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三章 2


   2


「何か言うべきことは」

 机の向こうの男は静かに訊ねた。

「ありません」

 机を挟んで立つ小澤も静かに答える。

 窓の無い薄暗く狭い部屋の中で、小澤は直立の姿勢を維持するだけの力を残し、身体を弛緩させる様に努めて立っていた。もし、僅かでもそれ以上の力がこもれば、殺意が弾けてしまいそうだった。

「無いのなら、出て行け」

 小澤の返答からは、僅かな間しかなかった。だが、男は声を荒立てこそしなかったが、鬱陶しそうに言う。

「失礼します」

 頭を深く下げ、小澤はゆっくりと踵を返した。手は拳を握りそうになり、足は強く床を打とうとする。大きな労力を費やし、それを堪える。

「当分、貴様の顔は見たくない」

 部屋を出てドアを閉じる間際、その言葉が聞こえた。ドアノブにかける手から力を抜き、ゆっくりと静かに閉める。

 ――ぶち殺すぞこの野郎。

 胸中に呟く。噛み締めた奥歯がぎしりと音を経てる。胃酸が過剰に分泌され、腹中が燃えている様な錯覚に囚われる。それでも湧き上がる衝動を抑制し、小澤は白い壁と天井、灰色の床の無機質な廊下を静かに歩き出した。

 気分が悪い。一刻も早く落ち着けるところへ行きたい。平静を装う分、怒りは捩れて焦りを生み、それは自らをはめる陥穽と化す。

「何だぁ、おず屋じゃねえか」

 階段を下りようとして、上の階から下りてきた若い男と鉢合わせになった。青いシャツにネクタイ、スラックス。装いは普通の勤め人だが、その男の態度には、わざとらしく粘り付く馴れ馴れしさと、粗暴が滲んでいた。

「ああ、こりゃどうも、お久しぶりで――」

「お久しぶりじゃねえよ。こんなところで何してんだよ、ああ?」

 内心臍を噛む。普段の小澤ならこの手の輩を相手に、言葉を断ち切られる様な事は絶対にしない。時候の挨拶だろうが追従だろうが、兎に角言葉を重ねて自分のリズムを作り、相手を煙に巻く。この手の輩には、付け入る隙を与えてはならない。なのに――

「なあ、まだあの女飼ってんの、ああ?」

 男の顔に、下卑た笑みが浮かぶ。

「惚けんなよ、あの糞ハッカーだよ。ッたく、散々引っ掻き回されたってえのに、てめえが発情して――」

 男の腕が肩に回される。それは無遠慮な馴れを超え、最早首を掻き込む拘束だった。

 不愉快だった。男の体温も体臭も、口臭も、首筋を圧迫する力も、何もかもが疎ましく不愉快だった。無論、男の声も、言葉も不愉快極まりない。あまりの不快さに、それは意味を無くし、神経に障る騒音としか認識できない。小澤はほとんど機械的な幇間口調で男から逃れようとしていたが、不意に頭に引き攣る様な痛みが走り、クリアな声が脳に届いた。

「――すかしてんじゃねえぞ、てめえ」

 頭髪を掴まれ、揺さぶられる。怒気を露わにした男の顔が間近に迫る。男は鋭く舌打ちし、小澤の顔を壁に打ち付けた。ごっと、鈍い音がして顔面に衝撃が走り、脳が揺れた。そしてすぐに掴んだままの髪を引っ張られ、引き戻される。次は顔を殴られるか、腹に膝が入るか、危険を回避するため本能的に身体を丸めようとするが、依然頭髪を掴まれたままなのでそれも出来ない。頭の回転は完全に止まってしまって、何も考えられない。また身体が揺れた。頭髪ごと引っ張られる。だが、今度は少し様子が違った。

「何やってるの、君」

 まだ頭髪を掴まれていて不自然な姿勢を強いられていたが、かろうじて目を声の方へ向けることは出来た。そこに居たのは、飯尾だった。小澤にからんでいる男は、どうやらいきなり殴られたらしく、口元を押さえていたが、何かくぐもった声で言おうとした。しかし、そこへまた鋭い拳が飛ぶ。男は仰け反って頭を壁にぶつけ、小澤の髪を離した。

