新たな大樹
天文二十一年の春、関係が悪化した大坂本願寺から逃げるように飛び出した。
そんな私だが、京の都の伏見稲荷大社に戻る道中で日が暮れてきた。
そして本来なら町や村で宿を取るべきだろうが、今は何処に敵が潜んでいるかわからない。
襲撃を退けることは容易だが、周囲への被害を避けるために、街道の途中で隠れやすい場所で野営をすることにしたのだった。
五感を研ぎ澄ませて、護衛の二人と織田忍軍しか居ないことを確認する。
そして携帯食料の乾パンを巾着袋から取り出して、溜息を吐きながら噛み砕く。
焚き火を起こすと所在がバレるので、少し広い草地に三人で向かい合うように座る。
そして月明かりに照らされる中で、大坂本願寺でやらかしたことを林さんと銀子に打ち明け、至急信長と連絡を取るようにと伝えた。
なおその際に、本当に申し訳ないことをしたと深々と頭を下げて、謝罪の意を示した。
「美穂様! 頭をお上げくだされ!」
「そうです! 謝罪せぬとも、信長様はこの事を予見されておられました!」
何故か慌てた二人に止められてしまったので、言われた通りに取りあえず頭を上げる。
しかし疑問なのだが、交渉が失敗に終わるとわかっていたのならば、弟は何故止めなかったのだ。
わざわざ大坂本願寺まで出向いて、喧嘩別れさせた真意がわかない。
なので首を傾げつつも、林さんと銀子にどういうことなのかと問い質した。
「そっ……それが、信長様は美穂様には伏せておくようにと──」
「あの御方の考えを読むのは容易ではありませぬ。
基本的には、私たちが理解している前提で命令を下されますので──」
質問には答えてくれたが、二人もまるでわからないらしい。
皆揃って頭の中を混乱させるだけで、弟は予想していた以上の情報は得られないようだ。
そこで取りあえず私は、ならばと気持ちを切り替えた。
信長の考えを当てずっぽうでも良いので、推測することにしたのだ。
まずは、自分が何も知らないほうが、事が上手く進むと判断したのは間違いない。
しかし大坂本願寺との交渉は当然決裂するが、そうなると戦争状態に突入して、様々な嫌がらせを受ける。
どう考えても不利にしかならないため、結局弟の思惑はわからないままである。
だがとにかく、信長は部下を信頼するのは良いが、この程度は説明しなくても優秀なお前たちならわかってるよな的な命令の出し方は、直さないと駄目だと身を持って理解させられたのだった。
結局これといった結論が出ず、取りあえず信長と連絡を取ることに決めた。
そうこうしているうちに食事が終わったので、今日はもう休もうと草地に横になる。
私は空に輝く月と星々を眺めて、ぼんやりと考えていた。
大坂本願寺との関係が悪化したが、まだ宣戦布告されたわけではない。
だが、売り言葉に買い言葉で啖呵を切ってきたのだ。遅かれ早かれ、戦になるのは間違いなかった。
そして浄土真宗、もっと言えば仏教は日本中に根を張っている。
尾張や同盟国で一揆を抑えることなら、まだ何とかなる。
しかし、日本全国に檄文を飛ばされてはどうにもならない。
今現在の友好国以外の全てが、敵になって襲いかかってくる可能性もあるのだ。
そうなればいくら稲荷大明神様の御加護を授かっていても、最終的に勝てはしても多くの犠牲が出てしまう。
けれど謝罪しようとは思わないし、生臭坊主たちには負けたくなかった。
そして大坂本願寺は農民の不平不満を煽り、一揆を起こすことに長けている。
そんな古くから根付く信仰や価値観と戦うには、力だけでは足りない。
少なくとも尾張の一揆を防いだのは、稲荷大明神の信仰と私への信頼だろう。
ならば布教活動をすれば大坂本願寺に勝てるかと言うと、それには時間が足りないし妨害されるのは目に見えていた。
どうしたものかと足りない頭で考えた私は、あることを思いついて呟きを漏らした。
「征夷大将軍の権威を借りれば、大坂本願寺とやり合えるかも知れないわ」
「「……えっ?」」
私を守るための見張りをしていた二人が驚きの声を漏らしたが、突然だったので意味がわからずに戸惑っているようだ。
それにしても、なかなか良い案だと思うが、まだ何かが足りない気がする。
既に枯れかけの大樹だ。
果たして、どの程度の権威が残されているのか。
未だに戦乱の世が続いていることから、今の足利将軍家はどうにも中途半端な力しか持っていない気がした。
私は寝転がったまま、夜空を見ながら溜息を吐く。
かくなる上は気は進まないが、プランBを行うしかないと覚悟を決める。
「私がやるしかなさそうね」
正直に言えば、滅茶苦茶やりたくない。
しかし尾張や織田家が大損害を受けたり、日の本の国で一揆が活性化するかの瀬戸際なのだ。何事も、やってみる価値ありますぜだ。
そして見張りをしている銀子が気になったのか、こちらに顔を向けて尋ねてくる。
「あの、美穂様。何をやるのでございましょうか?」
私は夜空を見上げたままで、若干投げやりに答えた。
「征夷大将軍をやるのよ」
見張りをしている林さんと銀子が、息を飲むのがわかった。
「正直、これっぽっちも気は進まないわ。
でも現在の危機的状況を打破するには、もっとも手っ取り早いと思うの」
天下を動かす程の権力を手に入れれば、たとえ大坂本願寺でも対等に渡り合えるだろう。
「みっ、美穂様が新たな大樹様に!?」
「おお! 何と素晴らしい!」
二人は驚いているが満更でもないらしく、揃って大喜びしている。
確かに前に上洛した時には、三好氏と足利氏が私を新たな征夷大将軍にと勧めてきた。
だが、稲荷神様の御加護で何処までゴリ押せるかは未知数だ。
下手をすれば号令をかけたところで、誰も言うことを聞いてくれないかも知れない。
何より私は、征夷大将軍はやりたくはないのだ。
しかしここに来て、大坂本願寺と完全に敵対してしまう。
織田家の天下統一を邪魔される可能性は非常に高く、早急に手を打つ必要がでてきた。
それに私は遅かれ早かれ、旧支配体制を何の躊躇いもなく終わらせるし、慣習もより良い未来のために大改革を行うため、反対派が多数出てくることが予想される。
大坂本願寺と同じく、そういった輩も黙らせなければいけない。
頭の悪い私があれこれ考えても、一筋縄ではいかないことばかりだ。
それに眠くなってきたので、最後にもう一度夜空を見上げる。
ここまで来たら成るようにしか成らないかと開き直り、大きな溜息を吐いた。
これ以上は考えても仕方ないと明日の自分に任せて、今日はさっさと寝ることに決めたのだった。




