管理対象ではない。ここで閲覧制限のかかった記録を調べる権限もない」
ヴァイスは、机の上の書類を指した。
「君たちがここで見た記録について、正式な調査を行う必要がある。書類はすべて回収する」
「……拒否したら?」
「規則に従って、拘束することになる」
ガルドが一歩前へ出た。
「やってみろよ」
「ガルド」
シンが止める。
ガルドは、ヴァイスを睨んだまま動かなかった。
ヴァイスは、彼女を見ても表情を変えなかった。
「私は、無用な争いを望んでいない。だが、君たちが抵抗するなら、衛兵たちは職務を遂行する」
彼の背後で、衛兵たちが剣の柄へ手をかけた。
白い結晶が、手首の腕輪で明滅する。
シンは、その振動を感じ取った。
白の同期網が、衛兵たちの輝石とつながっている。
彼らは、命令を受けている。
自分たちが正しいことをしていると信じているのかもしれない。
誰かを守るために、ここへ来たのかもしれない。
だからこそ、シンは剣を抜かなかった。
「……分かりました」
シンは言った。
「記録は渡します。ただし、一つだけ条件があります」
ヴァイスの眉が動いた。
「条件?」
「オルドさんの所在を教えてください」
空気が変わった。
セラが、シンを見た。
ガルドも、息を止めた。
ヴァイスは、ゆっくりと目を細めた。
「……オルド?」
「元技術者です。白の同期網の管理に関わっていた人です」
「その人物と、どこで会った?」
「それは答えられません」
「ならば、君の条件を受け入れることもできない」
ヴァイスは、即答した。
「その人物が誰なのか、現在どこにいるのか、確認が必要だ」
「……彼は、生きています」
「そうか」
ヴァイスは、表情を変えなかった。
「それは、興味深い情報だ」
シンは、彼の目を見た。
「……あなたは、オルドさんが死んだことになっていると知っていますね」
ヴァイスは答えなかった。
だが、その沈黙が、何より雄弁だった。
オルドは、教団の記録では死んでいる。
その事実を、ヴァイスは知っている。
そして、彼が生きていることを知った今、どうするつもりなのか。
「……オルドさんを、どうするつもりですか?」
「必要な確認を行う」
「それだけですか?」
「彼は、教団の管理設備に不正に接続していた可能性がある。監視網に干渉したのであれば、事情を聴取する必要がある」
「……彼は、あなたたちの仕組みが何をしているのか、教えてくれました」
「そうか」
「街を守るための仕組みが、人を管理するためにも使われていることを」
「それは、彼の見解だろう」
ヴァイスは答えた。
「私は、現在の仕組みが必要だと考えている。だが、問題がないとは思っていない。改善すべき点があることも認識している」
「だったら、彼の話を聞くべきです」
「聞く必要があるかどうかも、含めて判断する」
シンは、思わず目を伏せた。
まただ。
何かを決めるのは、管理部門。
誰の話を聞くかを決めるのも、管理部門。
どの記録を残すかを決めるのも、管理部門。
そして、その判断が間違っていた場合、修正するのも、同じ管理部門。
仕組みの外側にいる人間は、判断の対象にはなれても、判断する側にはなれない。
それが、今の光冠都市だった。
シンは顔を上げた。
「……俺は、あなたたちの仕組みを壊したいわけじゃありません」
「ならば、協力してほしい」
「でも、何もかもを、あなたたちに決めてほしくもありません」
ヴァイスは、シンを見つめた。
「……零号。君は、自分が何を求めているのか、理解しているか?」
「まだ、全部は分かりません」
シンは答えた。
「でも、分からないことを、分からないまま考えたいんです」
「それでは、時間がかかる」
「時間がかかっても、考える必要があることもあると思います」
「その間に、誰かが傷ついたら?」
シンは、言葉を失った。
ヴァイスは、静かに続けた。
「判断を遅らせれば、その間に危険が広がることもある。すべてを検討し、すべての意見を聞き、すべての可能性を確かめてから行動する。それが理想だとしても、現実には不可能な場合がある」
