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第三話 使途不明金ゼロの衝撃

第三話 使途不明金ゼロの衝撃


 雨が止んで三日目の朝だった。


 アルカディア男爵邸には、久しぶりに柔らかな陽光が差し込んでいた。庭の白薔薇には朝露が残り、湿った土の匂いが窓から漂ってくる。


 エドワードは静かに羽ペンを置いた。


 かり、と最後の音が響く。


 机の上には、一冊の帳簿。


 数日間ほとんど外へ出ず、定時きっかりで作業を終えながら積み上げた結果だった。


「……終わった」


 その声と同時に、部屋の空気がふっと軽くなる。


 まるで長く閉ざされていた窓が開いたようだった。


 黒い靄はもうない。


 以前の帳簿から滲み出ていた粘つく瘴気は、綺麗さっぱり消えていた。


 代わりに残っているのは、澄んだ静けさだけだ。


 エドワードは軽く肩を回す。


 疲れてはいる。


 だが前世のような、胃を潰される疲労ではなかった。


 適切な休憩。

 適切な睡眠。

 適切な労働時間。


 やはり人間、定時は大切だ、と改めて思う。


 そこへ、扉が控えめに叩かれた。


「エドワード様」


 執事のマルコムだった。


「旦那様がお呼びです」


「今行きます」


 時計を見る。


 午前十時。


 まだ余裕がある。


 エドワードは完成した帳簿を抱え、応接室へ向かった。


 部屋へ入ると、ヘンリー男爵がそわそわと落ち着かない様子で待っていた。


「ど、どうだった……?」


 その顔には期待と不安が入り混じっている。


 エドワードは黙って帳簿を机へ置いた。


 革張りの重い表紙。


 しかし中身は以前とは別物だった。


 整理された記載。

 均整の取れた数列。

 狂いのない収支。


 一ペニーの誤差も存在しない。


 ヘンリーが恐る恐る頁をめくる。


「こ、これは……」


「アルカディア領の正確な財務状況です」


「正確……?」


「はい」


 エドワードは淡々と説明した。


「過去二十年間の帳簿を再計算しました。不一致項目は全て照合済みです」


「に、二十年分を……?」


「定時内で終わりました」


「そ、そういう問題ではない気がするんだが……」


 ヘンリーの手が震えていた。


 帳簿の中には、恐るべき内容が記されている。


 消えた税収。

 架空支出。

 存在しない修繕費。

 水増しされた輸送費。


 全てが一本の線で繋がっていた。


 そして、その中心にいる名前。


 ――バド・ローゼン。


 ヘンリーの顔色がみるみる青ざめる。


「ま、待ってくれ……」


「はい」


「これは、つまり……」


「バドによる横領です」


 静かな断言だった。


 しかしその一言は、部屋の空気を凍らせるには十分だった。


「そ、そんなはずがない!」


 ヘンリーが立ち上がる。


「バドが!? あのバドが我が家を裏切ったと!?」


「数字上はそうなります」


「数字、数字と……!」


 ヘンリーは苦しそうに頭を抱えた。


「彼は三十年も我が家を支えてくれたんだぞ! 私が幼い頃からずっと……!」


 エドワードは黙って父を見つめた。


 その姿が、少しだけ前世の上司に重なる。


 感情で現実を否定する人間。


 都合の悪い数字から目を逸らす人間。


「父上」


「な、なんだ……」


「数字は嘘をつきません」


「だが人は間違える!」


「ええ。だからこそ帳簿が必要なんです」


 ヘンリーが息を呑む。


 窓の外で風が吹き、薔薇の枝がかすかに揺れた。


「人の記憶は曖昧です。感情は都合よく現実を捻じ曲げる。信頼も、思い出も、期待も」


 エドワードは静かに頁をめくる。


「ですが数字は残る」


 そこには全てが記されていた。


 毎年、少しずつ消える金。


 少しずつ増える不自然な支出。


 長い時間をかけて吸い取られた領地の血。


「この横領額……まさか」


「概算で三万ポンドです」


「さ、三万……!?」


 ヘンリーが崩れるように椅子へ座り込む。


 三万ポンド。


 男爵家が十年かけても稼げない額だった。


「そんな……そんなことが……」


「現実です」


 エドワードは感情を込めずに言った。


 怒りはなかった。


 憎しみもない。


 ただ、歪みがあったから正しただけ。


 それだけだった。


 だがヘンリーには、それが逆に恐ろしく感じられた。


「お前は……平気なのか?」


「何がです」


「信じていた相手に裏切られて!」


 エドワードは少し考える。


 そして小さく首を傾げた。


「別に」


「別にって……!」


「前世でも似たようなものを見慣れていましたので」


「ぜ、前世?」


「独り言です」


 ヘンリーはますます困惑した顔になる。


 その時だった。


 廊下の向こうで杖の音が響いた。


 こん、こん、とゆっくり近づいてくる。


 ヘンリーが顔を上げる。


「バドか……」


 扉が開く。


 老税理士バド・ローゼンは、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。


「旦那様、本日の融資案件ですが――」


 そこまで言って、彼の目が止まる。


 机の上の帳簿。


 そしてエドワード。


 バドの顔から、一瞬だけ笑みが消えた。


「……それは?」


「新しい帳簿です」


 エドワードが答える。


 バドはゆっくり近づき、頁を覗き込んだ。


 その瞬間。


 男の喉がひゅっと鳴った。


 顔色が変わる。


 指先が微かに震えていた。


「な……」


 理解したのだ。


 自分の隠してきたものが、全て暴かれていることを。


「ば、馬鹿な……!」


 バドが掠れた声を漏らす。


「どうやって……」


「計算しただけです」


「こんなもの、あり得ん……!」


 老人の額から脂汗が流れ落ちる。


 エドワードには見えていた。


 バドの身体から、黒い靄が激しく噴き出している。


 焦り。

 恐怖。

 憎悪。


 それらが混ざり合い、部屋の空気を汚していく。


 だが以前ほど強くない。


 既に歪みは修復され始めている。


 バドは震える唇を噛み締めた。


「……若様」


「なんでしょう」


「数字だけで人は生きられませんぞ」


「そうですね」


 エドワードはあっさり頷く。


「だから私は定時で帰っています」


「……っ」


 会話が通じない。


 バドは初めて本能的な恐怖を覚えた。


 この青年は、権力にも金にも興味がない。


 欲がない人間ほど恐ろしいものはない。


 利用できないからだ。


 その夜。


 男爵邸の裏門から、一羽の黒い伝書鳩が飛び立った。


 雨上がりの夜空を裂き、王都へ向かう。


 バドの密書だった。


『アルカディア家、財政破綻寸前』


『即時債務回収を求む』


 インクが滲むほど強く書かれた文字には、老人の焦りが滲んでいた。


 暖炉の火を見つめながら、バドは震える指を握り締める。


「潰してやる……」


 低い呟き。


「所詮は世間知らずの若造だ……!」


 だが、その声はどこか怯えていた。


 一方その頃。


 エドワードは自室の窓を開け、夜風を吸い込んでいた。


 薔薇の香りがする。


 静かな夜だった。


 机の上には、整えられた帳簿。


 歪みの消えた数字は美しかった。


 エドワードは満足そうに紅茶を飲む。


「……よく眠れそうだ」



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