マヨネーズ万能症候群
ここはどこかの街の片隅にある、小さな診療所だ。
一種独特な考えに囚われ、苦しむ人たちが通う、専門医である。
「次は、川原あかりさん」
私は初診受付表を見ながら、声をかけた。
「はい」
返事をしたのは、ごく普通の二十代の女性だ。短めの髪はややウエーブがかかっていて、ふんわりとしている。目鼻立ちは整ってはいるものの、取り立てて目を引くというほどではない。ベージュのコート姿は、品の良さをかんじさせる。
ただ、片手に鉢と泡立て器を持っていて、それを動かす手が止められないようだ。
「こちらへ」
私は診察室の前の椅子に案内をして問診を始める。
「今日はどうなさいましたか?」
「マヨネーズを作らないと落ち着かないのです」
彼女は言いながらもシャカシャカと音を立てている。
「どんな食事の時でも、マヨネーズを付けないとダメになって来てしまって」
「最近は何につけてお食べになりましたか?」
「海老せんべいです」
彼女は恥じるように目を伏せる。
海老せんや、クラッカーにマヨネーズをつけるのは、味はともかくカロリー的に問題だが、中毒者ならやっても不思議はない。
ただ、一般的な中毒者がマヨネーズを手作りするかとなると、少々疑問である。
「手作りをなさる理由は?」
「市販品はいつ手に入らなくなるかわかりませんので」
どうやら、本気でそう思っているようだ。
目が本気の光を宿している。
「洋子君、入ってもらいたまえ」
診察室からデュークの声がした。
彼が問診の途中で口をはさむのは、患者がかなり悪い時だ。
「はい」
彼女を診察室に案内すると、デュークを見て、彼女は頬を染めて固まった。
デュークは忘れがちではあるが、類まれなる美形である。これは日常の風景だ。
「やあ、そのマヨネーズはどうするのかい?」
デュークはにこりと笑って、指を指した。
「マヨネーズを切らしてはいけないのです。マヨネーズがあれば、どこへ行ってもみなを幸せにできるのです」
川原は呟く。
「ちなみにマヨネーズのお薦めは何かな?」
「えっと。ポテトサラダとか、カキフライのタルタルソース。鶏肉にまぶして焼いても美味しいです。あと、冷やし中華とか」
「冷やし中華?」
デュークの目の奥がきらりと光った。
めったに見せない医師としての、眼光だ。
「ああ、君は『マヨネーズ万能症候群』だ」
デュークは柔らかな笑みを浮かべる。川原は病名を告げられただけなのに、なぜか頬を紅潮させた。
「あの……」
「大丈夫。この病気はちょっとしつこいけれど、今はいい治療法が確立しているから。洋子君」
デュークは私の名を呼んだ。
「はい、医師」
私は川原を別室に案内し、機械を頭にかぶせた。
「うむ。これはER-dgo308『異世界野戦料理』だね。マヨネーズをとにかく万能調味料だと思い込んでしまうやっかいな異世界だ」
「では、これは『特殊指定』の?」
私はいつもとは違う棚のファイルを探す。
「うん。中毒性があるから、異世界の影響を脱しても、ちょっとやっかいだね、洋子君頼む」
「了解」
私は機械のスイッチを押す。複雑な色合いが明滅した。
治療が終わると、私は彼女をデュークの前に案内する。
「川原さん、どうですか、調子は」
デュークは穏やかに問いかけて、机の上の卵と酢、油を見せた。
「はい。大丈夫です」
川原は静かに頷いた。
「うん。でも、後遺症が出る可能性があるから、これを処方しておくよ。食事の時、適宜使ってみて」
デュークは、薬袋を川原に渡す。
「ありがとうございます」
川原は頭を下げて帰って行った。
「医師、いったい何を処方なさったのです?」
「東海地方のご家庭にはたいていある、味噌だれだよ」
デュークは引き出しから、市販の味噌だれを取り出して、誇らしげな顔をした。
甘めの赤みそだれで、名古屋名物『味噌カツ』をご家庭で楽しめるやつである。
「何故です?」
「調味料へのこだわり系は、なかなか簡単に消えないんだ。普通に生活して、マヨネーズをまったく食さないのは難しいだろう?」
デュークは苦笑する。
「彼女は、もともと東海地方人的な気質があったからね。そっちのこだわりを強く押し出してやれば、しばらくすれば、完治できるだろう」
「東海地方人的な気質?」
受付表に記載された住所は、東海地方ではない。もちろん、出身地はわからないけれど。
「うん。冷やし中華にマヨネーズをかけるってのは、一部の東海地方の人に見られる特徴なんだ。からしの方が一般的だよね」
「……なるほど」
もともとは、東海地方の有名ラーメンチェーンが、夏に冷やしラーメンをサラダ感覚でマヨネーズを添えたのが起源とか言われているらしい。
「味噌にこだわっていけば、マヨネーズを忘れられるよね」
「なるほど」
私は頷く。
「ところで、洋子君、明日の朝は、一緒にコーヒーでもどうかな?」
「トーストと卵のない、コーヒー店に興味はございません」
「うん。じゃあ、トーストとゆで卵をつければ、洋子君はモーニングコーヒーは嫌じゃないんだね」
デュークは嬉しそうに微笑んだ。