9 とある近衛兵の間奏曲①
五月二十八日。
今日はカイン副隊長の命令で仕事を早く切り上げ、例の引越し先へ家具を運んだ。
西地区の外れに建つ家は大きかったが、内装は思っていたよりも質素だった。女の人の家って、あんなものなのだろうか。
一、二時間その家に居たものの、肝心の家の持ち主には会えなかった。……別に誰でもいいけど、断られるなら早い方がいい。できるだけ早く寮に戻りたい。
引越し作業が完了して寮に戻ると、明日付で退寮する僕のためとかでユリアンたちに酒場に連れて行かれた。
「送別会」なんて言っていたが、アストラッドがただ単に飲みたいだけだったんだと思う。早くて一日、遅くて一ヶ月と、どうせすぐ寮に戻ることになるから、送別会なんてしても意味ないのに。
騒がしいところや人の集まるところが苦手な僕にとって「酒場」とは縁のない場所で、あまり足を運びたくなかった。酒だって好きじゃないし。
でも、カミユもユリアンも「最後にみんなで食事がしたい」って寂しそうにするから……行きたくなかったけど、断れなかった。ユリアンたちの気持ちは、その、……嬉しかったから。
別に退職するわけじゃないのに、これからも仕事で顔を合わせるっていうのに、みんな僕なんかのために送別会を開いてくれて。こんな僕に良くしてくれるなんて、ユリアンたちはやっぱり少し変わってる。
夕方から始まった僕の送別会は、騒々しく始まり、騒々しく終わった。主に酔っ払ったアストラッドのせいで。
……これだから酒乱は困る。他の客にも迷惑をかけてさ。僕にも無理やり酒を飲まそうとしたり、食べ物を口に詰めようとしたり──挙句の果てには椅子から転げ落ちて、庇った僕が手を擦りむくし。
泥酔したアストラッドのこともあり、僕たちは夜の深まらぬうちに酒場を出ることにした。アストラッドはカミユに宥められながら、クラウスに引っ張られてた。あいつはすぐ酔うくせに酒好きだから困る。……まあ、悪い奴ではないんだけど。
ユリアンたちと一緒に寮に帰ろうかと思ったが、アストラッドにしつこく絡まれたくなかったので別行動をとる事にした。酒の匂いや胃もたれで少し気分が悪く、寮の点呼まで時間もある。
だから、体と気分を落ち着かせようと繁華街から出て適当に歩いていた。ほんのりと吹く夜風はやや冷たかったが、酒の匂いの染み付いたこの体にはそれが心地良い。
ふらふらと夜を彷徨う中で、誰もいない小さな公園を見つけた。僕はそこで身体を休めようと思い、ひっそりとした空間に足を踏み入れた。
(……酒臭いし、怪我はするし、嫌になる)
公園の長椅子に横になり、宙を仰ぐ。もうすぐ雨期に入るというのに、今夜は雲ひとつない美しい星空だ。
思わず星へ向かって手を伸ばす。──なぜだか、あの人の顔が脳裏を過ぎった。
怯えもせず、怒りもせず、泣きもせず、真正面から僕を見て笑いかけてくれた黒い瞳の女の人。
城の外れで出会ったあの日以来、彼女と再会することはなかった。……別に、会いたいとか、会えたらいいなとか思っているわけじゃないけど、時折無意識に彼女の影を捜している自分がいて。
馬鹿らしく、だけど何故か物悲しくなって腕を下ろす。手の甲の擦り傷がチリリと疼いた。
瞼を閉じて大きく息を吐く。人ごみから離れ、緊張感が解けたのかもしれない。繁華街の喧騒は遠く、耳を澄まさなければ聞こえないくらいだった。
仰向けになったままじっと瞑目していると、聴覚が研ぎ澄まされる。繁華街の喧騒だけでなく、風の音や草の音、街に住まう野良の動物の鳴き声が次々と耳に飛び込んできた。
僕はそれらの音を遠くに感じ、ただぼんやりと、あるがままにそこに居た。
それから、どれくらい経っただろうか。
暈けていた音の中に、明瞭なものが混じり込んだ。
コツ、コツという硬質の乾いた音。音と音の間隔は短く、規則的。──誰かが早足で歩いている。数からして一人。
酒場を出たのは九時ごろなので、そこまで夜遅いというわけではない。しかし、一人で出歩くには適さない時間帯だ。ここが繁華街ならばまだ分かるが。
(残業帰りか、親しい人の家を訪ねていたか、何か急用があるのか──僕には関係ないけど)
足音はどんどん近くなってくる。おそらく、歩いている人間はこの公園を通り抜けるのだろう。僕が来た時には誰もいなかったから、ここで誰かと待ち合わせというわけではないはず。
職業柄、不審者ではないかと一瞬神経を尖らせてしまったが、犯罪を働くには早い時間だし、僕は今非番なので動く気にはなれなかった。生真面目なカイン副隊長やクラウスなら身元確認くらいしそうだけど。
いよいよ押し迫ってきた誰かの足音。通り過ぎていくんだろうなと、さほど気にとめずぼうっとしていた僕だったが、それは違っていた。
(……?)
