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「今夜は帰らないからよろしく」
家を出ていく彼女の顔はなんだか嬉しそうであり、恥ずかしそうでもあり、でも同時に後ろめたいような、そんな感じだった。その宣言通り、彼女はその夜帰って来なかった。
翌晩、帰ってきた彼女は留守番ありがとうとまずポチに礼を言った。彼女は底抜けに上機嫌で、頭のネジが緩んだようだった。ふとした瞬間に「ふふふ」と小さく笑う彼女は喜びの絶頂にいるように見えたが、どうも一種の暗さのようなものがその両肩あたりにどんよりと膜を張っているようにも感じられた。
けれどもそう感じていたのはどうやらポチだけであり、その本質はどうあれ幸せを感じてやや不気味に微笑む彼女の気分に水をさすこともないかと思って眺めていた。しかしやはりと言うべきか、残念ながらポチが感じていたスッキリしない感じは、悪い現実を示すものらしかった。
二日後、日付が変わるくらいに帰ってきた彼女はぼろぼろだった。流れる涙でメイクははがれ、黒い筋が頬についていた。彼は主人の悲しい帰還に対して何をするでもなく、定位置に座っていた。
「笑いなさいよ」
主人は低い声を発した。対して彼は笑うでも悲しむでもなく、当然哀れむでもなく、いつもと同じように彼女を見つめていた。
「すましてんじゃねえよ」
テーブルの上にあったテレビのリモコンが投げ付けられ、彼は思わず顔面を庇った。右手に鈍い痛みが走るが、彼は痛がるそぶりを見せなかった。弾かれたリモコンは回転しながら勢いよく飛び、上手い具合にごみ箱に突き刺さった。
「なに見てんのよ。そんな馬鹿にした目で見ないでよ。どうせ馬鹿な女だって思ってるんでしょう。ふざけるんじゃないわよ。情けで置いてあげてるのにいっちょまえの顔して何様のつもりよ。見るんじゃないわよ」
怒りのままにぶつけられた言葉にも、やはり彼は何も返さなかった。ただ、彼女を見ていない方がいいと思ったのか身体をベッドに横たえ、壁を向いて目を閉じた。それで終わりだった。
彼女の激昂も一旦区切りをつけたようだった。鞄を床に置いた音が聞こえ、その後は乱暴に冷蔵庫を開け閉めする音が続いた。乱暴さの中に寂しさがはっきりと感じられる、誰かにしがみつきたいような気持ちを発散させる音だった。
その音が止んで少しすると、ユニットバスからシャワーの音が聞こえてきた。ちょっと休むといいよ、ポチはそんな気持ちで水の流れる音を聞いていた。
ポチはしばしまどろみ、ふと目を開けた時には頭を撫でる気配があった。彼女は頭を撫でるのが好きだ。ポチも頭を撫でられるのは好きだったので、そのままにしておいた。
「起きてるでしょう」
彼女の声は申し訳なさそうで、恥ずかしがっているようだった。きっとシャワーを浴びながらたっぷり泣いたんだろうとポチは思った。ゆっくり身体の向きを変え、彼女の顔をみる。彼女は撫でるのを止め、手をポチの傍らに落とした。
「ごめんなさい」
視線を手元に落として彼女は言った。ポチには、その仕種は演技ではないように見えた。彼女の肩が、小刻みに震えていた。
「ごめんなさい」
言葉を返さないポチに、彼女はもう一度詫びた。ポチが許しを与えるまで、何度でもいつまでも謝っていそうだった。だからポチはよく自分がされているのと同じように、手を彼女の頭に軽く乗せた。彼女の髪はボリューム感があり、指通りが良かった。ポチは言葉が話せない。だって、ポチだから。
首に回された感触に、不快は感じなかった。耳をくすぐる吐息はむしろ心地よく、ぴったりとくっつけられた身体は温かかった。首を這う舌のざらついた感触がくすぐったかった。ポチはちょうどバンザイをしたように両手を上にあげ、抱き着かれるままになっていた。
一通りの愛撫を終え、彼女はポチの首筋から顔を上げた。その目は潤み、跳ね上がった鼓動に伴い、息遣いもポチの耳には一回毎にかなりの圧力をもって響いていた。彼女は目を閉じた。
それでおしまいだった。
「こういうことはしない約束だった」
ポチは彼女の体重をやんわりと押しのけ、部屋の隅にかけられていたコートを羽織った。
それ以上何も言わず部屋を出ていった。ポチはポチであることを止め、拒絶の言葉だけを残して出ていった。
一人取り残された彼女は、しばらくシーツを握って震えていた。やがて枕元にあった置き時計を乱暴にカーペットに投げ付けると、布団に顔を押し付け、誰にも聞こえないようにして泣いた。




