41
言われて、伊月は目を丸くさせ、その目を交互に二人へ向けた。
「死んだような目で、大事にしていたラケットとかシューズとか段ボールに詰め込んで、思い詰めたような顔をして、楽しそうな顔なんてずっと見てなかったのに」リンゴを齧って、空気を台無しにしながら母親はしゃべる。「去年、テニスを始めたってあんたから聞いて、コーチに入るって聞いて、実のところさ、とうさんとかあさん、止めようと思った」
「……どうして」
「繰り返すと思ったからね。また、あんたが死んだような目をして、今度は全部捨ててしまいそうな気がして。だから、止めようと思った。でもねえ、今のあんたを見ていたら、止めなくて良かったって、思っているよ」
焼酎を飲み続ける頑固親父を見て、ああそうか、と伊月はさっきの拳骨の意味を悟った。不思議とむず痒くなり、伊月はテレビ画面に顔を向けなおした。
「失くしていたと思っていたものが、まだ俺の中にあったんだ」映像をスローで流して、プレーの動きを観察しながら頬杖をつく。「そいつを見つけてもらった。だから、俺はそいつらと一緒に歩んでみたくなったんだ。大丈夫、もう二度と失くさない」
ぐびぐびと音を出しながら、頑固親父がグラスの中の焼酎を飲み干す。そして頑固親父の一言に、伊月は間違って停止ボタンを押してしまった。
「加賀ちゃんのおかげか」
「あらまあ」と母親が便乗し、伊月はキッと睨む。しかし、子供の睨みなんぞ気にしないといったふうに、やんややんやと二人して伊月とむつみのことを話し始める。いつになったら云々、そろそろ云々、さすがに伊月も耳が痛くなる。いっそ塞いでしまおうと両手で耳を覆うように手の平を広げる。それを、伊月は止めた。
「勝てるといいわねえ」
「勝てるさ、なあ?」
嬉しそうに二人が言う。遠い昔に言われたような言葉で、それがいつかの最後の試合の前日、試合に向けての準備をしていた伊月に、二人が言った言葉だと思い出した伊月は「馬鹿だな」と笑って、そっと手の平を下す。
「俺が出るわけじゃねえだろ」
「同じようなもんさね」
「そんなことより、今日は加賀ちゃん来んのか」
「来ねえよ。っていうか、さらっと俺のことをそんなことって言ったな?」
いつもの空気に、少しだけ懐かしい香りが混じる。意図しているのか、それとも偶然なのか、その日の夕食は最後の試合の前に食べたカレーだった。たらふく食べて、店を閉めてから部屋に戻る。自分のラケットを手に取って、思い出すあの日の試合を、伊月は瞼を下して振り返る。仲間だった彼らから向けられた視線がいつまでも眼球の奥に残っている。あの時の空気が今でも肺の中で蠢いている。最後の一球を打った感覚は、今でも手の平に残っている。しかし、あの日とは違うのだ。もう、自分はあの舞台には立てない。その舞台に上がろうとする彼らが、今でも羨ましいと伊月はふっと笑って窓を開けた。夜空を見上げながら自分に「勝てるか?」と訊ねる。自分の試合ではないのに、と自嘲してから――しかし、それでもあの頃と同じように、楽しくて仕方なかった、大好きでたまらなかったテニスをしていたあの頃と同じように、試合が待ち遠しいのだ。
「? 入屋?」
ポケットの中で携帯が鳴り、取り出すと入屋からの着信だった。初めて電話をかけてきたな、と入屋がどうして電話をかけてきたのか、少しだけ伊月はわかった。すぐには出ずに、しばし伊月は考えてから通話ボタンを押した。
『コーチ、ちょっといい?』
「どうした」
沈んだ声の入屋に伊月は静かに耳を傾けた。
『明智に……明智に負けてからずっと考えていたんだ。あいつと同時期にテニスを始めて、この前の部内戦で試合をするまではずっと……俺のほうが上手いって、俺のほうが強いって、そう思ってた。だから、今回負けて、俺って、コーチに言われたとおり、試合になると自分のプレーが全然上手くいかないんだ。楽しいはずなのに、勝敗が付くとなると、急に怖くなるんだ』
震えた声から入屋の悔しさが伝わって来る。まるで目の前にいるかのように思えて、伊月はそっと手を前に出した。そこにいると思いながら、ワックスで立てた髪をくしゃくしゃにするように、撫でるように手を動かし、静かに腕を下す。
『俺、レギュラーから降りたほうがいいのかもしんない。レギュラーになれて嬉しいけれど、試合で、俺、勝てるかどうかわか』
「皆、同じ気持ちだよ」
言葉を遮り、伊月は伝える。見上げ、今一度夜空を見上げる。
「皆負けたくない気持ちは同じだろ? 試合になれば緊張もするし、怖いし、自分のプレーができなくてもどかしくて仕方ないときもある。そういうものを、皆乗り越えていく。負けたらどうしようって、代表として戦うんだから負けられないって、試合が終わって責められないのかとか、不安になるのもわかる。だけど、入屋、お前の周りにそういう奴はいないはずだ、違うか?」
黙り込んだ入屋が何を考えているか、伊月にはわからない。不安で仕方ない心に、向き合うのは難しいことだ。彼は今、その渦中にいる。明智に負け、自分のプレーに自信を無くしかけている。しかし、
「お前がレギュラーになったことを誰も納得していないと思っているのか? 胸を張れ。お前たちのテニスは人を変える力を持っているんだ」
テニスの世界に再び足を踏み入れる、そのきっかけは入屋との試合でもある。あの日失ったように思えた熱い思いが、取り戻せたのは彼らのおかげなのだ。
「堂々とお前はお前のテニスをしろ。お前は成長したんだ。怖がるな」
『…………』
「そして最高のプレーを明智に見せつけてやれ。お前の強さを、見せてやれ。俺は二度とお前には負けないってな」
最高のライバルがいるから、彼らは強くなれる。高め合う仲間がいるから、力強く前に突き進める。やっぱり羨ましいな、と伊月は言葉にして入屋に伝える。
「俺は他の連中と一緒で、お前らと一緒にコートには立てない。それでも、俺はお前らと一緒に戦うつもりだ。後ろは任せろ、前だけを向け。シングルスでも、お前は一人じゃない。背負ったものを、少しでも俺たちに預けていけ。そして、存分に戦って来い」
電話の向こうで鼻をすする音が聞こえて、しかし次に聞こえてきた入屋の声は、いつもの――以前の入屋の声だった。
『わかった。俺、頑張るよ』
「ああ」
通話を終えて、しばらく伊月は黙り込み、俯き、顔を上げる。たかだか高校の部活で、青春の1ページ程度で、人生においてほんの一瞬の出来事だとずっと伊月は思っていた。しかし、そのたかだか部活で、1ページ程度で、ほんの一瞬の出来事は、彼らにとってはとてつもなく大きな財産だ。それがどれだけ人生に影響するかはわからない。わからないが、無意味なものには絶対にならないのだ。必ず、どこかで活かされるときがくる。伊月のように、マイナスだと思っていた財産が彼らにとってのプラスになったように、誰かのためにもなるかもしれない。
誰かのために、自分のために。
「……てるてる坊主でも作るか」
ラケットを置き、窓を閉める。階下に降りて「布きれないか?」と母親に訊ねた。笑って手渡された頑固親父のくたびれた股引は、見事なてるてる坊主になった。