ピタリと、突然音が止んだ。
どうして止まったんだろう。ああそうか、こんなところで寝転んでいる僕を見つけて、驚いているのかな。僕には構わなくていいから、さっさとどこかに行けばいいのに。
そんなことを考えていると、足音が動き始めた。僕の横たわる長椅子の方へと。……これは面倒くさくなりそうだ。
やにわに、すごく煩わしい気分になる。
「あの、大丈夫ですか?」
長椅子の脇から聞こえたのは、女性の声だった。どこかで聞いたことのあるような声だったけれど、思い出せない。
(……女の人。ますます面倒くさい。どうせ僕を見たら逃げるくせに。叫ばれでもしたら厄介だ)
面倒くさい面倒くさい。
どうしようかと思案し、寝たふりをしようかとも思ったが、意識を失っていると勘違いされて診療所へ運び込まれるのは嫌だったので目を開けることにした。
近衛隊に配属されてすぐ、日陰で休憩していただけの僕を倒れていると取り違え、医務室へかつぎ込んだ奴がいる。……アストラッドだ。
ゆっくり瞼を持ち上げると、星の光に照り返るキラキラとした髪が見えた。
僕へ声をかけてきた人へ目を向けるが、夜の暗がりが邪魔をし、顔がよく分からない。腰をかがめ、僕を覗き込んでいるようだけど、その顔、どこかで──。
「兵士様、兵士様、大丈夫ですか?」
闇に目が慣れ、見覚えのある顔だと識別した僕の耳に飛び込んできたのは、懐かしい口調と音程で紡がれる言葉。
──……あの人だ。
急激に五感が冴えた気がした。
夜の影が落ちた彼女の顔は、のっぺりとしていて、少し吊った目は細めで……その瞳の色は闇と同化し隠れているが、きっと黒。
兵舎の近くで会い、僕に笑いかけてくれた女性。国守魔導師の召使。
(どうしてあの人が、ここに)
予期せぬ巡り合いに胸が跳ねた。
彼女がここに居ることに、そして僕へ声をかけてきたことに驚いて。
目の前にいるのが本当にあの人なのか確かめるかのように、自然と体が起き上がる。少しだけ近くなった彼女の顔は、どれだけ見ていても変わらない。
細くも太くもない眉根が僅かに寄せられており、口元に笑顔はなく。城で出会った時の柔らかな表情はいったいどこに行ったのか。
……ひょっとすると、僕みたいな奴がこんな所で寝そべってるから、不愉快にさせてしまったのかもしれない。そうだよね。僕は幽霊みたいな暗いどうしようもない奴。彼女は気味悪がってるんだ。
僕の目に映る彼女は、長めの前髪から顰めた眉を覗かせている。だけど、彼女の周囲から負の感情を孕んだ空気は感じない。
もしかして──……そんなこと有り得ないけど、……心配、してくれているのだろうか。
寄った眉根と一文字の唇。その意味を推し量るも、答えは彼女が出してくれた。
「あの、大丈夫ですか。どこかお加減が悪いのですか」
気遣うような声色は、僕を傷つけるものではなかった。
(この人は、僕を心配している?)
