前編
アニエスは、薄く息を吐いた。
夜の窓辺に立つ女は、月光を溶かしたような銀髪をきらめかせ、静かに庭を見下ろしていた。
古い屋敷を囲む森には、風一つ吹いていない。
時間が止まったような夜だった。
「……静かね」
呟きは、誰かに向けたものではなかった。
数百年を生きた魔女にとって、
一日はあまりにも短く、
永遠はあまりにも長かった。
アニエスは死ねない。
神の呪いによって、その身体は「呪いを受けた瞬間」で止まっていた。
刃で裂かれても、傷が生まれる前へ巻き戻る。
毒を飲んでも、身体が異物を拒絶する。
眠っても夢はなく、気絶しても死には近づかない。
そして何より残酷なのは、忘れられないことだった。
忘却という慈悲は許されず、
数百年前に失った人々の顔も。
焼け落ちた街の匂いも。
自分を呪った神の声も。
数百年間の孤独を昨日のことのように鮮明に記憶し続ける。
数百年前。
アニエスは、まだ「死ねない魔女」ではなかった。
20代半ばにして、その名を知らぬ者はいないほどの、天才魔術師だった。
魔術師たちが一生をかけて辿り着く術式を、彼女は十代のうちに解き明かした。
失われた古代語を読み、
星の運行を計算し、
薬草と鉱石と血の性質を組み合わせ、
世界の理に触れる術をいくつも編み出した。
人々は彼女を称えた。
神に愛された魔女。奇跡を起こす者。人の世に与えられた祝福。
けれどアニエス自身は、その呼び名を嫌っていた。
神に愛されているのなら。
なぜ、人がこんなにも簡単に死ぬ様を見せつけるのか。
村に流行り病が広がったのは、長雨の続いた年だった。
最初は、ひとりの子供だった。
熱を出し、咳をし、母親の腕の中で眠るように息を引き取った。
次は老人だった。
その次は若い母親。
その次は、まだ名前を覚えたばかりの幼い兄妹。
アニエスは薬を作った。
解熱の術を編んだ。
腐敗を止める陣を刻み、
肺に入り込んだ病の気配を祓い、
血に巡る毒を薄めようとした。
実際、彼女の術は、何人もの命を救った。
けれど、すべてではなかった。
どれほど薬を煎じても。
どれほど術式を重ねても。
どれほど自分の血を触媒にしても。
救えない命があった。
「先生」
小さな手が、アニエスの指を握った。
熱で焼けるように熱い手だった。
「わたし、死ぬの?」
アニエスは答えられなかった。
嘘をつけばよかった。
大丈夫よ、と。すぐに治るわ、と。明日になれば、また花畑へ行けるわ、と。
けれど彼女は分かっていた。
その子の命が、もう消えようとしていることを。
「……死なせない」
アニエスは言った。
子供にではない。
自分に言い聞かせるように。
世界に噛みつくように。
「私が、死なせない」
その夜、子供は死んだ。
アニエスの手を握ったまま。
最後に、ありがとう、と言って。
その言葉で、彼女は壊れた。
感謝などいらない!