「……」
「だからこそ、責任を持つ人間が判断する。間違える可能性があることを承知のうえで、選ばなければならない」
シンは、ヴァイスを見つめた。
その言葉には、真実があった。
決めなければならないときはある。
すべての情報が揃うまで待てないときもある。
誰かの命が、判断を待ってくれないこともある。
しかし。
その判断をする人間が、間違いを認められなくなったら。
自分の判断を疑うことができなくなったら。
あるいは、判断の対象になった人間の声を聞かなくなったら。
そのとき、責任という言葉は、何を意味するのだろうか。
「……ヴァイスさん」
シンは、静かに言った。
「あなたは、間違えることを前提にしていますか?」
ヴァイスは、わずかに目を見開いた。
「……何?」
「間違える可能性があることは、認めていますよね。でも、実際に間違えたとき、自分の判断を変えることも前提にしていますか?」
ヴァイスは答えなかった。
シンは続けた。
「制度を改善する。記録を見直す。危険を減らす。それは必要だと思います。でも、誰かの声を聞いて、自分の判断そのものを変えることも、必要なんじゃないですか」
沈黙。
ヴァイスの背後で、衛兵の一人がわずかに姿勢を変えた。
ヴァイスは、しばらくシンを見つめていた。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……君は、危険な人間だな」
シンの背筋が冷えた。
「自分の言葉が、どれほど多くの人間を動かす可能性があるのか、分かっていない」
「……」
「君は、仕組みの外側から物事を見ている。だからこそ、仕組みの中にいる人間には見えない問題を見つけられるのかもしれない。だが、仕組みの外側にいるからといって、君の判断が正しいとは限らない」
ヴァイスは、一歩近づいた。
「君が正しいと思って行動した結果、誰かが傷つくこともある。君が自由を求めた結果、誰かの安全が失われることもある。君が善意で仕組みに干渉した結果、街全体が危険にさらされる可能性もある」
彼の声は、低かった。
「それでも、君は自分の判断を信じるのか?」
シンは、すぐには答えられなかった。
自分の判断が正しいとは限らない。
そのことは、分かっている。
だからこそ、考えなければならない。
間違えたら、認めなければならない。
誰かが傷ついたら、その事実から目を逸らしてはいけない。
そして、誰かを守るために、別の誰かを犠牲にすることを、簡単に正当化してはいけない。
「……自分の判断を、信じたいとは思います」
シンは答えた。
「でも、間違っているかもしれないことも、忘れないようにしたい」
ヴァイスは、何も言わなかった。
「だから、誰かに止めてもらう必要もあると思います。俺が間違っていたら、間違っていると言ってほしい。俺が誰かを傷つけていたら、それを教えてほしい」
シンは、セラとガルドを見た。
「一人で決めないようにしたいんです」
ヴァイスは、しばらく沈黙していた。
やがて、彼は小さく笑った。
「……なるほど」
その笑みは、先ほどまでの穏やかなものとは少し違っていた。
「君が、なぜ零号と呼ばれるのか、少し分かった気がする」
「……どういう意味です?」
「君は、どの色にも属さない。どの分類にも収まらない。だから、仕組みの側から見れば、扱いにくい存在なのだろう」
ヴァイスは、シンの胸元を見た。
「だが、それだけではない。君は、仕組みの外側にいることを理由に、仕組みを否定しようとしているわけでもない」
「……」
「君は、仕組みの中にある矛盾を見つけ、その矛盾をどうすれば解決できるのか考えようとしている」
ヴァイスは、ゆっくりと頷いた。
「それは、確かに危険だ。既存の秩序を揺るがす可能性がある」
彼の目が、鋭くなる。
「だが、同時に、必要なことなのかもしれない」
シンは、思わず顔を上げた。
ヴァイスは、机の上の書類を閉じた。
