第十話 二度目の人生、無理せず豊かに
第十話 二度目の人生、無理せず豊かに
夕暮れの風が、白薔薇の庭を静かに揺らしていた。
アルカディア男爵邸。
かつては破産寸前だったその屋敷も、今では王国でも有数の豊かな領地として知られている。
石畳は綺麗に整備され、窓硝子は夕陽を受けて赤く輝き、庭園には季節ごとの花々が咲き誇っていた。
特に薔薇は見事だった。
白、赤、淡い桃色。
幾重にも咲く花弁が風に揺れるたび、甘く上品な香りが空気へ溶け込んでいく。
その庭園の中央。
木製の椅子へ深く腰掛け、エドワードは静かに紅茶を飲んでいた。
「……うまい」
小さく呟く。
極上のダージリンだった。
香りは柔らかく、渋みは少ない。湯気と共に立ち昇る芳香が鼻先をくすぐり、肺の奥までゆっくりと満たしていく。
平和だった。
本当に。
昔では考えられないほど。
「エドワード様」
執事マルコムが静かに歩み寄る。
「本日の書類です」
「そこへ」
エドワードはテーブルを指した。
積まれた書類はかなりの量だった。
王都財務院。
ロスチャイルド銀行。
各地の商会。
工場連盟。
今や“複式簿記”は王国標準となっている。
国家財政ですらエドワードの理論を基盤に組み直され、銀行や工場では導入が義務化され始めていた。
王都ではこう囁かれている。
『エドワード以前と以後で、王国の経済は別物になった』
だが当の本人は。
「後で見ます」
薔薇を眺めていた。
マルコムが苦笑する。
「最近、王都では“伝説の財務卿”などと呼ばれておりますが」
「やめてください」
「即答ですね」
「仕事が増えます」
真顔だった。
数年前と全く変わっていない。
エドワードは今でも、定時になると仕事を切り上げる。
残業しない。
無理をしない。
睡眠時間を削らない。
それだけは絶対に譲らなかった。
最初は周囲も困惑した。
だが不思議なことに、その働き方の方が圧倒的に成果が出る。
結果として、
『ロスチャイルド銀行では定時退社が利益率を改善した』
『休暇制度導入後、工場事故率が半減』
などという意味不明な報告が次々と上がるようになった。
今では王都でも、
『無理な労働は損失』
という考え方が少しずつ広がり始めている。
もっとも、エドワード本人はそんな社会変革に興味がなかった。
「今日は静かですね」
「皆、王都へ行っておりますから」
マルコムが答える。
「今日は貴族院で新しい税制法案の審議です」
「また揉めてるんですか」
「ええ。“複式簿記導入後、誤魔化しが効かなくなった”と不満が噴出しておりまして」
「でしょうね」
エドワードは紅茶を飲む。
遠くで小鳥が鳴いた。
空は茜色に染まり始めている。
その時。
屋敷の奥から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「エドワードぉぉぉ!!」
聞き慣れた声だった。
ヘンリー男爵である。
だが以前と違い、その顔色はかなり良い。腹回りは少し太り、髪にも艶が戻っている。
数年前まで破産寸前で青ざめていた男とは思えなかった。
「今度は何です」
「王都から手紙だ!」
「最近多いですね」
「お前、“王国財務顧問特別名誉爵位”を打診されてるぞ!?」
「断ってください」
「またか!?」
ヘンリーが頭を抱える。
「何故だ! 普通は泣いて喜ぶぞ!?」
「責任が増えます」
「皆それを欲しがるんだよ!」
「理解できません」
エドワードは本気で不思議そうだった。
地位。
名誉。
権力。
前世では、それらを求めて壊れていく人間を散々見てきた。
だから今世では違う。
必要以上を欲しがらない。
それだけで人は随分楽に生きられる。
「それに」
エドワードは静かに庭を見渡した。
白薔薇。
カサブランカ。
整えられた芝生。
夕焼けに染まる噴水。
穏やかな風が吹いている。
昔、この庭には黒い靄が漂っていた。
数字の歪みが土地を蝕み、人を疲弊させていたのだ。
だが今は違う。
領民は笑い、畑は実り、川は澄んでいる。
誰も必要以上に怯えていない。
それで十分だった。
「私は今の生活が気に入っています」
ヘンリーがぽかんとする。
「こんな田舎暮らしがか?」
「静かなので」
「王都へ行けばもっと豪華な生活が――」
「人が多い」
「そこか……」
ヘンリーはがっくり肩を落とす。
だが、その顔にはどこか安堵もあった。
息子は変わらない。
莫大な富を得ても。
王国中から称賛されても。
この男は相変わらず、定時で帰って薔薇を眺めている。
そこへ再びマルコムが近づいてきた。
「エドワード様」
「はい」
「ロスチャイルド銀行より特許使用料の振込通知です」
「いくらです」
「今月分で二十五万ポンドほど」
ヘンリーが変な声を出した。
「にっ……!?」
王侯貴族でも滅多に触れない額だった。
だがエドワードは小さく頷くだけだ。
「そうですか」
「反応が薄い!」
「数字ですので」
「普通もっと喜ぶだろ!?」
「使い道がありません」
本気だった。
屋敷は十分広い。
食事も困っていない。
紅茶と花があれば満足。
それ以上に欲しいものがない。
前世では、何もかも足りないと思って生きていた。
時間も。
金も。
余裕も。
だが結局、一番足りなかったのは“休むこと”だったのだと、今なら分かる。
エドワードは静かに目を閉じる。
風が頬を撫でる。
花の香りが漂う。
遠くで領民たちの笑い声が聞こえる。
穏やかな夕暮れだった。
「やはり――」
彼は小さく呟いた。
夕陽が薔薇を赤く染める。
花弁が風に揺れ、柔らかな光が庭園を包み込んでいた。
「数字も人生も、無理なく収まるべき場所に収まるのが、一番体にいい」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
だがその声には、確かな安堵が滲んでいた。
過労で心を壊し、数字に殺されかけた男。
そんな彼がようやく辿り着いた、二度目の人生。
そこにあったのは、英雄譚でも覇道でもない。
ただ。
静かな紅茶の香りと、風に揺れる薔薇の庭だった。