救えなかった者に向けられる感謝ほど、残酷なものはない。
アニエスは書庫に閉じこもった。
食事を忘れ、
眠ることを忘れ、
昼と夜の境を失い、
ただ古文書を読み漁った。
人を癒やす術では足りない。病を祓う術でも足りない。命を延ばす術でも足りない。
必要なのは、もっと根本の術だった。
死そのものを消し去る術。
命が終わるという理を、この世界から取り除く術。
誰もがそれを禁忌と呼んだ。
生と死。
それは神の領分。人が踏み越えてはならぬ境界。命を救うことは許されても、死を否定することは許されない。
けれど壊れてしまったアニエスは、神の許しなど求めなかった。
「神が救わないのなら」
彼女は古びた祭壇の前で呟いた。
「私が救う」
その言葉は、祈りではなかった。
挑戦だった。
アニエスは七日七晩、術式を組み上げた。
白銀の魔法陣が床を覆い、
空気は凍り、
蝋燭の火は青く燃えた。
死者の名を刻んだ紙片が宙に浮かび、
彼女の血で描かれた円環が、
神殿の奥深くで脈打つように光った。
アニエスは両手を広げた。
「奪うな」
彼女は言った。
「もう誰も奪うな」
その時、空が鳴った。
神殿の天井が砕けたわけではない。
雷が落ちたわけでもない。
けれど、世界そのものが彼女を見下ろした。
目には見えない巨大な意思が、アニエスの上に降りてきた。
それは、慈悲深いものではなく、
怒り。
ひどく、静かな怒り。
声が、耳ではなく、骨の内側に響いた。
―― 人の子よ。
アニエスは膝をつかなかった。
「私は命を救いたいだけよ」
―― 死を消すことが救いだと思うか。
「少なくとも、死ねば何も残らない」
―― 命は終わるから命である。
「終わりなどいらない」
―― 愚かな。
「愚かで結構」
アニエスは天を睨んだ。
「子供が苦しんで死ぬ世界を作っておいて、救いなどと偉そうに言わないで」
空気が裂けた。
祭壇が砕け、
魔法陣が歪み、
床に刻んだ血の円環が黒く焼け焦げた。
大きな破片がアニエスを掠め、
肺に入った煙が息を苦しめ、
口の中に血の味が広がった。
それでもアニエスは退かなかった。
「死を消しなさい」
彼女は命じた。
神に向かって。
「この世界から、死を消し去る術を私に与えなさい」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
やがて、声がした。
―― よかろう。
アニエスの胸が、一瞬だけ震えた。
勝ったのだと思った。
神さえも、ついに人の苦しみを認めたのだと。
けれど、その考えは甘かった。
―― そこまで死を憎むなら。
神の声は、慈悲ではなかった。
裁きだった。
―― おまえから死を取り上げよう。
アニエスは息を呑んだ。
その瞬間、白い光が彼女を貫いた。
痛みはなかった。
痛みがあればまだよかった。
熱も、寒さも、苦しみも、
何もなかった。
ただ、自分の奥底から何かが抜き取られていく感覚があった。
終わる力。
朽ちる権利。
眠りの果てに消えていく、最後の安息。
それが、彼女の身体から引き剥がされていく。
アニエスは叫んだ。
けれど声は神殿の中に響かなかった。
彼女の喉は震えているのに、世界はその悲鳴を受け取らなかった。
やがて光が消えた。
アニエスは床に倒れていた。
手足は震え、呼吸は荒く、血の味がした。
なのに。
砕けた祭壇の破片で腕を切ったはずなのに。
肺が焼けたはずなのに。
体には、傷跡ひとつ残っていなかった。
アニエスは震える手で祭壇のかけらを拾った。
自分の掌を切った。
赤い線が走る。
血が滲む。
次の瞬間、その傷は塞がった。
跡形もなく。
「……違う」
彼女は呟いた。
「私が求めたのは、こんなものじゃない」
神は答えなかった。
ただ、最後に語った。
―― 死を消し去る術を求めたな。
アニエスは顔を上げた。