金槌で頭を強く叩かれた感覚だった。
まさか、こんな僕を心配してくれる同世代の女性がいるなんて。
嘘だ。まさか。
──信じられない。
信じられなくて、何も言えなかった。
頭の中だけが疑問と感情の渦を巻き、心臓が早鐘を打つ。
もの思わしげな彼女を見上げながら、僕は途方もない衝撃に呑まれていた。そんな僕へ苦言を吐くことも怒鳴ることもせず、また立ち去ることなく彼女は静かに佇んでいる。
そうだ。この人に何か言わなければ。彼女は僕に話しかけてきて、僕の返事を待ってるはず。
でも、なんて言おう。
何を言ったらいいのだろう。
彼女を不愉快にしないように、どんな事をどんな風に言えばいいのだろう。
考えに考えた末、僕の情けない唇から漏れ出たのは、虫の羽音みたいな声だった。
「……なんで」
自分の声を、自分が言ったことを聞いてハッとする。ようやく落ち着いてきたにも拘わらず、僕は全く違う言葉を発してしまっていたのだ。
「はい?」
首をかしげ、きょろりと瞳を揺らす彼女。
無理もない。彼女は僕に「大丈夫か」と聞いてきたのに、僕はその答えを言わないどころか逆に質問をしてしまっているのだから。
どうして僕なんかに話しかけてくるのか、僕を心配するような態度を取っているのか。気になって、知りたくて、そっちばかりに気がいって……聞かれた事に答えるよりも先に、自分の問いを出してしまった。
本当に僕はどうしようもないダメな人間。
重苦しい自己嫌悪に陥っていると、小さく息を吸う音が聞こえた。
「家に帰る最中にここを通りかかったら、横になっている兵士様をお見かけしたもので……体調がすぐれないのかと心配になって、声をおかけしてしまいました。お節介でしたらすみません」
次いで放たれた彼女の言葉に、僕は二度目の金槌を叩き込まれた。
彼女は今なんと言った?
「心配になって」って、そう言わなかった?
じゃあ、やっぱり彼女は僕の事を心配して声をかけてくれていた?
口腔にひんやりとした空気が触れる。脳天に直撃した雷のためか、僕は我知らず口をポカンと開いてしまっていた。
嘘だ。そんな、女の人が僕を気にかけるなんて、身を案じるなんて、有り得ない。
思い上がりそうな己を戒めるべく、「あれは彼女の本心ではない」「これは夢だ」と心中で繰り返す。しかしそれらは即座に打ち砕かれた。
「具合がお悪いのですか?」
穏やかだけど、どこか沈んだ──不安げな声が降ってくる。
何度も何度も、僕の体調を尋ねてくる彼女。その都度僕の心は荒波と化し、凄まじいうねりをあげる。
「あれは彼女の本心ではない」「これは夢だ」。どんなに強く否定したって、この人が一言何か言うだけで容易く崩れてしまう。
僕は、どうしてしまったんだろう。
彼女が僕を心配している。そう思い做したせいか、彼女の寄った眉根や笑顔のない口元、沈んだ語気は、僕を気遣っているものではないかと考えてしまう。
彼女の表情を見る度、彼女の声を聞く度、あらぬ思い違いやどうしようもない慢心をしそうになり、どうしたらいいのか分からなくなった。
視界の中心で凝然と立つ彼女は、やはり浮かない眼差しをしていて。
今度こそきちんとした返事をしよう。そう思うのに、微かに開いた唇から声が出ない。また、色々な思想がぐちゃぐちゃで、上手く言葉が選べなかった。
乱れる心情から目を逸らすが如く、僕は深く俯いた。
次こそは彼女にまともな返事をするんだ。心に決めて、精神を落ち着かせる。顔を見ないように俯いたおかげか、めちゃくちゃだった頭の働きが幾らかマシになった。
「……平気」
弱々しく消え入りそうな声だったが、僕は彼女の問いに答えることができた。すごく素っ気なく暗い返事になってしまったので、彼女に不快感を与えているかもしれない。そう思うと苦い気持ちがこみ上げてくる。
