さん
特にどこに行こうというわけでもなかった。ただ、あれだけ一人のところにいたのは久しぶりだったような気がする。それはきっと、彼女の側にいることが彼にとってここちよい時間だったからだろう。彼女にとっての彼がどうだったかは、わからない。
ただ、悲しみの勢いで触れられて喜ぶような程度ではつまらない、と思うくらいには彼女のことを考えていた。ポチはいつの間にか、けっこうな感情移入をしてしまった自分に少し呆れて溜め息をついた。それはやや珍しいことではあり、もったいないことをしたという気もないではなかった。
そうこうするうちに、彼はいつの間にか彼女と出会った場所にたどり着いていた。なんのことはない、駅前の地図盤がある小さなスペースだった。改札の明かりは既に落とされ、改札を抜けた先はもう真っ暗になっている。
人の気配がないわけではない。周囲にはチェーン店の居酒屋が朝方まで営業しているし、すぐ隣にあるコンビニの明かりはついている。さらに言えば、そこには二人の青年が雑誌を読んでいるのが見える。
けれども、その中に一人ぽつんと立っていたポチは言いようのない寂しさを感じていた。それはきっと、珍しく二週間に近付いた滞在期間に原因があるのかもしれなかった。時間が長くなれば長くなるほど、自然と人の情は移る。情をなくすような心情に陥るほど世を儚んでいたわけではなかった。
なんだか疲労感がとても強かった。特に体調が悪いわけではなかったはずだが、気分はすこぶる悪かった。
「どこかに帰らないとな」
無意識にぽつり呟く言葉に、都合のいい反応を求めていた。
まだ手持ちの金はある。ただ、できれば一ヵ所にもう少し長く留まっていたい気がしていた。そこで真っ先に思い返されるのは、たった今捨ててきた飼い主の優しい感触。ポチが彼女に親しみを持ったのは、彼女が本当に寂しさの中にいて、同時に優しい人だと思ったからだ。
今まで彼をポチとして扱った中にロクな飼い主はいなかった。もちろん、ポチもサービスとしてやっていたことに過ぎず、その点に文句があるわけはなかった。むしろ、大した労働があるわけでもなく、滞在期間のわりに日給換算をすれば大金を稼ぐこともできていたのだから、文句はなかった。道具扱い、ペット扱いに文句はない。ただ、身体はその対象にない。身体を売ることをサービスにしようとは考えていなかった。
「あーあ」
溜め息は電灯の明かりに照らされた地面に吸い込まれていくようだった。ポチは肩を落とし、側にあった車止めに体重をかけてしばらく黙っていた。
意味もなくぼんやりと地面を見つめるポチの視界に、見慣れたミュールが目に入った。
「帰って、きてよ」
顔を上げると、目をはらした飼い主が目の前に立っていた。まさか彼女が追いかけてくるとは想像していなかった彼はどうしたものかとしばし悩み、「ワン」と一声鳴いた。ビキビキという音が聞こえてきそうな様子でこめかみを痙攣させたかつての飼い主に、彼の表情もひきつった。
「せめてポチって呼ばれてるときにいいなよ」
「はい」
しゅんとうなだれて見せるのは、少しでも軽い空気にしたいから。彼女に対してあまり深刻さをもって相対したくなかったから。その希望は理解してもらえずにどうも白けた感じになってしまってはいるが、彼の方から一言告げないと話が先に進まないようだった。
「一度出てきた飼い主のところにはもう行かないようにしてる」
再び視線を地に落とし黙り込む彼の頭に、無言でぽんと手が置かれた。
二人は言葉を交わすことなくしばらくそのままの姿勢で固まっていた。吐き出す息は白く、指先もつま先もすっかり冷たくなってしまっていた。彼女は何も言わないままに彼の頭を撫で、彼は撫でられるままにその感触に身を委ねていた。
「じゃあ、今度はあなたが私を買ってよ」
「なんでそういう話になるのかわからない」
「だって、そうでもしなきゃあなた私と一緒にいてくれないでしょ」
そんなめちゃくちゃな言い分に従う道理はなかった。なかったが、彼には魅力的な提案のように思えていた。