―― ならば味わえ。
その声は、どこまでも冷たかった。
―― 死のない体を。
神殿に、静寂が戻った。
アニエスはしばらく動けなかった。
やがて、這うようにして外へ出た。
夜が明けていた。
空は美しく晴れていた。
村には、まだ病の匂いが残っていた。
彼女は走った。
家々を回った。
けれど死んだ者は戻っていなかった。
子供も。老人も。若い母親も。幼い兄妹も。
誰ひとり、戻らなかった。
変わったのは、アニエスだけだった。
世界から死は消えておらず、
死が消えたのは、彼女だけだった。
それから数十年が過ぎた。
村は消えた。
彼女を知る者は老いた。
老いた者たちは死んだ。
その子供たちも死んだ。
孫たちも死んだ。
アニエスだけが残った。
病では死ねなかった。
毒でも死ねなかった。
火に焼かれても、
川に沈んでも、
首を裂かれても、胸を貫かれても。
傷は塞がり、
息は戻り、
心臓はまた動き出した。
人々は彼女を恐れた。
かつて神に愛された魔女と呼ばれた女は、
やがてこう呼ばれるようになった。
神に呪われた魔女。
死ねない魔女。
アニエスは、もう誰も救おうとしなくなった。
救えば、置いていかれる。
愛せば、失う。
名を覚えれば、墓標が増える。
ならば、何も持たなければいい。
誰にも触れず、
誰も近づけず、
ひとりでいればいい。
永遠に続く時間の中で、彼女が学んだことはそれだった。
それでも。
彼女は、死を憎んだことを後悔できなかった。
あの子供の手の熱を、忘れられなかったから。
ありがとう、と言って死んでいった声を、忘れられなかったから。
神の怒りに触れたことよりも。
呪われたことよりも。
救えなかったことのほうが、ずっと彼女を罰し続けた。
だからアニエスは生きた。
死ねないからではない。
罰が終わらないから。
いつか、自分を終わらせてくれる何かを待ちながら。
死を消し去ろうとした魔女は。
死だけを望む魔女になった。
それから、
アニエスは長い年月をかけ、自分を殺す方法を模索した。
世界中の魔導書を集め。幾千もの術式を試し。自らの身体を実験台にし続けた。
そして、ようやく完成させたのだ。
――「魔女殺しの短剣」を。
それは美しい刃だった。
鏡のように滑らかな刀身には、何も映らない。ただ、止まった時間が淡く揺らめいているように見えた。
核になっているのは、アニエス自身の左薬指の骨のかけら。
骨を包み込んで形作っているのは、数百年アニエスが流し続けた涙の結晶。
死ねない身体を。死にたい心で包み込む。
そんな矛盾によって作られた、世界で唯一の短剣だった。
だが。
その短剣はまだ完成していなかった。
人の体温。
最後の工程に、それが必要だった。
リオを拾ったのは、雪の日だった。
アニエスは、「魔女殺しの短剣」を完成させるために必要な「人」を探して世界を廻っていた。
そんな時に見つけた。
焼け落ちた村の中で、ただ一人生き残っていた少年。
煤で汚れた顔。凍えた指。そして何よりも、黒く憎悪が光る目。
その目を見た時、彼女は思った。
ああ、この子は死に損なったのだ、と。
アニエスは、その瞳を気に入った。
「あなた、死にたいの?」
そう聞くと、少年は低く答えた。
「殺したい」
「誰を?」
「全部」
彼女はその答えが、ひどく気に入った。
世界を呪う目。
神を許さない目。
奪われた者の目。
昔の私と、少し似ている。
「復讐したい?」
雪の中にしゃがみ込み、アニエスは少年に問いかけた。
リオは答えなかった。
ただ、睨み返した。
その視線だけで十分だった。
「いいわ。なら、お前を強くしてあげる。
ただし、条件がある。
強くなったら、私を殺すこと。」
リオはアニエスの言葉を咀嚼し、
頷いた。
それが始まりだった。
アニエスはリオを育てた。
徹底的に、冷酷に。
自分を殺せるように。
