三パック九十八円の特売豆腐
伸一郎は、ご飯の炊ける音と、ふんわりと立ちのぼる湯気の気配に目を覚ました。
……あれ?
まどろみの中、脳がゆっくりと回転し始める。聞き慣れた炊飯器の音。部屋に満ちる温かい香り。ああ、昨日の夜に予約しておいたんだったな。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、空気を優しく染め上げている。いつもと同じ朝――のはずなのに、なぜか心の奥がじんわりと温かい。
布団の中にもう少しだけいたいような、けれども、このまま眠ってしまうのはもったいないような。
「ん……」
伸びをしながら、今日の予定を思い返す。
警備員の仕事がある。お弁当を作らなきゃ……でも、昨夜はなんだかよく眠れなかったし、もう少し寝ようか。最悪、おにぎりでも作れば――
カン、カン、トントン。
不意に、まな板を叩く包丁の音が響いた。
「……?」
一瞬、思考が止まる。朝の静寂を切り裂くような、その音。
誰かいる――?
瞬間、胸の奥がざわついた。
ガバッと布団を跳ねのけ、寝癖のついたままの髪をぐしゃりとかき乱しながら、伸一郎は勢いよく部屋を飛び出した。
扉を開けた先に、いたのは――
「雪ちゃん……!?」
「おはよう、伸一郎」
キッチンに立つ雪が、振り向いて微笑んでいた。
まるでずっとここにいたかのように、自然に、当たり前のように。
彼女はすでにセーラー服に着替えていて、袖をまくり、慎重な手つきで包丁を握っている。
白い指先が、豆腐を丁寧に刻んでいく。その仕草が妙に馴染んでいて、一瞬、現実感が薄れた。
「勝手に冷蔵庫開けちゃった。ごめんね」
「……ううん、ごめん。寝坊した……」
ぼんやりとそう返した瞬間、ふわりと湯気が鼻をくすぐった。
温かな味噌の香りが部屋いっぱいに広がっている。心の奥に、じんわりと染みるような匂い。昨日買った三パック九十八円の特売豆腐。それが今、雪の手によって、たしかな温もりを宿していた。
「あのね、昨日、お仕事があるって言ってたから……お弁当、作ったよ」
「お弁当……?」
言葉が上手く出てこない。
頭がまだ夢の中にいるみたいで、思わずまぶたをこすった。けれど、雪はそこにいて、温かい味噌汁の香りも、確かに漂っていた。
「お味噌汁、飲む?」
「……飲む」
気がつけば、口から言葉がこぼれていた。湯気の向こうで、雪が微笑む。その笑顔は、朝日に溶けるみたいに柔らかくて、どこか儚げで――伸一郎の心に、ふっと灯るものがあった。
窓の外では、静かにいつもの朝が始まっていく。