「今回の記録については、私が預かる。君たちの閲覧行為についても、正式な報告を行う必要がある」
「……オルドさんは?」
「彼の件は、別途調査する」
「彼を拘束するんですか?」
「必要があれば」
シンは、唇を噛んだ。
ヴァイスは、彼の表情を見て、静かに言った。
「君に約束できることは少ない。だが、少なくとも、今回の件を単なる不正アクセスとして処理するつもりはない」
「……本当ですか?」
「私の言葉を信じるかどうかは、君が決めればいい」
ヴァイスは、背後の衛兵へ合図を送った。
「書類を回収しろ。必要なものは複写を取り、原本は管理部門へ移送する」
衛兵たちが動き始める。
セラは、最後にもう一度、リオの写真を見た。
そして、写真を手に取った。
「……これは、私が預かります」
ヴァイスが彼女を見た。
「その写真も、記録の一部だ」
「分かっています」
「ならば、提出してもらいたい」
「いいえ」
セラは、はっきりと答えた。
「この写真は、記録の一部である前に、リオという人間の写真です。私は、この子の顔を覚えていたい」
ヴァイスは、少しだけ目を細めた。
「……君は、本当に変わったな」
「ええ」
セラは写真を胸元へしまった。
「変わらなければならなかったんです」
ヴァイスは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、静かに言った。
「……今回は、その写真については追及しない」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。だが、今後は同じことを認められるとは限らない」
「分かっています」
セラは頷いた。
ヴァイスは踵を返した。
衛兵たちが、書類を回収していく。
扉の前で、ヴァイスは一度だけ振り返った。
「シン」
初めて、彼はシンを番号ではなく、名前で呼んだ。
「君が本当にこの街を変えたいと思うなら、まずは街が何を守っているのか、理解することだ」
シンは、彼を見つめた。
「……はい」
「そして、何を壊せば、何が失われるのかも」
ヴァイスは、そう言い残して去っていった。
白い制服の背中が、廊下の向こうへ消えていく。
扉が閉まった。
記録保管室には、静けさが戻った。
机の上には、空になった箱だけが残されていた。
セラは、胸元の写真に手を当てた。
リオの笑顔。
母親に会いたいと願った少年。
その顔だけは、誰にも持っていかせなかった。
シンは、彼女の隣に立った。
「……セラさん」
「何?」
「俺、まだ分からないことばかりです」
「ええ」
「ヴァイスが、全部間違っているとも思えません。でも、正しいとも思えない」
「そうね」
「この街を変える方法も、まだ分かりません」
セラは、静かに頷いた。
「それでいいのよ」
「……え?」
「分からないことを、分からないと認められるなら。そこから考え始められるでしょう?」
セラは、微笑んだ。
「少なくとも、私は、もう一人で答えを出そうとは思わない」
ガルドが、二人の間に割って入った。
「よし。話は終わりだな」
「……何が?」
「腹が減った」
シンは、思わず笑った。
「この流れで?」
「この流れだからだ。朝からずっと歩いて、頭を使って、腹が減らないわけがないだろ」
「……まあ、それはそうだけど」
「それに」
ガルドは、セラを見た。
「リオのことも、マナのことも、これから調べるんだろう? だったら、まずは飯を食え。腹が減ったまま考えると、余計なところで無茶をする奴がいるからな」
シンは、苦笑した。
「……誰のこと?」
「お前だ」
「……はい」
セラも、少しだけ笑った。
その笑顔は、まだ完全なものではなかった。
過去は消えない。
後悔も、罪悪感も、なくならない。
それでも、彼女は歩き出した。
白い制服を脱いだあとも、守りたいものがある。
誰かに命令されたからではない。
仕組みが正しいと保証してくれたからでもない。
自分で考え、自分で選んだものだから。