魔術を教え、毒を教え、人間の急所を教え、
殺し方を教えた。
リオはよく覚えた。
恐ろしいほど、すぐに覚えた。
元々、頭のいい子だったのだろう。
それとも、憎しみが彼を賢くしたのかもしれない。
アニエスにとってはどちらでもよかった。
「違うわ、リオ。それでは浅い」
まだ幼い少年の手を取って、アニエスは自分の胸元に刺さった剣をさらに押し込んだ。
「心臓を貫くなら、もっと深く。骨の間を滑らせるの。
迷いなく刺しなさい」
リオの手に、肉を切り裂く感触が伝わった。
その感触に手を震わせながらも、リオは無言で頷いた。
リオの黒い瞳は、いつも静かだった。
アニエスの非情な態度に、
普通なら、泣き叫ぶ。逃げ出す。
あるいは憎悪を剥き出しにするだろう。
だがリオは違った。
どんなに厳しい訓練を与えても。どんなに冷たい言葉を投げても。
ただ静かに、アニエスを見つめ返してくる。
まるで。
彼女の奥底を覗き込むように。
リオの憎悪を燃え立たせるために、アニエスは何度もリオに囁いた。
「憎みなさい」
「強くなりなさい」
「私を殺せるよう、もっと強くなりなさい」
「何をしているの」
ある日、リオは訓練場で腕を怪我していた。
深い傷ではなかったけれど、その怪我を見て彼女はひどく腹が立った。
「訓練で」
「そんな傷、避けられたでしょう」
そう言って、アニエスはリオの腕を取った。
血が流れていた。
拾った頃より背が伸びて、骨ばった腕。
けれど、まだ細かった。
彼女は治癒の術を流し込んだ。
傷口が淡く光り、血が止まり、皮膚が塞がっていく。
リオは黙ってアニエスを見ていた。
「何」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「……どうして怒るんですか」
アニエスは答えなかった。
どうして。
そんなこと、彼女にも分からなかった。
道具が傷つけば困る。
使い物にならなくなる。
だから、怒るのだ。
そう言えばよかった。
けれど、その言葉は彼女の口から出てこなかった。
違う、とどこかで分かっていたからだ。
リオが傷つくのが嫌。それだけだった。
アニエスはその感情に名前をつける気はなかった。
名前をつければ、失う。
私は、それを知っている。
愛したものから順に、墓標になる。
名を呼んだ相手から順に、私を置いていく。
だから私は、何も愛さない。
リオも同じだ。
この子は拾った子。
私を殺すために育てている道具。
それ以上でも以下でもない。
アニエスは何度も、そう思い込もうとした。
アニエスにとっては短く、
リオにとっては長い年月が過ぎた。
リオは青年になろうとしていた。
いつの間にか、アニエスを見下ろすほど背は伸び、
少年の細さは消え、剣を握る手は硬くなった。
魔術の扱いも洗練され、アニエスが教えていない術式まで自分で組むようになった。
もう、子供ではない。
アニエスはそれを認めるのが、少し嫌だった。
「最近、生意気ね」
「あなたに育てられましたから」
「なら、育て方を間違えたのね」
「そうかもしれません」
リオは静かに笑った。
あの雪と泥の中で私を睨んでいた子供が、こんな顔をするようになった。
笑うようになった。
アニエスの名前を、当然のように呼ぶようになった。
アニエスはそれらの変化が、少し怖かった。
だから彼女は、少しリオと距離を置こうとした。
リオが近づけば突き放した。
優しい言葉をかけられれば、皮肉で返した。
視線が合えば、目を逸らした。
それでもリオは離れなかった。
「アニエス」
「何」
「眠っていませんね」
「眠る必要がないもの」
「必要がなくても、休むことはできます」
「私に説教?」
「はい」
「偉くなったわね」
「あなたが、放っておくと壊れそうな顔をしているので」
アニエスの息が止まった。
壊れそう?私が?
