天文十八年の秋
時は流れて、天文十八年の秋になった。
朝から晩まで働き詰めの毎日を送り、時々ストレス解消とばかりに三河の各地で、重機いらずの私が素手で岩盤を打ち砕いて井戸を掘ったり、亀仙流の畑仕事のように開墾や治水工事を行っていた。
それもあるが、何より天候に恵まれたのも大きいだろう。
おかげで何処の町村も、見渡す限りの黄金色の稲穂が広がっていた。
三河の民は皆、嬉しそうに稲刈りに精を出していた。
そんな中で私は、岡崎城の大広間の一段高い位置に座り、その隣には竹千代が堂々とした振る舞いで家臣たちに挨拶を行う。
そして会議の始まりを告げた後、単刀直入に用件を告げる。
「約束は守ってもらうわよ」
「ああ、竹千代を松平家の当主と認めよう」
そう言ったのは、正面に座る松平広忠だ。
しかし彼は勝負に負けたはずなのに、何処か満足そうな表情をしながら両手をついて深々と頭を下げる。
すると周りの家臣たちも、戸惑いながら慌てて姿勢を正して、次々と平伏していく。
契約を交わしてから、今までずっと大変だった。だがまだ、三河には今川の者が残っている。
それでも私が間に入ることで、表面上は仲良くできている。
なのでもし家臣の引きあげが長丁場になっても、自分が生きている間は、早々問題は起きないだろう。
だがその辺りは三河の者が調整することで、任期を終えた私には関係ない。
「それじゃ、同盟を結ぶのに異論はないわね」
「構わん。そして、手厚い援助に感謝致す」
荒れ果てた三河を立て直すために、かなりの物資や銭を融通した。
たとえ織田家の台所事情が火の車になったとしても、同盟締結が成れば安いものだ。とにかく終わりよければ全てよしなのだ。
双方が良好な関係ならば、穏便な資金回収の手段はいくつもあるだろう。
なので私はようやく一安心して、大きく息を吐いた。
「それじゃ、役目が済んだし尾張に帰るわ。
竹千代君の補佐は、前当主に任せるわね」
ようやく寝る間もない仕事の山から解放されたので、あとは任せてさっさと家に帰るに限る。
「「「えっ!?」」」
だがこの場に集った者たちは皆、驚きに表情をしていた。まさかここで梯子を外されるとは、思っていなかったらしい。
松平広忠だけでなく家臣たちも、目に見えて動揺していた。
「美穂殿は三河に残られるのではないのか!?」
先代の当主が体を前に出し、慌てて尋ねてきた。
彼の質問に、私はふむと思案する。
「確かに成果を出したわ。
でも、領地経営が軌道に乗ったとは言い辛いわね」
確かに今自分が抜けては、領地経営に支障をきたすかも知れないと真面目に返答した。
そんな私だが、ここで家臣たちも口々に意見してきた。
「儂は美穂様が竹千代様の嫁に来ると聞いたぞ!」
「然り! 織田家と松平家にとって、まさに良縁である!」
「互いに信頼し合い、仲睦まじいのは誰の目にも明らかであろう!」
いつ誰が結婚話を広めたのだろうと首を傾げるが、きっとこれが家臣や領民の総意なのかも知れない。
確かに私は竹千代の補佐役だけでなく護衛も兼ねているので、彼が外に出る時はいつもすぐ側に居た。
さらに互いに腹を割って話すことも多く、本音で語れる程に仲が良いと言える。
だがしかし、現時点の私は誰とも結婚する予定はない。
「結婚はしないわね」
「そうですか。残念です」
すぐ隣りに座っていた竹千代が、心底がっかりしたように溜息を吐いた。
何となくだが罪悪感を抱いたので、私なりに精一杯のフォローを行う。
「私以上に魅力的な女性なんて、この世に星の数ほどいるわよ」
「そうでしょうか? とてもそうは思えません」
はっきりと断言した彼を見ていると、もしかしたら私が初恋だったのかも知れない。だとしたら、可哀想なことをしてしまった。
竹千代は幼い頃に実母と生き別れたので、年の差があって、なおかつ親身になったりあれこれ世話を焼いてくれる女性に惹かれたのだろう。
何ともやり切れない気持ちを抱いて、私は小さく溜息を吐いた。
きっぱり振っても良いが、まだ幼い彼の心を抉るのは後味が不味い。
なのでどうにか、この面倒な結婚話を乗り切ろうと足りない頭を働かせる。
そこで同盟締結が成ったら済ませるつもりの、最後の仕事を思い出した。
ならば今が良い機会だと考えた私は、堂々と声を出した。
「今から竹千代君を母親に会わせるわ。これで、きっと目が覚めるでしょう」
「ええっ!? 本当に会えるのですか!」
離縁の理由も既に聞いているが、私は彼の驚きにも動じない。
そのまま、深く頷いた。
「大丈夫よ。お家事情で離縁しても、問題なく会いに行けるわ」
竹千代の母に会わせる約束は、彼が尾張にいた時に交わしたものだ。
今川か織田のどちらに従うか悩んだ末の離縁らしい。
だが私は両家に顔が利くし同盟も結んでいるので、会ったとしても何の問題もない。
そして彼が母性を求めていると仮定すれば、生き別れになった母と再会することで、欲求不満も解消される。
私に抱いていた初恋だと錯覚していた感情も、綺麗サッパリ消えてなくなるのだ。
これで後腐れなく、尾張に帰ることができる。
私は思い立ったが吉日とばかりに松平広忠に顔を向けると、彼はすぐに何が聞きたいかを理解したのか口を開いた。
「竹千代の母ならば、二年ほど前に阿古居城の城主、久松俊勝と再婚したぞ」
まさかの人妻になっていた。
しかし、戦国の世はいつ夫と死に別れるかわからないので、再婚は別に珍しくない。
だが、現代人の感覚では色んな意味で不安になるし、感動の再会にならずに余計に母子の関係が拗れるのではと思い、もう一度確認のために尋ねる。
「そうなの?」
「ああ、間違いない」
松平広忠や他の家臣たちは、空気を読んだらしく、視線をそらしていた。
良い言い方をすれば、一度は失った女の幸せを手に入れた。
しかし、最初に生まれた竹千代にとっては色々複雑な心境だろう。
「まあ、考えていても仕方ないわ。生きてるだけマシよ」
「美穂殿は強いですね」
幼い松平家の当主はそう言うが、戦国時代は私以上に強い人が大勢居る。
肉体ではなく精神面のことだが、自分は深く考えないのでそう見えるだけだ。
実際には打たれ弱いので、売り言葉に買い言葉ですぐカッとなるし、間違いや失敗したらどうしようと怯えるからこそ、やけくそ気味に開き直る。
なので一周回って、平静を保っているように見えるのだ。
竹千代を母に会わせるのも、実際に会って何か起きたら、その時に考えようとしか思ってない。
そんな自分を、彼だけでなくこの場に集まった者は眩しいものを見るような視線を向けていた。
なのでどうにも小っ恥ずかしくなり、円座から立ち上がって竹千代を連れて、久松俊勝の居城を目指すのだった。




