プロローグ
私、竹内美咲は、総合病院の診察室にいた。
内科から始まって、様々な科に回された後、
辿り着いたのは、ここ、精神科……
「最近、眠れていますか?」
医師の問いかけに
「いいえ」と答えた。
再び医師が問う。
「何か楽しみはありますか?」「食欲は?」
私は「いいえ」と答えた。
そんな質疑応答を繰り返した後、医師が言った。
「鬱の症状ですね……」
「……」
しばらく沈黙した後、私は医師の顔を見て、
大爆笑してしまった。
確かに、体調がすこぶる悪く、眠れず、会社での
人間関係にも悩んでいた。
陰で自分の事を悪く言っている人間がいる事を、
思いがけず知ってしまったのだ。
会社の同期の、山内 梓が、給湯室で他の仲間と
楽しげに、お喋りしていた。
本当に偶然、聞いてしまった。
「美咲ってさ、合コンに連れて行くにはもってこいなのよね」
「地味だもんねー。あの子のお陰で、梓、引き立つよね」
「マジ、それ!」
ショックだった。
ここへ就職してから数年間、困った時には
助け合って来たはずだった。
少なくとも私は、彼女の事を 友人だと思っていた。
確かに私は、梓みたいに美人じゃないし、お洒落でもない。
それでも、こんな自分と関わってくれる梓を
私は信頼していた。
私の中で何かが壊れた。
これまで楽しげなメロディーを奏でてくれていた
ピアノの鍵盤がバラバラと一気に外れ、飛び散り、
もう二度と、まともな旋律を奏でることはないように思えた。
私の心は、もう誰に触れられても反応出来ない、
壊れたピアノの様になった。
でも……
だからって病気に?
鬱になったりするのだろうか?
「何でも病名って付くもんなんですね」
私は、笑いながら医師に言った。
精神安定剤など、数種類の薬が処方された。
私は、それを機に退職して、実家へ帰る事に決めた。
実家はこの地から遠く離れた、小さな村にあった。
そこには、母が1人で住んでいる。
山裾村……
大嫌いで飛び出した村なのに、
コンビニも、スーパーも、レジャー施設も、
喫茶店も、信号機すらないこの村に、
プライバシーなんて微塵もないこの村に、
私は帰って来た。
村中の人が家族みたいなもので、皆んな知り合いだ。
急に実家へ帰って来た私を、純粋に心配してくれているのか、
ただの話の種にしたいのか……
でも、そんな事はどうでも良かった。
静かな所で、只々、静かに暮らしたかった。
ありがたい事に、母は何も聞かず受け入れてくれた。
母の手伝いをしながら、ゆっくり ゆっくり時間が流れた。
実家で暮らし始めて、一週間程が過ぎた頃、
1匹の黒猫が、いつに間にか我が家へ出入りする様になっていた。
私はその子を勝手に『クロ』と呼んで可愛がった。
どうせ、そこら中の家で勝手に名前を付けられ、
餌にありついている子だろう。
母のお陰か、クロのお陰か、私は少しづつ眠れる様になり、
徐々に食事も取れる様になって行った。
クロと私は、いつに間にか家の縁側で日向ぼっこをするのが
日課になっていた。
いつも通り、私達は縁側にいた。
その日は、森がザワザワと騒がしかった。
クロも、両耳をピンと立てて、何かを感じている様だった。
突然、森から、無数の小さな鳥が、一斉に飛び立った。
その数の多さに、私は恐怖すら感じていた。
クロは全身の毛を逆立てて、背中を丸め、4本の脚を
力一杯 床に突っ張って「シャーーー… …」と変な声で鳴いた。
尋常ではない鳥の数で、空が一瞬暗くなった。
やがて鳥達は、1匹の大蛇の様な形になり、
四方八方へ飛んで行ってしまった。
『一体、何処へ向かったんだろう……』
私とクロは、茫然と空を眺めたまま、
しばらく動けずにいた。