そんなことを言う者はいなかった。
誰もが私を恐れた。
死ねない魔女として見た。
化け物として見た。
けれどリオは、私を壊れそうだと言った。
死ねない私を。
終われない私を。
もうとっくに、壊れた私を。
アニエスは笑った。
「私は壊れないわ」
「知っています」
「ならそんな心配は不要ね」
「…壊れないから、壊れたまま残っているんでしょう」
その言葉は、ひどく残酷で、ひどく正しかった。
アニエスは何も言えなかった。
リオがアニエスの手に触れた。
少年だった頃より、大きな手だった。
温かかった。
「あなたを終わらせる方法を、探しています」
「そう」
「でも」
彼は言葉を切った。
彼女は顔を上げた。
「何」
「終わらせることが、救いなのか分からなくなりました」
彼女の胸の奥で、何かが軋んだ。
それは困る。
そう思った。
この子には、私を殺してもらわなければならない。
私を終わらせてくれるのは、きっとこの子だけだ。
なのに。
リオの声を聞いていると、終わりたくないような気がしてしまう。
彼女はそれが怖かった。
ひどく、怖かった。
月食の夜だった。
魔女の魔力が最も弱まる時。
赤黒い月光が、屋敷を不穏に染めていた。
成人したリオは、氷のように冷たい瞳を持つ青年になっていた。
黒髪。切れ長の黒い目。そして、感情を隠した静かな顔。
アニエスはカウチに腰掛けたまま、彼を見上げた。
「ようやくね」
白い指先で、「魔女を殺す短剣」を持ち上げる。
「これはあなたのものよ、リオ」
青年は黙って受け取った。
その瞬間。
短剣が、かすかに震えた。
アニエスは息を飲む。
刃が、ついに『完成した』。
リオの体温を吸い込み、死の武器として安定したのだ。
「さあ」
アニエスは微笑んだ。
「私を殺しなさい」
ようやく終わる。
ようやく死ねる。
長かった孤独が終わる。
歓喜で胸が震えた。
だが。
リオは動かなかった。
「……リオ?」
青年は静かにアニエスを見下ろした。
その瞳には、憎しみが無かった。
「アニエス」
低い声が、静かな部屋に落ちる。
「あなたを終わらせる方法を探しました」
「なら、そうしなさい」
「できません」
「リオ」
「あなたを殺せません」
その言葉に、アニエスの胸の奥が凍りついた。
裏切られた。
そう思った。
「……何ですって?」
「あなたは僕を育てた」
リオは続けた。
「あなたを殺すための道具として」
「そうよ」
青年は小さく笑った。
その笑みは優しかった。
優しすぎて、アニエスは思わず息を呑んだ。
「でも、失敗しました。
僕はあなたの孤独ばかり学習してしまった」
リオは短剣を握ったまま、ゆっくり後ずさっていく。
アニエスは立ち上がった。
銀髪が揺れる。
「あなたまで、私から死を奪うの?」
リオの顔が泣きそうに歪んだ。
けれど、目は逸らさなかった。
「違います」
「何が違うの」
「死を奪うんじゃない」
彼は静かに言った。
「あなたを、生きる身体に戻します」
彼女はリオの言った意味が分からなかった。
生きる身体?
そんなもの、いらない!
「私は死にたいのよ!」
「知っています」
「なら!」
「でも僕は、あなたに生きてほしい」
リオは彼女の目を真っ直ぐ見つめた。
アニエスの喉が、ひくりと震える。
次の瞬間。
彼は短剣を、自分の胸へ突き立てた。
「――っ!!!」
肉を裂く鈍い音。
真紅の血。
アニエスは絶叫した。
「リオ!!!」
膝をついたリオに駆け寄った彼女を、青年は抱き寄せた。
血の匂いがする。
熱い。
死ねない魔女には存在しなかった、生きた人間の熱だった。
「……嫌」
アニエスは泣いていた。
「嫌よ、リオ……死なないで」
リオが死んでしまう、と思った瞬間、
アニエスの心は砕かれてしまった。
共に生きたのはたった数年だというのに、
アニエスにとってリオはかけがえのない存在になってしまっていた。
「あなたは僕を拾って…生き方を教えた…
だから…今度は…僕があなたを…生かしたい」
苦しげに血を吐きながら、
リオは呪文を唱えた。
白銀の魔法陣が床一面に広がった。
そして、淡い白い光が、抱き合う二人の身体を包み込んだ……
リオ自身の血液と「魔女殺しの短剣」とを媒介に、リオの魔術回路である心臓と死ねない魔女の止まった心臓を直接繋ぐ。