「外注の業者さんにからんで暴力振るうって、何者だよ君。どこぞのヤクザか?ねえ、聞いてる?」

 男はまた何か言おうとした。恐らくは謝罪の類だったのだろうが、その言葉はやはり拳で塞がれた。男は唇を切り、血を迸らせながら崩折れた。

「なあ、俺は訊いてるんだよ。何か答えなさいよ、ほら」

 そう言って飯尾は這い蹲る男の顔面に蹴りを放った。靴の硬い爪先がめり込み、男の口元は潰れたトマトの様になった。

 飯尾は軽く溜息を吐き、小澤に目を向けた。

「すまんね、教育がなってなくて」

 飯尾は小澤の腕を取って立たせ、何も言わず足早に階下の駐車場へと向かった。

「らしくないね」

 車に乗り込み、イグニッションをかけてから、漸く飯尾は口を開いた。

「いつもの君ならあの程度、難なくあしらってただろ?」

「見てたんですか、最初から?」

「聞いてたんだよ」

 暗い地階から、照明で燈色に刳り貫かれたかの様に見える地上へのスロープに入る。滑り止めで刻まれた段差を越える度に、柔らかいサスペンションが気味悪いほどにふわふわと身体を揺すった。

 地上は、既に駐車場よりも暗くなっていた。

「部長に随分しぼられた様だね」

 ステアリングを取りながら、飯尾は煙草を咥え火を点けた。後部座席の小澤は髪を掻き上げ、手櫛を入れる。

 どうやら、全てお見通しらしい。精神的に自制が効かず、三下相手に凡ミスを繰り返し、あれしきの暴力で頭が真っ白になってしまった。小澤は荒事は苦手で腕っ節はまったく立たないが、それなりに場馴れはしている。殴られ慣れ蹴られ慣れているので、ダメージを最小限に抑えるコツを心得ている。どんな状況でも、冷静な観察力を失わない自信はあった。それが、何もできなかった。自己嫌悪で死にたくなる。だが、見透かされてそれをあっさり認めては、負け犬以下に成り下がってしまう。虚勢は張らなければならない。

「いつも通り、淡々としたものでしたよ」

 飯尾はバックミラーで小澤を見て、微かに笑った。

「さて、どこまで送ろうか」

「あ、申し訳ないんですけど、ちょいと遠くまで、東橘の地下駐までいいですか」

「――尾行対策か」

「飽く迄念のためですけどね……お願いできますか?」

「ああ、賢明な判断だ」

 快諾し、飯尾は車を指定の場所へ向けた。東橘とは山向こうの地名で、そこには郊外型の大規模ショッピングモールが在る。その地下駐車場は広大で複数の出入り口を有し、シネマコンプレックスも在るので、平日の宵時でも利用者はそれなりにある。駕籠抜けを行うには、近隣では最も適していると言える。

「じゃ、ドライブと洒落込むかい」

 笑ってそう言ったが、飯尾の笑みはすぐに消えた。

「巻き込まれ、なんだろうけど妙だね」

 笹ヶ丘の白骨死体発見についての捜査で、警察が小澤の名を掴んでいる。それが今回の呼び出しの理由だった。

「僕の名前ってのはどこから出たんですかね。いや、僕は誰にも言ってないし、見られた憶えも無いんですけど」

 平山美貴の死体発見者が小澤である事は、既に飯尾も了承済みの事。事態が事態だけに、話さざるを得なかった。何故そんな場所へ行ったかは、少々ぼかしはしたが。

「あの川筋の田中って家、そこに九十を越えるお婆さんが居るんだけど、知ってる?」

「……あのババア、まだ生きてたンすか」

「君が汚れた格好で笹薮から出てくるところを、家の中から見てたんだと。小澤の悪ガキがまた悪戯してやがるって、聞き込みに来たお巡りさんに言ったらしいよ」

「何十年前の記憶で言ってんだよ」

 顔を覆い、うんざりした声をあげる小澤に、君はよっぽど子供の頃から変わらないんだなと、飯尾は笑った。

「でも僕の周り、警察の気配は無いですよ」

 ただし、ここしばらく警察以外の気配には、いささか悩まされているのだが。

 警察の捜査は、それが私服警官であっても一種異様な、独特の気配がある。どうしても一般人から浮いてしまう強烈な力場を持っている。周囲に無関心な都会なら兎も角、コミュニティで結束し排他的な田舎では、特にそれが顕著に出る。有態に言えば下手なのだ。よほどの手練か老練な捜査官が相手でなければ、気を配ってさえいればすぐに判る。

「こっちにリークがあった以上、君の事は捜査会議に挙がってるはずなんだが」

 しかし事実、小澤の周囲に警察の手は及んでいない。それは飯尾の側で確認済みだ。もし少しでもその兆候があれば、絶対に直接接触はしない。それ以前に連絡も取らない。こうして接触を持ったのは、多少のリスクを犯しても、小澤には警告し、釘を刺す必要――価値があると判断されたからだ。

「どうする。しばらく様子見で休業?」

 飯尾の言葉は質問でも意見でもない、忠告だ。尤もだと小澤も思う。しかし、

「ちょっと、やりたい事があるんですけど」

 そう言って、ミラーに映る飯尾を見た。

「ほう、聞かせてもらえるのかな」

 進行方向を見据えたまま、飯尾は言った。


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