第477部分
しかし、そうして割合に理に適った方針を打ち出し、それに従って森林の外周との距離があまり変わらぬ方向へと歩き出したアイシスであったが、そもそもその方針を定めるに到った理由の一つでもあった様に自然とは個人の思い通りに動いてくれる様なものではなく、次なる樹液の発生源を発見する前に早くもその方針は崩れ去る事になる。
というのも、例の匂いが感じられてはいないが故に軽く見回す程度に留めながらも先に進んでいたアイシスの目の前に突如、いや厳密に言えば当初はその視界の端に僅かに引っ掛かった程度だったものを、それに気付いたアイシスが咄嗟にそちらに視線を向けた結果そこに現れた様な形になった訳だが、黒地に綺麗な青い……というよりも碧い模様の入った、少なくとも当人の基準によればかなり大きな部類に入る蝶が現れたとなれば、仮にも昆虫採集をしている身としてはそれを見過ごす訳にはいかなかったのである。
「えっ? 何あの綺麗なちょうちょ! この世界の固有種なのかしら!?」
という訳で、その予想外の出来事に驚きを顕わにしながらも、いや森林内を蝶が飛ぶなどという当然にも程がある出来事に何を驚いているのかという話ではあるのだが、その蝶の美しさに目を奪われたアイシスは興奮を隠せぬ様子で素直な感想をそう述べると、続けてその美しさから派生した自らの推測も口にする。
尤も、確かに綺麗な蝶ではあるものの実際にはそれは所謂「アオスジアゲハ」という種であり、元の世界でも一般に見られる、どころか当人が暮らしていた様な街中でもそう珍しくもない、もとい少なくともかつては珍しくもなかったものであったのだが、その年代及び性別の人間としては珍しく昆虫に興味を抱いていた方であるにもかかわらず、縁が無かったのか実物はおろかインターネット等の資料ですらその姿を目にした事が無かった少女には、その美しさがそう思える程に神秘的なものに思えたのであった。
「あ、ちょっと待って!」
そして、当然ながらその誤解を解く手段は最早存在しない訳であったが、最早そんな些細な事は当人にとっては至極どうでも良い事であり、自由に空を舞うその蝶がその視界から森の奥の方へと去ろうとすると、アイシスは思わずそう伝わる筈も無い願いを投げ掛けながらその後を追う。
いや、一度立てた方針に必ず従わなければならない、とまでは言わずとも、安全を優先するという話は何処に行ったのか、という話なのだが、空を飛ぶ事で障害物を無視出来ている分だけ速く感じるものの、その速度自体は決してそこまで速いという訳ではない事もあり、半ば夢中になってその蝶の後を追いながらも、一応はアイシスも周囲や足元の安全を確認する事は出来ていた。
尤も、最初にこの森林内に足を踏み入れた際と比較すれば一目瞭然である様に、その様な状態では当然ながらその確認も十分に出来ていたとは言い難かったのだが、単純に当人の運が良かったのか、或いはその一見不十分に見える安全確認でも問題が無いという程度には、存外にもその森林内は安全な環境だったのか、それでも特にアイシスが事故に見舞われたり危険な存在と相まみえたりする事は無かった。
「……此処なら捕まえられるかも、しれないわね」
とはいえ、森林特有の足場の悪さ等のちょっとした危険は無論健在ではあった為、意識の多くをその蝶の追跡に割きながらも足を取られたりはしなかったのは当人の成長とも言えたのだが、それでもあくまで走りではなく早歩きの範疇での追跡であったにもかかわらず、やはり平地を歩くのとは比べ物にならない程度には消耗していたのか、程無くして森林内のちょっとした広場の様な所に出たアイシスは若干その息を切らしながらそう呟く。
いや、流石に飛んでいる蝶を素手で……というのは常人には厳しい事を考えれば当然ながら網を使用する事になる為、未だそれでの捕獲に成功した事すらないのに何を根拠にそんな事を言っているのかという話ではあるのだが、当然ながら少なくとも当人としてはそれなりの根拠があっての発言だった。
というのも、これまでの捕獲の失敗の際には何れも周囲に障害物があり、自由に網を振る事が出来なかった事がその失敗の要因である……とまでは言い切らずとも、少なくともその一端にあると考えている当人からすれば、あくまで森林内の広場という事で流石に一切の植生等の障害物が無いという訳ではないものの、概ね自由に網を振る事が出来る程度の空間は確保されているその場所であれば、これまでと同じ結果になるとは限らないと思えたのである。
尤も、確かにこれまでの捕獲の際には周囲に一定の障害物が存在していた事自体は確かではあるものの、蝉の件が最も顕著である様に、何れも概ね当人が最適だと考える角度で網を振る事自体は出来ていた為、失敗の原因は他にあると考える方が自然ではあったのだが、その「他にある原因」の一端に自信等の精神的な要素が含まれているとするならば、その考え自体が成功に繋がる要素になり得る可能性は一概に否定出来るものではなかった。