アニエスの「不死の呪い」をリオが全て引き受け、代わりにリオの「限りある人間の生命力」を彼女に流し込む。
それにより2人の生命は一蓮托生となり、時間の流れと死を分かち合い、完全に同期する。
神の呪いに干渉する術式。
アニエス1人では数百年かけても届かなかった領域。
それを、リオは自分の命を楔とすることで完成させた。
アニエスの心臓に絡みついた古い呪いが、ぎしぎしと音を立てている。
繋がったリオの心臓の鼓動が、アニエスの心臓に到達し、
徐々に呪いをほぐしていく。
……そうして、アニエスの心臓は、再び動き出した。
しばらくして2人を包んでいた光が徐々に薄れていき、空気に溶けた頃、
ようやくアニエスはつぶやいた。
「な……にを……したの……」
「呪いを…書き換えました……」
リオは胸から短剣を抜き、額を彼女の肩に押し当てた。
「あなたの不死を…僕が引き受けた」
アニエスは震える手で、彼の顔に触れた。
喉に触れた指がリオの脈をとらえた。
リオは生きている。
その時アニエスは気づいた。
自分の胸の奥で。
止まっていたはずの心臓が、
微かに脈打っていることに。
だが同時に。
自分の中から、膨大な魔力が抜けていく感覚があった。
世界で最も巨大な魔力。神に抗った力。
それらが、流れていく。
リオはそんな彼女を見て、静かに微笑んだ。
「僕の生命を、あなたの不死と結びつけました。
これで、僕とあなたは完全に同期しました」
「殺してって言ったのに」
「ええ」
「終わらせてって、言ったのに」
「ええ」
アニエスの手は震えていた。
「どうして、私を生かしたの」
アニエスの銀の髪は乱れ、目から次々に涙が零れ落ちていった。
いまや彼女は、
弱くて、
傷ついていて、
怒っていて、
泣き濡れていて、
生きていた。
リオは少し間を置いて、
「愛しているからです」
とはっきり言った。
そして血に濡れた手で、アニエスの頬を撫で、涙を掬った。
「 これから、僕とあなたは同じ時を生き、一緒に死んでいくんですよ」
その言葉に。
アニエスは、何も返せなかった。
初夏。
屋敷の庭には、小さな青い花が咲いている。
「リオ、これ食べたいわ」
「リンゴの皮くらい自分で剥いてください」
「指を切ったらどうするのよ」
「切っても死なないでしょう」
「今は死ぬの!」
不満げに言いながら、アニエスはリオをにらんだ。
膨大な魔力のほとんどを失った彼女は、驚くほど不器用になった。
重い鍋も持てない。階段を登れば息が切れる。
少し前まで、呪われた死ねない魔女だったとは思えない。
そんな彼女を見て、リオは思わず笑みがこぼれた。
「慣れてください。あなたはもう普通の人間なんですから」
「……普通って、不便ね」
「でしょう?」
皮を剥き終えたリンゴを差し出され、アニエスはむっとした顔で受け取る。
けれど。
その頬は、ほんの少しだけ緩んでいた。
「アニエス」
「なによ」
「まだ、怖いですか」
何が、とは聞かなかった。
老いること。弱くなること。いつか死ぬこと。
全部だ。
アニエスはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……少しね」
リオは彼女の左手を取った。
指先に、銀の指輪が触れる。
「でも、一人じゃない」
アニエスの少し短い薬指に収まったそれは、銀製の。
新しいリオの呪い。
結婚指輪。
「あなたが死ぬ時は、僕も一緒です」
静かな声だった。
けれど、その言葉はどんな呪いより深くアニエスの胸へ沈んだ。
逃げられない。
この青年は、一生自分を離さない。
死ぬことも。一人になることも。
もう許してくれない。
「……やっぱり誤算だったわ」
アニエスはぼやいた。
「リオなんて拾うんじゃなかった」
リオが笑う。
その笑みを見ながら、アニエスも笑いながら思った。
永遠は終わったのだと。
代わりに始まったのは、限りある時間。
朝になれば目を覚まし。
一緒に食事をして。
くだらないことで口喧嘩をして。
同じ速さで老いていく。
そんな、退屈で。不自由で。けれど、どうしようもなく愛おしい日々。
夏の気配が混じった爽やかな風が吹き抜けて、髪を揺らす。
リオが指先を絡めてくる。
その熱を感じながら、アニエスはそっと目を閉じた。
もう。
一人取り残されることはないのだと。




