第四話 婚約破棄と男爵家のどん底
第四話 婚約破棄と男爵家のどん底
その日の朝、アルカディア男爵邸には妙な緊張感が漂っていた。
空は高く晴れているのに、屋敷の中だけ空気が重い。
使用人たちは小声で囁き合い、廊下を歩く足音まで控えめだった。
原因は分かっている。
王都銀行からの使者が来る。
その噂が昨夜から広がっていた。
応接間ではヘンリー男爵が何度もハンカチで額を拭っている。
「だ、大丈夫だよな……? きっと少し待ってもらえれば……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていない声だった。
向かいのソファではエドワードが紅茶を飲んでいる。
いつも通りだ。
湯気の立つカップ。
窓辺から差し込む朝の光。
庭の白薔薇。
まるで破産寸前の家とは思えないほど落ち着いている。
「エドワード、お前は緊張しないのか?」
「別に」
「別にって……今日は銀行が来るんだぞ!?」
「午前中でしょう」
「そ、そうだが……」
「なら昼食までには終わりますね」
ヘンリーは頭を抱えた。
なぜ息子はこんなにも平然としているのか。
理解できない。
その時だった。
屋敷の外から馬の嘶きが聞こえた。
続いて、車輪の音。
ごとり、と重々しい振動が石畳を伝ってくる。
使用人が青ざめた顔で駆け込んできた。
「だ、旦那様……!」
「き、来たか……!」
「そ、それが……王都から二台……!」
窓の外を見る。
豪奢な黒塗りの馬車だった。
金の装飾。
磨き抜かれた車体。
いかにも金の匂いがする。
先に降りてきたのは、鮮やかな青いドレスの女。
レティシア・グランフォード。
エドワードの婚約者だった。
陽光を受けた金髪が輝き、宝石の耳飾りが揺れる。その姿だけ見れば、絵画から抜け出してきたような美しさだった。
だが彼女の瞳には、冷えた計算高さが浮かんでいる。
さらに馬車の反対側から、一人の男が降りてきた。
二十代後半ほど。
派手な赤い上着に身を包み、香水の匂いを振り撒いている。
成金特有の悪趣味な豪華さだった。
エドワードは一目で理解する。
新しい男か。
面倒だな、とだけ思った。
「……はぁ」
思わずため息が漏れる。
ヘンリーが青ざめる。
「や、やはり怒っているのか!?」
「いえ」
「なら何故ため息を!?」
「朝から騒がしいので」
その返答に、ヘンリーは泣きそうな顔になった。
やがて大広間の扉が開かれる。
かつ、かつ、と靴音を響かせながらレティシアが入ってきた。
甘い花の香水が空気に広がる。
「ごきげんよう、エドワード様」
「どうも」
エドワードは座ったまま軽く会釈した。
レティシアの眉がぴくりと動く。
以前なら慌てて立ち上がり、彼女を丁重に迎えたはずだった。
だが今のエドワードには、その気遣いをする気力がない。
定時外の感情労働は避けたい。
「……お久しぶりですのに、随分と素っ気ないのですね」
「特に急ぎの要件でなければ、簡潔にお願いします」
「急ぎの要件ですわ」
レティシアは薄く笑った。
その笑みは冷たい。
「本日は婚約について、お話に参りましたの」
ヘンリーがびくりと肩を震わせる。
「れ、レティシア嬢……」
「単刀直入に申し上げますわ」
彼女はエドワードを見下ろした。
「破産寸前の家に嫁ぐ趣味はありませんの」
空気が凍った。
使用人たちが息を呑む。
ヘンリーは顔面蒼白だ。
「ま、待ってくれ……! まだ破産すると決まったわけでは……!」
「ですが時間の問題でしょう?」
レティシアは肩を竦める。
「王都では皆そう噂しておりますわ。アルカディア家は終わりだ、と」
隣の男が鼻で笑う。
「いやぁ、実に気の毒ですなぁ」
わざとらしい口調だった。
「私はグランチェスター子爵家のアーノルド。現在、レティシア嬢とは将来を前向きに検討しておりまして」
「つまり乗り換えですか」
エドワードが言うと、アーノルドは少し顔を引き攣らせた。
「……言い方というものがあるでしょう」
「事実では?」
レティシアが苛立ったように扇を閉じる。
「エドワード様。わたくしは現実を見ているだけですの」
「そうですか」
「貴族には責任があります。没落家門に付き合って共倒れするほど、世の中は甘くありません」
「ええ、その通りですね」
あまりにもあっさり肯定され、今度はレティシアが戸惑った。
「……怒らないのですか?」
「何故?」
「婚約破棄ですのよ!?」
「契約解除でしょう」
エドワードは紅茶を飲む。
「互いの利益が一致しなくなった。なら終了する。合理的です」
レティシアが絶句する。
本来なら泣きつくはずだった。
縋り付いて、自分を引き止めるはずだった。
なのに目の前の男は、まるで帳簿の一行を処理するように淡々としている。
その時だった。
再び扉が開く。
今度は空気そのものが変わった。
冷たい冬の風が吹き込んできたような感覚。
入ってきた男は黒いコートを纏い、銀縁の眼鏡をかけていた。
年齢は三十前後。
整った顔立ちだが、その瞳には一切の温度がない。
彼は室内を見渡し、静かに告げた。
「王都銀行ロスチャイルド・インダストリー支店長、トーマス・ロスチャイルドです」
低く落ち着いた声だった。
だが、その響きだけで空気が張り詰める。
ヘンリーが立ち上がる。
「ト、トーマス殿……!」
「アルカディア男爵家へ通達します」
トーマスは感情なく書類を開いた。
「本日中に未払い利子一万ポンドを支払えない場合、担保契約に従い領地を差し押さえます」
無慈悲な宣告だった。
ヘンリーの膝から力が抜ける。
「そ、そんな……」
どさり、と床へ崩れ落ちた。
「ま、待ってくれ……! もう少しだけ時間を……!」
「契約ですので」
「わ、私は騙されていたんだ! 税理士のバドが……!」
「それは当銀行には関係ありません」
ぴしゃりと言い切る。
レティシアが哀れむようにため息をついた。
「だから申し上げましたのに」
彼女は冷たく笑った。
「身の丈に合わない夢を見るからですわ」
使用人たちの顔から血の気が引いていく。
誰もが理解した。
終わったのだ、と。
アルカディア家は今日で潰れる。
そう確信した瞬間だった。
「……ふぁ」
小さな欠伸が響いた。
全員の視線が、一斉にエドワードへ向く。
本人は眠そうに目を擦っていた。
「エドワード様……?」
レティシアが呆然と呟く。
「こんな状況で、何故そんな顔を……」
「いえ」
エドワードは時計を見る。
まだ午前十一時だった。
「少し寝不足で」
「は……?」
「昨日、帳簿整理が長引いたので」
静まり返る大広間。
その中でエドワードだけが、まるで別世界の人間のように落ち着いていた。
そして彼は静かに立ち上がる。
「では」
紅茶を飲み干しながら。
「そろそろ本題に入りましょうか」