女の人に拒絶されたり、敵意を向けられたりするのには慣れているはずなのに。
嫌われたって、怖がられたって何ともないはずなのに。
彼女が僕へ辛辣にしようとも、忌避しようとも構わないはずなのに。
「本当に大丈夫ですか?」
どうしてだろう。
僕を気遣う、憂いた声音を聞くとほっとする。
彼女の唇から「拒絶」が放たれない事に、ひどく安堵していた。
なんとなく彼女の顔が見辛くて、僕は俯いたまま小さく頷く。彼女は先ほどより明るい音で「そうですか。それなら良かったです」と言った。
僕が「平気」だと告げ、安心したのだろうか。もしそうだとしたら、彼女はもの好きな女性だ。こんな僕の体調で一喜一憂するなんて。
(そんな態度をとられると、僕は──)
「兵士様、右手を怪我をされているようですね。雑菌が入って膿んでは大変です。よろしければ、お拭き致しましょうか?」
穏やかな声に呼び覚まされ、曇っていた脳内が急激に鮮明になった。
右手の怪我。「怪我」というには大げさな気はするが、酔ったアストラッドが椅子から落ちるのを庇って出来た擦り傷が右の手背にある。微量ながらに出血はあったが、既に血は止まりこびり付いていた。それを彼女は拭こうというのか。
女の人が僕に手当を申し出ている? 耳を疑うほど強烈な言葉。驚きに突き動かされ、顔を上げる。僕の焦点は明瞭に彼女へ定まった。
夜闇に紛れた黒い双眸には、敵意も、怯えも、怒りも、恐怖もなく、ただただ凪いでいて。彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
そうしてじっと見つめていると、彼女はにこりと微笑み、首をかしげた。僕の反応を促しているのか、それとも場の空気を和ませようとしているのか──どちらにせよ、柔和な表情に鼓動が大きく鳴る。
……目が、逸らせない。
長らく沈黙が僕たちを支配していたが、彼女がそれを破った。
「すみません。差し出がましかったですね」
心なしか萎れた声で謝罪され、焦りが生じる。
(気を遣わせてしまった。君は謝らなくていいのに、僕がこんなだから謝らせてしまった)
自分が情けなくなって、首を左右に振りながら下を向く。戸惑いはあるけれど、彼女の親切を捨て置くような事はしたくない。
「そんなこと、ない」
そう言うと、目の前の彼女は声音を一転させ、朗らかに口を開いた。
「そうですか。では、よろしいですか?」
柔らかな声に誘われるように、僕はゆっくりと頷く。
僕なんかの手当をしようとしているのか半信半疑だったが、どうやら彼女は本気らしい。鞄から布のような物を取り出し、水飲み場へとパタパタ走っていってしまった。
(──不思議な人)
スラリとした後ろ姿をぼんやりと眺める。夢か現か分からなくなりそうになった。
嫌な顔一つせず普通に話しかけてくるだけではなく、手当までしてくれようとする彼女。いつも予想を超える行動するので、僕は驚かされてばかりだ。
(だけど)
当惑に包まれた胸に、じんわりと、何か温かいものが広がってゆく。
(だけど、嬉しい)
ユリアンたちが僕を受け入れてくれたように、彼女もまた、僕を──……いや、違う。調子に乗るな。
「お待たせしました。失礼しますね」
彼女への興味や妙な期待が膨らむ裏で、同じくらい猜疑心が鈍く蠢く。
僕を心配したのも、手当しようとするのも、にこやかな表情も、明るげな声も……実は全て演技で、彼女にはそうせんとする目的があったら? 僕なんかに近付く利点はないと思うけど、手当のお礼を求めている、とか。
金色の巻き毛を揺らし長椅子の傍にしゃがんだ彼女の手元を見やれば、星の光に反射して水滴が瞬いた。水飲み場で布を濡らしてきたようだ。
疑いと嬉しさとに煩悶し、気付いた時にはしなやかな手が僕の右手に迫っていて。
(……!)
