第二十三話 私のあり方
朝。
橘琴子は、いつものように出版社の受付カウンターに座っていた。
白いシャツにスカート。
髪を整え、化粧もきっちりと決めている。
傍から見れば、どこにでもいる受付嬢だ。
……ただし、彼女の正体を知る者が見れば話は別だ。
ぬらりひょん。
古くから人々に知られてきた妖怪の一人。
そんな存在が今では、出版社の受付で来客対応をしている。
長くこの世界で過ごしているが、本当に何が起こるか分からない。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「編集部の方とお約束がありまして」
「承知いたしました。少々お待ちください」
琴子は笑顔で応対する。
隣の受付には、同じく受付嬢として働く女性が座っていた。
マスクをしているが、それでも整った容姿が垣間見える。
口裂け女。
彼女もまた、普段の都市伝説としての姿からは想像できないほど、真面目に仕事をしている。
勤務中に余計な話をすることはない。
電話が鳴れば取る。
来客があれば対応する。
必要なことだけを伝え、次の仕事へ移る。
そんな中。
「あのー、すみません」
「はい」
琴子が顔を上げる。
整った容姿に、しっかり着こなしたスーツ姿の男性。
その男性が、琴子に声をかけ少し照れたように笑った。
「今度、よかったら一緒に飲みに行きません?」
「お誘いありがとうございます」
琴子はにこやかに頭を下げる。
「ですが、勤務中ですので」
「あ……すみません」
「いえ。お気になさらず」
にっこり。
それだけ。
琴子は再び受付業務へ戻った。
隣から口裂け女が何か言うこともない。
勤務中なのだから当然だ。
だが、昼休みになるまで、また何度も男性達に声をかけられる。
昼休み近くになる頃には、琴子の笑顔も少し引きつった様子だった。
◆
「ふぅ……」
昼休み。
琴子は口裂け女と一緒に、会社近くのカフェへ向かっていた。
「やっと休憩だー」
「午前中、忙しかったものね」
「受付って意外と疲れるんだよねー」
「あなた、朝から三回もお茶飲んでたじゃない」
「美声を保つための水分補給ですー」
「はいはい」
二人が店に入る。
そこは、妖怪たちの間ではちょっとした有名店だった。
店主の名前は、小豆洗〈こまめ すすぐ〉。
その名の通り、妖怪である。
そして何より、この店のコーヒーは美味しい。
その味を求めて、妖怪だけではなく人間達の間でも賑わっていた。
「琴子、今日は何にする?」
「私はサンドイッチとコーヒーで」
「私はオムライス!」
「相変わらずね」
「お昼はガッツリ食べないと!」
二人はテラス席に座った。
しばらくすると料理が運ばれてくる。
琴子はサンドイッチを一口食べ、コーヒーに手を伸ばした。
「……あ」
「なに?」
「そういえば」
口裂け女がニヤリと笑う。
「受付中、また飲みに誘われてたね琴子」
「……見てたの?」
「隣にいるんだから当然じゃない」
「あなただって一緒に誘われたじゃないの」
「えー、でも先に琴子に声かけてきてさ、私ってついでにって感じだったじゃん」
「マスクしてるから、あんたが美人なの分からないんじゃない?」
「えー、私って綺麗かな?」
「まぁ、化粧は上手くなったわよね」
「なんか、棘ある言い方なんですけどー!」
二人は顔を見合わせて笑った。
「でさ、行くの?飲み会?」
「遠慮しとくわ」
「えー、結構いい男いたじゃない?」
「顔がいいだけじゃない」
「なんか、琴子ってハードル高いよねー」
「そうかしら?」
「そうだよ。誰か気になる人とかいないのー?」
「……まぁ、いないことはないわ」
「え?」
口裂け女のスプーンが止まった。
「マジ!?」
「ええ」
「誰よ、教えなさいよ!」
「別に、普通の人よ」
「いやいや! あの琴子の気になる人だよ! 絶対普通の人なわけないじゃん!」
「もう、別にいいでしょ。誰でも」
「よーくーなーいー!」
「全く……騒がしい子ね」
琴子は小さく笑った。
けれど、その笑顔の奥で。
一人の男の顔が浮かんでいた。
もう、ずっと昔。
まだ自分が今の名を持っていなかった頃。
彼は、私に名前をくれた。
――あんた、琴のような綺麗な髪だから、琴子って名前のが良いと思うぞ。
そう言ってくれたことを。
琴子は今でも覚えている。
