エピローグ 歪みなき庭で
エピローグ 歪みなき庭で
春だった。
アルカディア領には柔らかな陽光が降り注ぎ、風は花の香りを運んでいた。
白薔薇のアーチを抜けた先に、小さな庭園がある。
そこは今や王国でも有名な場所だった。
『歪みなき庭』
そう呼ばれている。
理由は単純だ。
この庭へ来ると、不思議と心が落ち着くらしい。
焦りが消える。
怒りが薄れる。
呼吸が楽になる。
まるで世界そのものが、正しい位置へ戻るように。
もっとも。
庭の主であるエドワード・アルカディア本人は、そんな噂をまるで気にしていなかった。
「……咲きましたね」
彼はカサブランカを見つめながら呟く。
白い花弁が朝露を纏い、陽光の中で静かに揺れている。
甘く上品な香りだった。
エドワードはこの時間が好きだった。
仕事前の静かな庭。
まだ誰も騒いでいない朝。
湯気の立つ紅茶。
前世では決して手に入らなかった時間だ。
「エドワード様」
後ろからマルコムが近づいてくる。
白髪の執事は、以前より随分穏やかな顔をするようになっていた。
「本日の予定ですが」
「少なめでお願いします」
「すでにかなり減らしております」
「素晴らしい」
「ただ、王都銀行から使者が」
「帰してください」
「トーマス様です」
エドワードが小さくため息を吐く。
「……通してください」
数分後。
庭園へ現れたトーマス・ロスチャイルドは、相変わらず隙のない黒いスーツ姿だった。
だが以前と違い、その目元には少しだけ柔らかさがある。
「お久しぶりです、エドワード卿」
「三日前に会いました」
「あなたの時間感覚は厳しすぎる」
トーマスは苦笑しながら席へ座る。
マルコムが紅茶を置いた。
春風が薔薇の花弁を揺らし、静かな香りが二人の間を流れていく。
「相変わらず良い庭ですね」
「ありがとうございます」
「王都の貴族たちは、この庭を買いたがっていますよ」
「売りません」
「でしょうね」
トーマスは紅茶へ口をつける。
昔なら考えられない行為だった。
彼は以前、紅茶を味わう余裕すらない男だったのだ。
だが今は違う。
彼自身もまた、エドワードに変えられた人間の一人だった。
「そういえば」
トーマスが思い出したように言う。
「王国中央銀行が、正式に週休二日制を導入しました」
「一日足りませんね」
「あなた基準で世界を見るのはやめてください」
「残業は?」
「原則禁止です」
エドワードが静かに頷く。
「いい傾向です」
「あなたの影響ですよ」
トーマスは肩を竦めた。
「今や王都では、“休める職場ほど利益率が高い”という認識が広がっています」
「当然です」
「昔の私なら鼻で笑っていたでしょうね」
トーマスは遠くを見る。
かつての王都は歪んでいた。
貴族は見栄で金を燃やし、商人は粉飾で利益を誤魔化し、銀行家は疲弊するまで働いていた。
誰も止まれなかった。
止まれば負けると思っていた。
だがエドワードだけは違った。
この男は、最初から知っていたのだ。
壊れた人間に、正しい判断はできないと。
「……不思議ですね」
トーマスがぽつりと呟く。
「何がです」
「あなたは世界を変えた人物なのに、未だに薔薇の手入れしか興味がない」
「重要ですよ」
エドワードは真顔だった。
「植物は急かしても咲きませんので」
「金融もそうだ、と?」
「本来は」
風が吹く。
白薔薇が揺れる。
遠くでは領民たちの笑い声が聞こえていた。
市場の活気。
鍛冶場の槌音。
子供たちのはしゃぐ声。
昔のアルカディア領にはなかった音だ。
「最近、移住者が増えています」
マルコムが嬉しそうに言った。
「“ここは空気が違う”と」
「実際違います」
エドワードには分かる。
数字の歪みが減った土地は、人を疲弊させない。
金が正しく流れれば、人の心にも余裕が生まれる。
それだけの話なのだ。
「エドワードぉぉっ!」
そこへ、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。
ヘンリー男爵だった。
以前よりだいぶ元気になった父は、今日も書類を抱えて走ってくる。
「大変だ!」
「最近その台詞を聞いても緊張しなくなりました」
「王都から勲章授与の話が来てるぞ!」
「断ってください」
「またか!?」
ヘンリーが頭を抱える。
トーマスが吹き出した。
「本当に変わりませんね、あなたは」
「変わる必要がありますか?」
「普通は権力を求めます」
「疲れますので」
即答だった。
ヘンリーが呆れたように笑う。
「お前、昔からそればかりだな」
「大事です」
エドワードは静かにカップを置いた。
かちゃり、と小さな音が鳴る。
庭には午後の陽光が満ちていた。
白薔薇。
カサブランカ。
柔らかな風。
穏やかな景色だった。
前世では知らなかった。
何かを勝ち取らなくても、人は幸せになれるのだと。
エドワードは目を細める。
空は青く澄み渡っていた。
「やはり」
小さく呟く。
「数字も人生も、余白があるくらいが丁度いい」
風が吹く。
花弁が舞う。
甘い香りが静かに広がっていく。
王都では今も貴族たちが利権を争い、商人たちが金を追いかけ、銀行家たちが数字と戦っている。
だが。
この庭だけは違った。
ここには歪みがない。
無理もない。
ただ、穏やかな時間だけが流れている。
過労で壊れた元経理は、ようやく辿り着いたのだ。
数字に追われる人生ではなく。
数字と共に静かに呼吸できる場所へ。