発作的に体が動いた。
成人してからこの方、同世代の女性に触れられた事など一切ない僕は、こちらへ伸びる彼女の手を思わず避けてしまったのだ。
手当をしてくれようとしている彼女へ失礼極まりなかったが、もう遅かった。
「すみません。ご迷惑でしたか?」
申し訳なさそうに謝り、布を持つ手を下げた彼女。
ああ、そんな曇った顔をさせるつもりじゃなかったのに。謝らせるつもりじゃなかったのに。
──自分が嫌で嫌でたまらない。
ひりつくような自己嫌悪で、自ずと体に力が入る。噛み締めた歯が音もなく疼いた。
訪れた静けさは、僕を追い詰めるばかりだった。
「迷惑ではない」と彼女に伝えたくて、でも声が出なくて、ゆるゆると首を横に振ることしかできず。
それでもこの人は僕を責めたり、顔を顰めたりしなかった。
彼女は僕へ自嘲に浸る間を与えず、再度静かに手を伸ばしてきた。右の手のひらにほんのりとした熱が灯り、同時にビクリと震えてしまう。触れられている箇所が温かい。
きゅ。と、添えられた手に力が込もる。女の人が僕に触れているという現象に、身が縮こまった。僕は今、かなり緊張しているようだ。
「大丈夫ですか?」
上目遣いで聞かれ、一つ頷く。何やらぎこちない動作になってしまった。
手のひら全体に温もりを感じ、それは緊張感だけでなく、不思議な心地良さをもたらした。
「痛かったら言ってくださいね」
ひやりとした湿った感触が手の甲に当たる。彼女は繊細な手つきで傷の周りを拭いていった。
力加減のされた指先の動きや、丁寧な布の使い方を見れば見るほど、自分が大切にされているのではないかと、優しくされているのではないかと思ってしまう。
じっと彼女の手を動きに見入っていたが、ただの小さな擦り傷を清めるのに長い時間はかからなかった。
「……よし」
呟きが零れ、温かな手がするりと離れていく。自分でもよく分からなかったけれど、それが妙に寂しかった。
「ハンカチを洗ってきます」
言って、水飲み場へ駆けて行く彼女の背をぼんやりと見送り、微かに温もりの残る右手に視線を落とす。
ひっそりと夜気に奪われてゆく熱が名残惜しくて、幻だったらどうしようと思って、僕はそっと左手を右手に這わせた。熱を引き止めるように、そして、温もりを確かめるかのように。
「お痛みがありますか」
少し遠くから声が飛んでくる。顔を上げれば、トットッ、と、足取り軽く彼女が戻ってきているのが見えた。
色々な感情がひっきりなしに巡っていて、なんだか頭が上手く回らない。
首を横に振ると、彼女は金色の巻き毛を揺らし再び長椅子の脇に膝をついた。
「それなら良いのですが……痛ければ我慢せずに言ってくださいね。失礼します」
陽だまりのように温かな手が僕の手をとる。慣れていないせいで、またもや反射的に体が強張ってしまった。彼女が不快に思わなければいいのだけど。
それにしても、傷口は拭き終えただろうに、これから何をしようというのだろう。
疑問に思っていたが、手早く布が巻かれ始めたので彼女が何をしようとしているかすぐに悟ることができた。
傷に菌が入らないよう、布を当ててくれているのだ。
(この布、彼女の私物なんだろうけど、僕なんかのために使っていいのかな)
大した傷でもないのにそこまでさせるのは気が引けたが、断る前に布が結び目を作っていたので言う機会を逃してしまった。
「あいにく、包帯は持ち合わせておりませんでしたので……代用でよければ私のハンカチをお使いください。帰宅されたら、念のために消毒をしておくといいかもしれません。ハンカチは捨てて頂いて結構です」
(これはハンカチだったんだ。そういえばそのくらいの大きさだな)
ぐるぐるしている脳でぼんやりと認識する。女性なのに私物を僕の血で汚し、更には僕の怪我を案じて私物を提供してくれるという事態に新たな戸惑いが頭をもたげた。
──本当に彼女は不思議な人。
夢を見ているようだった。
呆けて黒の瞳を見つめていると、すっと彼女が立ち上がる。
「夜は冷えますから、お体を壊さないうちに帰られた方がよろしいですよ。では」
にこり。
あの日、城で出会った時のように柔らかく笑い、頭を下げる彼女。
驚いて、瞬いた。
礼をしなければならないのは僕の方なのに、手当てをしてくれて「ありがとう」と言わなければならないのに。
……お礼を、言わなければ。
唇を開いてみたが、惨めなことに声が出ない。自分が嫌になる。彼女の本意が何にせよ、親切にしてもらってお礼一つ言えないなんて。
悔しくて、悲しかった。
彼女はくるりと僕に背を向け、歩き出す。煉瓦を踏む音が静穏な公園にコツコツと鳴り響いた。
「待って」と呼び止め、お礼が言えたならどんなに良いことか。だけど僕にはそれができなかった。
いつかまた会えるだろうか。会って礼が言えるだろうか。もっと話ができるだろうか。
遠ざかっていく彼女の背を目で追いながら、ふと、思う。
(彼女が婚約者だったらいいのに。そうすればまた会えるし、今日のお礼だって言えるのに)
──……彼女が婚約者だったらいいのに。
街中に消えていったあの人の面影を思い、僕は叶うはずのないおこがましい願いを胸に抱いた。