その選択を、これからも続けていくために。
7 白い制服を脱いだ日
旧兵舎を出ると、太陽はすでに高く昇っていた。
通りには人々が戻り、広場では子供たちが走り回っている。パン屋の前には新しい列ができ、荷車を引く男が衛兵に道を譲っていた。
街は、今日も平和だった。
セラは立ち止まり、旧兵舎を振り返った。
「……ここを出るとき、私は二度と戻らないつもりだったの」
シンとガルドが、彼女を見る。
「白い制服を返して、身分証を置いて、剣を返した。これで全部終わったと思った。もう、教団の命令に従わなくていい。誰かの死を、規則のせいにしなくてもいい。そう思いたかった」
「……でも、終わらなかったんですね」
「ええ」
セラは頷いた。
「制服を脱いでも、私は私のままだった。リオを救えなかったことも、マナの行方が分からないことも、何一つ変わらなかった」
彼女は、胸元にしまった写真へ触れた。
「だから、私は制服を脱いだことを、正しい選択だったと簡単には言えないの。あのとき、制服を着たまま、もっとできることがあったかもしれない。反対する方法も、記録を残す方法も、別の人間に助けを求める方法も、あったかもしれない」
「……」
「それでも、あのときの私には、それが分からなかった。分からないまま、命令に従った。そして、次は従わないと決めた」
セラは、二人を見た。
「それだけよ」
ガルドが、腕を組む。
「それだけ、ね」
「ええ」
「……十分じゃないか?」
セラは、少し驚いた顔をした。
「何が?」
「一度目に間違えたことを、なかったことにしていない。次は間違えないようにしようとしている。それでも、また間違えるかもしれないと分かっている」
ガルドは、肩をすくめた。
「だったら、十分だろ。少なくとも、何も考えずに同じことを繰り返すよりは、ずっとましだ」
「……そうね」
「ただし、次に間違えたら、そのときはまた考えればいい。自分が間違えたからって、全部を投げ出すなよ」
セラは、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう、ガルド」
「だから、礼はいらないって」
「そうだったわね」
シンは、二人のやり取りを見ながら、空を見上げた。
白い壁の向こうに、青い空が広がっている。
その青は、誰かに決められた色ではない。
ただ、そこにある。
けれど、人間がその色をどう見るかは、人によって違う。
ある人にとっては、希望の色。
ある人にとっては、故郷の色。
ある人にとっては、二度と戻れない過去の色。
同じ色でも、意味は違う。
違うからこそ、誰かの色を知ろうとすることに意味があるのかもしれない。
「……セラさん」
「何?」
「俺たち、オルドさんを助けに行きます」
「ええ」
「そのために、白の同期網について、もっと調べたい。ヴァイスが何をしようとしているのかも、知りたい」
「分かったわ」
セラは、迷わず答えた。
「私も協力する」
「……本当にいいんですか?」
「何を今さら」
彼女は、少しだけ笑った。
「私は、もう白い制服を着ていない。命令に従う義務もない。だからこそ、自分で決められる」
シンは頷いた。
そのとき、ガルドが二人の肩を叩いた。
「よし。じゃあ、まずは飯だ」
「……まだ食べるの?」
「当たり前だろ。さっきのは朝飯だ。もう昼に近い」
「いや、まだそんなに時間は……」
「頭を使うと腹が減るんだよ」
ガルドは歩き出した。
「それに、今後の作戦を立てるなら、食事をしながらのほうがいい」
「……それ、ただ食べたいだけじゃない?」
「何か問題でも?」
「……ありません」
セラが笑った。
シンも笑った。
三人は、市場へ向かって歩き始めた。
誰かに命令されたからではない。
決められた道を歩いているからでもない。
自分たちで、次に進む場所を選んだからだ。
その小さな選択が、いつか大きな意味を持つのかどうか。
今は、まだ分からない。
けれど、シンは思った。
分からないことを、分からないままにしておかない。