「……私に、名前をくれた人」
小さく呟く。
「え?」
「ううん。なんでもないわ」
口裂け女には聞こえなかったらしい。
琴子はコーヒーを一口飲んだ。
少し苦い。
けれど、その苦さが妙に心地よかった。
今ではきっと、そのことなんて忘れてるんだろうな。
そんなことを考える。
あの人は、昔からそうだった。
何かに縛られることを嫌い。
自由に生きることを好んでいた。
きっと今も変わらない。
その人は――
自由が、とても似合う人。
「……」
琴子は、ふと空を見上げた。
青い空。
雲がゆっくりと流れている。
この空も、あの人が見ているような気がした。
もちろん、そんなわけはない。
ここは昼休みのカフェ。
自分は会社員。
そして、あの人は――。
「琴子?」
「何?」
「なんか、ぼーっとしてない?」
「そう?」
「うん」
「ちょっと考え事してただけよ」
「ふーん」
口裂け女は、どこか納得していない顔をしていた。
その時だった。
「琴子さーん!」
店の入り口から声がした。
「ん?」
二人が振り向く。
「やっぱりここにいたんだー!」
明るい声と共に入ってきたのは、見覚えのある女性だった。
盤瓠。
そう、彼女も妖怪だ。
ただ人々からは、親しみを込めてバンちゃんと呼ばれている。
少しぽっちゃりとした体型に、明るく人懐っこい笑顔。
芸能活動をしており、動画投稿サイトでは人気YouTuberとしても知られている。
妖怪の世界だけではなく、人間の世界でもかなりの有名人だ。
「あら、バンちゃん?」
「やっほー!」
「どうしたの?」
「出版社に仕事で来てたんだけどさー、ちょっと休憩!」
そう言って、バンちゃんは二人のテーブルを覗き込む。
「うわっ、オムライス美味しそう!」
「バンちゃんも食べる?」
「いいの?」
「一口だけね」
「やったー!」
「……あなた、ほんと食いしん坊ね」
「えー琴子に言われたくないなぁ」
「それ、どういう意味かしら?」
「えーっと、なんとなく!」
三人の間に笑い声が起こる。
妖怪。
人間。
そんな境界なんて、ここでは大した意味を持たない。
働いて。
昼休みに食事をして。
友達と話をして。
そして、また仕事へ戻る。
琴子はそんな日常を、いつの間にか当たり前のものとして受け入れていた。
ふと、店内を見渡す。
人と妖怪が当たり前に過ごす世界。
「……世の中、何が起こるか分からないものね」
「何が?」
「ううん、なんでもないわ」
琴子は笑った。
その時。
「……あ」
「どうしたの?」
口裂け女の顔が固まった。
「私、部長に呼ばれてたの忘れてたー!」
「ええっ!?」
口裂け女は慌てて立ち上がる。
「オーナーさんゴメンなさい!私、食後のコーヒーキャンセルで!」
「ちょ、あんた!」
「琴子、先戻るね!」
慌てて動いた拍子に、テーブルの上のコーヒーが揺れる。
「あっ!」
琴子が咄嗟にカップを押さえた。
「ちょっと、危ないわねー」
「ごめーん!」
「んもぅ、何やってんだか……」
「本当にごめーん!」
口裂け女はそのまま店を飛び出していった。
そんな様子を見てバンちゃんが笑う。
「相変わらず騒がしい人だなぁ」
バンちゃんの言葉を聞いて、琴子も呆れたように肩をすくめた。
◆
結局、二人で長い時間話し込んでしまった。
バンちゃんが帰る頃には、昼休みはほとんど終わっていた。
少し冷めたコーヒーを一口だけ飲む。
「……」
ふと、思い出す。
ヨリアキ。
今、何しているかしら。
そんなことを考えてる自分が、急におかしくなった。
「……ばっかみたい」
琴子は小さく呟いた。
自分でも分かっている。
どうして、こんなことを考えているのか。
何を気にしているのか。
それなのに。
芽生えた想いを、素直に認めるつもりはない。
認めたところで、どうなるわけでもない。
「……」
時計を見る。
もうすぐ昼休みが終わる。
琴子は立ち上がった。
「会社、終わったら……」
ふと、思い出す。
「あのスマホの様子でも見に行こうかしら」
琴子はそう呟くと、会計を済ませて会社に戻っていった。
いつものように。
何もなかったような顔をして。
今日も、人間たちの訪問を迎えるために。
――そして。
その日。
一台のスマホは、誰かの手に拾われることになる。
そんなことを、琴子はまだ知らなかった。




