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ドッジボールの少年

「駆け落ち?」

多門はあんぐりと口を開けた。

「ああ、パート先の男とらしい」

その日、遅く帰宅した芝次郎はリビングのテーブルで多門の作った夕飯を取っていた。

瓶からコップにビールを注ぎながら芝次郎が答える。

「ほんまか…」

まさかそんな深刻な事になっているとは思わず多門は驚いていた。

「パパ、ママは今日も帰って来ないの?」

航平が不満そうな顔で言う。

「航平、もうママの話はしなくていい」

芝次郎がぴしゃりと言う。

「どうして?」

航平の眉が八の字に、口がへの字に歪み、みるみる涙が滲んでくる。

「わーーっ!ママはきっと帰って…や、ご飯ならおっちゃんがいつでも作りに来たるから!!」

小さな体を震わせ、今にも泣きだしそうな航平を多門は慌てて慰める。

「ほんと?」

航平は潤んだ瞳で多門を見つめる。

「お、おうホンマや。毎日だって作りに来たるで」

「あそんでくれる?」

「おう遊んだるで」

慌てながらも笑顔を作り、多門はその太い胸をドンと叩いた。

「おっちゃん、ありがとう…」

航平は泣き止み、少し笑顔を作った。


もう夜も遅い時間だ。疲れたのだろう、その後眠ってしまった航平を多門は抱っこして布団に運び、寝かせたのだった。


「モンちゃんスマンな。本当に当分頼めるか?航平も喜ぶし…」

晩酌を続ける芝次郎が多門をちらりと見ながら言う。

「ええよええよ。ワシどうせ独りモンやし。食べてくれる人おる方が張り合いあるし…」

ヨッシャ、これで毎日芝ちゃん家来れるわ…。多門はつい内心喜んでしまった。

「助かる…」

そう言って芝次郎は更にビールを煽った。明らかに普段よりも飲み過ぎだ。テーブルには空にしたビール瓶が数本転がっていた。

大丈夫かいな?多門も少し心配になってきた。


「……」

トイレからリビングに戻った多門は思わず目の前の光景をじっと見つめた。

芝次郎は酔っぱらって寝てしまっていた。

学生時代ラグビーをやっていたという逞しい体躯、父親の包容力を感じさせる大きな腹、男らしくも穏やかな顔つきは地味ながらも整っており、豊かな口髭も似合って、ネクタイを緩めた無防備な寝姿であっても貫禄のある姿は多門には様になっているように見えた。

「し…芝ちゃん…」

多門は顔を赤くして芝次郎の前で釘付けになり立ち尽くした。


「おっちゃん、何してるの…?」

その時突然声が響いた。

ドキィ‼

多門の心臓の音が跳ね上がる。

目が覚めてしまった航平が起き出して目をこすり、枕を引きずったままリビングに戻ってきていた。

「はっ!? いや、芝ちゃん疲れてるしマッサージでもどうかと思ってな!?」

多門は慌てて弁明するが、言葉と裏腹にその顔は真っ赤に染まっていたのだった。



ある日、幼稚園の門から中を野球帽にジャンパー姿の中年男が覗いている。

それは多門だった。悲しそうで、今にも涙が出て来そうな顔をしている。

その視線の先では運動会が行われていた。カラフルな三角旗で飾られたグラウンドで体操用の帽子を被った幼稚園児の男の子が母と父に囲まれている。男の子は母親に手を伸ばす。

男の子は母と父と手を繋いで背を向けて去っていく。

それを凝視しながら涙が溢れる多門。

「あ…!!」

多門は布団からガバッと飛び起きた。汗だくだ。

「……」

多門の住むアパートの一室。

枕元にはティッシュボックス、腕時計の横に写真立てが飾られている。

「夢…やな…」

「…敦…どこにおるんや…」

その写真立てには多門とその息子が幸せそうな笑顔で映っていた。



キーン コーン カーン コーン

学校のチャイムが鳴っている。

学校の窓から航平が一人で外を見ている。

その先には母親と子供が楽しそうに手をつないで歩く姿があった。

航平は寂しそうな、悲しそうな顔をしてそれを見つめていた。


「おい航平」

航平が声のした方を見ると、そこにはがっちりした体の大きい坊主頭の少年と、やややせ型で目じりが上がった笑い顔が特徴的な少年の二人がニヤニヤ笑っていた。

「あ…」

「お前のかーちゃん、“かけおち”してお前を捨てたんだろー」

坊主頭の少年が唐突に言い出す。

「うちのママも言ってたぞー」

痩せた方の少年も調子を合わせて囃し立てて来る。

「マ…ママはそんな事しないよ‼」

思わず涙を溢れさせながら航平は反論した。

「うるせーよ!」

ドンッ!

「あっ!」

坊主頭の少年が航平の体を押した。後ろの壁に航平の体がぶつかる。

「おい」

ヒュッ

坊主頭の少年の後ろから声がした瞬間、誰かがボールを投げた。ドッジボール用のボールだ。

ボン

「ってぇ‼」

そのボールは坊主頭の少年の頭にぶつかって弾んで行った。

「てめぇ…きかん坊のゲン太!」


ボールが当たった頭を押さえながら坊主頭の少年が睨みつけたその先には別の少年が立っていた。

ボサボサの髪、鼻に貼られた絆創膏、顔の傷。随分わんぱくそうな、しかめっ面の体操着姿の少年だった。

「その呼び方すんじゃねーよ!」

「わっ!ゲン太がキレた!」

「逃げろー!」

いじめっ子の少年達は慌てて走り去って行った。

「ったく…」

ゲン太と呼ばれた少年はドッジボールを拾いに航平の足元にしゃがんだ。

「あ…」

航平がゲン太のそんな姿を見ていた。

ゲン太はドッジボールを片手に航平を一瞥する。

「おまえ…母ちゃん出て行ったのか?」

「うん…」

「フーン…」

航平は一瞬何を言うべきなのか分からず、あっそうだと気付いた。

ガバッ

「ゲン太くん、ありがとう!」

「!」

航平はゲン太に後ろから抱き着いていた。

突然の事に驚き、少し顔を赤くするゲン太。

「お、おう…」



日が暮れ、暗くなった芝次郎のマンション。

「おーい航ちゃん。晩ゴハン作りに来たで~」

玄関から買い物袋をぶら下げた多門が笑顔で入ってくる。

「おっちゃん!」

航平がころころ走り寄って来る。

台所に立って食材を整理する多門に抱き着き、話し出す。

「オッチャン!今日はゲン太くんと仲良くなったよ」

「ほーほんまか。そりゃ良かったなぁ航ちゃん」


二人は仲良く話をしながら料理や食事を楽しんだ。

「ただいま~」

やがて芝次郎も帰宅してくる。

「お、芝ちゃんや。航ちゃん、パパ帰ってきたで」

「パパ!」

「おう航平、ただいま。モンちゃん、昨日は悪かったな…」

「え、な、なんのことや?ワシなんもしとらんで…」

多門はなぜか赤くなってしどろもどろになる。

「いや、俺昨日は酔っぱらったまま寝てしまってな…迷惑かけなかったか?」

「な、何言うねん、大歓げ、いや、そんなんなんでもないわ。そんな事より飯できてるから食べや」

「スマンな助かるよ。お、いい匂いだな」

「パパ、今日のゴハンも美味しいよ!」

芝次郎も一晩経って少しは落ち着いた様子で、三人はささやかな和やかな時間を過ごすのだった。



つづく…

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