塩水選
天文十二年の春、名実共に豊穣の美穂になる覚悟をそれとなく決めた私は、冬の間に溜まった書類を持って、気晴らしに外へ出かけることにした。
ふと種籾の塩水選を問題なく行っているのか気になったので、美穂協同組合の米村支部に向かう。
武家屋敷と同程度の面積の美穂協に到着した私は、警戒厳重な正門を顔パスで通過する前に、お目付け役の林さんに唐突に思いついたことを質問する。
「まさかとは思うけど、美穂協同組合も広めてるの?」
「もちろん、尾張中に広めております」
新技術や道具や農法といい、未来の知識は複雑怪奇だ。
さらに様々な利権や思惑が混じり合い、各々の好き放題にさせたら尾張どころか、日本中が滅茶苦茶になってしまう。
そのために美穂協同組合で徹底管理する必要があるのだが、それは同時に多くの問題も抱えることになる。
「村や町を一つの組織にして効率化を図る。美穂協同組合の仕組みは、殿も感心しておられました」
「そっ、そうかしら?」
村全体を一つの組織にして動かせば作業の効率化を図れるし、本来なら見放されてもおかしくない小規模農家を手助けして、さらなる収量増加も狙える。
だがしかし、これには致命的な欠陥がいくつもある。
例えば、村民の連帯感や団結力を否応なしに高めることだ。
もし領主の統治に不満を抱けば、瞬く間に村中に伝播して、一揆の発生率が上がってしまう。
次に座、もしくは中間搾取や特権階級の者との相性が最悪である。貴族や神社に金銭を支払い、営業や販売の特権を得ることができるのが従来の制度だった。
しかし、美穂協はこれに真っ向から反発している。
技術提供や販売に関しては、悪用されないように厳しく取り締まり、私腹を肥やす貴族や神社などを締め出した。
つまり私は、彼らの牙城を脅かす対立勢力であると、堂々と宣言しているのだ。
当然父も気づいているだろう。
それでもあえて、この策を用いた。
本当に思い切りが良いというか、きっと分の悪い賭けが好きなのだ。
「村民の連帯感が高まって病害虫防除もしやすくなり、取りこぼしが減って収量も上がるでしょうけど。
……反動が怖いのよね」
去年は幸い問題は起きなかったが、それは準備期間だからだ。今年も大丈夫だとは、決して言えない。
むしろ、米作りが始まる今からが本番であり、やれることはしてきたつもりだが、それでも絶対ではなかった。
とにかく何事も起きないことを、願うばかりである。
「はぁ、もう成るように成れね」
もし失敗したら、排除した連中に徹底的に責められ、あらゆる手を使って出る杭は打たれる。
従来の制度に逆戻りするだけなら、まだ良い。
だがしかし、下手をすれば尾張全土で一揆が起きかねないのだ。
当然自分一人の責任で済むはずもなく、確実に織田家や家臣も巻き込む大惨事になる。
そんな立場で皆の指揮を執らざるを得ない現状が、何とも世知辛かった。
「尾張には豊穣の美穂様がおられるので、心配はいりません」
「それが一番心配なのよ!」
林さんが良い笑顔で太鼓判を押してくれたが、はっきり言って何の解決にもなっていない。
つい反射的にツッコミを入れてしまったが、美穂協同組合の入り口で立ち止まっていても状況は改善しないので、私は大きな溜息を吐いた。
とにかくどれだけ綱渡りだろうと退路が塞がれている以上は、前に向かって一歩を踏み出すしかないのだった。
正門を抜けて敷地内に入り、出迎えてくれた村長に簡単な挨拶をする。
彼に案内されてやって来たのは、屋外に作られた美穂協米村支部の施設の一つであった。
そこには様々な農機具が置かれており、見た目は大きな納屋だ。
既に大勢の村民が集まり、私が教えた種籾の塩水選を行っていた。
ちなみにやり方を簡単に説明すると、桶に真水を入れて、その上から種籾を投下する。
そのままかき混ぜると、籾が浮き上がってくるので、これを残らず除去するのだ。
何度か繰り返した後に、塩を溶かした水に取り替える。
残った種籾をこちらに移し替えて、同じような手順で浮いてきた籾を除去していく。
そして、最後に真水で洗浄する。
米作りのゲーム攻略を行うために調べたサイトには、この後に消毒すると記載されていた。
だが、戦国時代にそんな便利な農薬はないので、省いて日陰で乾燥させるのであった。
納屋で皆が一生懸命作業しているのを見学した私は、満足そうに頷く。
「指示通りに行っているようね」
「はい、全ては美穂様の言いつけ通りです」
私の言葉に村長が答える。
だが、何故かすぐに顔色が曇ってしまう。
「しかし、新農法を試すのは初めてです」
その後は村長だけでなく、この場に居る誰もが口を開かないが、何となく雰囲気は伝わってきた。
「不安かしら?」
「いっ、いえ! 滅相もございません!」
わざわざ口にしなくても、この場に居る者の顔つきを見ればすぐにわかった。
実は私も、内心ではかなり不安だが、当人が弱腰では本末転倒だ。
なので、とにかく強気で発言をする。
「塩水選を行うことで、収穫量は前年よりも一割は増えるわ」
「「「おおー!!!」」」
取りあえず、明確な成果を提示して釣る作戦を実行に移した。
閲覧したサイトにも書いてあったので、間違いない。……はずであった。
その後は私も農民に混ざり、写真や映像を思い出しながら実践していく。
さらには、田起こしや育苗にも積極的に参加して見本を示す。
何しろ新農法の詳細を知っているのは、自分しかいないのだ。
全てを言葉や文字で説明しようとすると、膨大な手間と時間が必要になるし、何より直接やって見せたほうが早い。
おかげで皆はすぐにコツを掴み、作業効率は日々向上していった。
だが、私が管理する村は六つもある。そこに、さらに尾張全土まで伝えなければならないのだ。
とても一人で何とかなる規模ではないため、各村の代表や専門家を呼び出した。
そして自分が拠点としている米村で尾張でいち早く実地研修を積ませて、それを他の町村に伝達する方針に切り替えたのであった。
米村支部内に作らせた実験用の小さな田んぼに、ゲームの田植え歌を口ずみつつ、まだ苗はできていないので細い木の枝を泥に刺していく。
今も、これが正条植えだと集めた関係者に教えているが、正直次から次へと仕事が増えるので休む暇がない。
私が稲荷神様の御加護で健康な体になっていなければ、いくら回復の早い子供とはいえ、疲労でぶっ倒れてもおかしくなかった。
しかし、精神的な疲労はいかんともし難く、こんなことを続けていればいつか酷いことになる。
だがこのおかげで、月火水木金土日の七日を思い出して、毎週日曜日を休日に定めた。
これを当てはめるのは私だけだが、ようやく心の安寧を取り戻すことができたと、一安心するのだった。