「買われたあんたは、どうするんだ」
「何でもいい。ただあなたと一緒にいたいだけ」
「俺と一緒にいたいんじゃなくて、誰かと一緒にいたいだけなんじゃないのか。一人でいるのが寂しいだけだろう。懲りずに男に弄ばれて、好きなようにされて、空しいだけだろう。それを何かで埋めたいだけだろう」
「……それが悪い?」
「別に、よくある話だと思う」
そう、よくある話だった。ただ、そうなるまでの時間が長かっただけだ。今までと違うのはその一点だけで、その一点が意外に大きく響いていた。
「よくある話だと、つまらない?」
「結果は同じでも、過程は面白かったよ」
「じゃあ、どうするの?」
「条件は?」
それくらい聞いてもいいはずだった。それだけでは、聞くだけでは何もならない。しかし、それを聞くということが既に結末を示しているということを、彼は知っていただろうか。
「一週間で五万円」
「金を返せってこと?」
彼女が提示した金額は、彼が彼女に要求した金額と同じだった。ただ、彼女は二週間目に突入していたので、既に彼に十万渡していた。
「そういうわけじゃない。それに私は、あなたが私を求めてくれるなら、応えるつもり」
「なんでそういうことになるかな。そんなことをして何になる。今の寂しさは埋まるかもしれないけど、それが良いことだとは思えない」
「あなたは、はいかいいえで返事さえしてくれればいいの」
まだ金はあった。買えるか買えないかであれば、買うことはできる。問題は、今まで彼は買われる側であり続けてきたという来歴。自分が誰かを買うということを想像してこなかったことだ。自分が他人に向けて提供するサービスの、受け手に回るというシチュエーションは考えたことがなかった。ここにあるのは倫理感などでは当然なかった。
今のところ、彼が彼女に対してより興味を持ち始めていることは確かだった。いまさら一週間一緒にいたところで、その相手に対して好意を持つことはないはずだ。
「わかった」
さらに言えば、興味を持つこともあまりなかった。
「本当に?」
「ただし条件がある。その一週間を過ごすのはあんたの家だ」
それが一緒に過ごしたいと思うなんて、本当に珍しいことだった。
「いいよ」
「もう一つ、あんたは今までと同じようにしていればいい」
「なんで?」
「今更立場を大きく変えられても面倒だから」
だからこのとき、冷静を装いながらも、何を言ってるのかいまいち頭を働かせていない彼だった。あまり頭の良くないことを言っているという自覚だけは十分にあったが。
「いいよ」
頷く彼女は少し可笑しそうな顔をしてやっと微笑んだ。もちろん、なぜ彼女が微笑んだのかを彼は理解していなかった。
「なんだよ」
「ううん。でもさ……やっぱなんでもない」
「なんだよ、気になるだろ」
「うん。買ってって頼んで、あなたは買ってくれる。でも私には今までと同じようにしてろって。それってなんだか、あなたが私を養ってくれるみたいにも聞こえるね」
「そんなことはない」
彼はそれだけ口にして歩き出した。彼が足を向けたのは先ほど出てきた彼女の家がある方向で、なぜか少し早足のようでもあった。
「なに、急に」
大股でスタスタと進んでいく彼に遅れないようにと彼女も慌てて歩きだす。二人ともお互いの表情は見えないままに、穏やかな笑みを浮かべていた。
「そんなに早く歩かないでよ」
後ろから腕に抱き着いた彼女の勢いに少しよろけた彼だったが、特に文句を述べるでもなく、手をコートのポケットに突っ込んで歩く。
一週間という期間が彼ら二人にとっては特別で、約束した期間があるからこそ二人はお互いをじっと見ていられるのかもしれないが、恋人とは呼べない二人が恋人になるのは次の一週間か、それとも一週間を待たずに気まぐれだったという結論が出るのか、それはまだわからない。
ただ、飼われるのに慣れたポチは、一人でいることが怖くなっているのかもしれないと、体重を預けてくる女性をぎゅっと抱きしめながら思った。
お読みいただき、ありがとうございました。




