囁き
伸一郎は眠れないと思っていたのに、目を閉じるとすぐに眠気に襲われた。
――我ながら図太い神経だ。
夢の中でそう思いながら、ぼんやりとこれからの生活に思いを馳せる。
雪ちゃんは「当面」と言っていたけれど、どれくらいなんだろう。1、2日? 1週間? 2週間? それとも――ずっと?
……ずっと居ればいいのにな。
そんな考えがふと浮かんだとき、頭の中で低く響く声がした。
『そんなに好きなら、自分のモノにしてしまえばいいじゃないか』
「……自分のモノって……下世話な言い方だな」
伸一郎は思わず呟く。声はどこか、聞き覚えがあった。
「雪ちゃんはモノじゃないし、オレたちは幼馴染だ。第一、年も離れてるんだぞ。雪はオレのことを兄みたいに思ってるんだろう」
そのはずだ。いや、そうでなければいけない。
けれど、そう考えれば考えるほど、胸の奥に生まれるのは納得ではなく 苛立ち だった。
「……でも」
もし雪が、他の誰かを好きになったら?
誰かに奪われるくらいなら――
『そうだ、それなら話は簡単だ』
別の声が、にやりと笑うように囁いた。
『お前が動かなければ、別の男が雪を奪っていくぞ? そいつが雪のことを抱きしめて、名前を呼んで、唇を奪って――』
「やめろ!!」
伸一郎は叫んだ。
頭の中に、見たこともない「別の誰か」と寄り添う雪の姿が、鮮やかに浮かんでしまう。胸が締め付けられる。息苦しい。全身に焦燥が駆け巡る。
そんなの、絶対にイヤだ。
『なぁ、イヤだろう? だったら……』
声が甘く誘う。
まるで、耳元で囁くみたいに。
『――いっそ、閉じ込めてしまえばいい』
「閉じこ、める……?」
頭の中で言葉を繰り返した瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。周囲が黒く塗り潰されていく。足元から、じわじわと闇が滲み出している。
どこかで、雪の声がした。
「……しん……ちろ……?」
遠く、掠れた声。手を伸ばすが、届かない。
彼女が、何かに引き込まれていく――
「雪!!」
その瞬間、伸一郎は飛び起きた。
息が荒い。背中がじっとりと汗で濡れていた。
――夢……?
いや、ただの夢じゃない。あれは――
視線を横に向ける。布団の中で、小さく寝息を立てる雪の姿が目に入る。
「…………」
伸一郎は、そっと胸に手を当てた。
心臓が、まだ強く鳴っている。
雪を奪われるなんて考えたくもない。だけど、自分が何かを間違えたら―― 本当に彼女を傷つけてしまうかもしれない。
彼はそっと目を閉じた。
夜はまだ、長い。