知らないことを、知ることを恐れない。
そして、知ったことを理由に、誰かの選択を奪わない。
それだけは、忘れないようにしよう。
鐘が鳴った。
穏やかな音が、街中へ広がっていく。
人々は、いつもどおりに動き始めた。
シンは、その音に耳を澄ませた。
白い網の振動。
街を守るための響き。
人々を管理するための響き。
そして、その奥にある、かすかな乱れ。
まだ、見つけなければならないものがある。
まだ、変えなければならないものがある。
だから、シンは歩き続ける。
白い街の中で、自分が何を選ぶべきなのかを探すために。
8 誰も知らない記録
同じ頃。
光冠都市の大聖堂、その地下にある管理室では、ヴァイスが一枚の報告書を読んでいた。
報告書には、旧兵舎で回収された書類の一覧が記されている。
セラの訓練記録。
リオの処置記録。
マナの移送命令。
そして、閲覧制限のかかった資料への接触記録。
ヴァイスは、最後の項目に目を留めた。
「……オルド」
彼は、しばらくその名前を見つめていた。
記録上、オルドは数年前に死亡している。
職務中の事故。
蓄積地の損傷。
回復の見込みなし。
治療継続は困難。
見覚えのある文面だった。
ヴァイスは、報告書を閉じた。
「生きていたとはな」
彼は机の引き出しを開けた。
中には、古い書類が一枚だけ保管されていた。
表紙には、白冠教団の管理印。
そして、他の書類にはない黒い記号が記されている。
――零号関連記録。
ヴァイスは、その書類を取り出した。
記録の一部は、古い時代のものだった。
現在の白冠教団が成立するよりも前。
白の同期網が、まだ都市全域へ広がる前。
色相分類という概念が、現在ほど厳密に定められていなかった時代。
そこに、短い記述が残されていた。
――無色の共鳴を確認。
――既存の色相分類と一致せず。
――外部信号への同調を拒絶。
――ただし、他の蓄積地に対する干渉を確認。
ヴァイスは、目を細めた。
さらにページをめくる。
そこには、手書きの文章が添えられていた。
――無色は、欠落ではない。
――分類の外にあるものを、分類の失敗と決めつけてはならない。
――白の仕組みは、無色を理解できない。
――理解できないものを、危険と呼ぶのは容易い。
ヴァイスは、しばらく黙っていた。
やがて、書類を閉じた。
「……だからこそ、確かめなければならない」
彼は、机の上にある通信石へ手を伸ばした。
「管理部門へ連絡しろ。零号の調査を、通常の異常共鳴案件から切り離す」
通信石が淡く光る。
『承知しました』
「それから、旧水路の調査を再開しろ。オルドの生存を前提として、関連する記録を洗い直す」
『承知しました』
ヴァイスは、一度だけ目を閉じた。
そして、最後に付け加えた。
「……ただし、零号の身柄確保は継続する」
『理由を確認します』
「彼が何者なのか、まだ分からないからだ」
通信石の光が消えた。
管理室に、静けさが戻る。
ヴァイスは、窓の外を見た。
白い壁。
穏やかな街。
守られている人々。
彼は、この街を守りたいと思っていた。
それは嘘ではない。
だが、守るという言葉が、いつから人々を管理することと結びついてしまったのか。
その問いに、彼はまだ答えを出せずにいた。
そして、彼自身もまた、白い仕組みの中にいる。
自分の判断を疑いながら、それでも判断しなければならない立場にいる。
だからこそ、零号が必要だった。
既存の分類に収まらない存在。
白の仕組みが理解できない存在。
その存在が、何を示しているのか。
ヴァイスは、もう一度、古い記録を開いた。
無色の共鳴。
分類の外側。
そして、理解できないものを危険と呼ぶことへの警告。
「……君は、この街に何をもたらす?」
誰もいない部屋で、ヴァイスは呟いた。
答えはなかった。
ただ、遠くから鐘の音が聞こえてきた。
ゴン。
いつもと変わらない、穏やかな音だった。
しかし、その響きの奥で。
白の同期網は、まだ知らない振動を探し続けていた。




